01_隣人のイズミさん2
会話が途切れ、心地よい沈黙が流れた。僕は普段、誰かと会話するとき、常に沈黙に
「お、いい風だね。私はエアコンが苦手でね。夏でも、できる限り天然の風で過ごしたいという人間なんだよ。とはいえ、最近の夏の暑さは異常だ。青年、君はどうだい。夏、君はどう過ごしている?」
グラスに酒を注ぎ足すと、早くも一本目の缶が開いてしまった。酒の缶が開くごとに、イズミさんと過ごす時間もまた、減っているのだと僕は寂しくなった。
「夏、ですか。僕はエアコンがないと駄目ですね。ちょっとでも暑いと思ったら、五月からでもつけますよ」
「おや、君は現代っ子だね。もうふた月もしたら夏になるけど、何か予定はあるのかい? 夏祭り、花火大会、墓参り、君はこの夏、どうすごすかな」
さらっと短歌みたいなリズムでイズミさんは
「去年は多分、これといったことは何もしてません。今年も多分……」
「おやおや、いい若い者が予定無しかい? それは由々しき事態だよ、君。早急に予定を立てたまえよ」
早急に予定を立てる前に、四捨五入で三十になる自分が、果たしていい若い者であろうかと、そこが気がかりだった。
「そうはいっても」
僕は考えを巡らせてみたものの、なかなか良い案は思いつかなかった。
「なら」
イズミさんはグラスを置き、ポテトサラダを食べると、口角を上げて僕を見た。
「お姉さんと何かするかい?」
顔が
「いいですね。何しましょうか」
「まあまあ、そう慌てないでくれ、青年。そうだな。夏らしくて、健全で、ちょっと新鮮な体験がいいね。こう、あ、そうそう、それって夏! みたいな。何かないかな」
イズミさんはそう言ったきり、視線を上げて考え込んでいた。僕は何か考えるふりをしながら、彼女の滑らかな
「青年、いいことを思いついたよ」
「え、なんです?」
僕はしらを切るようにわざとらしく聞き返した。
「そうめんだ」
「そうめん?」
バーベキューでも海水浴でも、山登りでもないところがイズミさんらしかった。
「そう。ぴったりじゃないか。夏らしくて、健全で」
「でもそれ、新鮮な体験ですかね?」
「まあ、少なくとも私にとってはそうだよ。私はね、考えてみればここ数年、そうめんを食べていないんだ。君はどうだい?」
そう言われて僕はしばらくの間、そうめんどころか冷やし中華にも冷麺にもかき氷にすら縁がなかった夏を過ごしていたことを思いだした。
「そういえば、食べてないです」
「なら、そうしよう。今年の夏はお姉さんとそうめんパーティーだ」
彼女の笑みを見て、夏まで生きていようと、大げさでなく、そう思った。
気がつくと、更けていた夜は一層更け、酔いは回り、ポテトサラダがなくなっていた。イズミさんの頬にほんの少し、赤みがさしているのを見て、彼女にも酔いが回っているのだと分かった。
「ねえ、イズミさん」
「なんだい、青年」
「イズミさんってなん歳なんですか」
酔いの
「レディに年齢を聞くのはご
「じゃあ、イズミさんって、普段、何してるんですか」
「秘密の方がミステリアスでいいだろ?」
「付き合ってる人とか、いるんですか?」
「君はどう思うんだい?」
何を聞いても駄目であった。
「おいおい、青年。そんな顔しないでくれたまえよ」
缶からグラスに注いだ酒が、最後であった。
「やけに今日の君は私の素性が気になるようだね」
「だって、イズミさんと出会ってしばらく経つのに、僕、なんにもイズミさんのこと知らないなって思って。ふと、思っただけですけど」
その言葉に、
「うーん、それもそうか。よし、じゃあ青年。ひとつだけ、君の質問に素直に答えよう。ひとつだけだぞ」
イズミさんはハイボールを飲みながら人差し指を立てた。
「何を質問するか、よーく考えてくれ」
僕はここ数か月で一番、頭を使ったのではないかと思える程、考えていた。しかし、アルコールの回っている脳はなかなか思うように働いてくれなかった。単に情報を引きだすだけでなく、僕自身の知らないイズミさんが垣間見えるような、そんな質問を考えていた。やがて思い当たったのは彼女と初めて出会った時のことだった。
「
僕の脳裏には去年の秋の終わり、夜の廊下で彼女から声をかけられたことが
“やあ、青年。隣の部屋のイズミだ”
“今日はこれから暇かい? よかったら、部屋で飲まないか”
幾ら隣人であっても、こんなにも大胆に人を誘えるものであろうかと驚いた。しかし、同時に、かねてから彼女の
「青年」
イズミさんが前のめりになった。整った顔立ちが迫り、鼓動が速くなったような気がした。
「いい質問だ」
彼女はそう言って親指を立てた。
「もっとも、私にとってはまずい質問だね。核心に迫ってる。ま、素直に答えるという約束だったから、それを守ることにするよ。私があの日、青年に声をかけたのはね」
僕は
「天使になりたかったのさ」
「天……使?」
まるで分からなかった。数あるイズミさんの迷言の中でも、特に難解な部類であった。
戸惑う僕を見ながら、イズミさんはいつもどおり、にやけていた。
「知っているかい、青年。人はね、毎日ひとり、天使と出会うことになっているんだよ」
「どういうことです?」
聞けば聞く程、分からなかった。
「日常には、些細な幸せを与えてくれる存在がいるというわけさ。それは道ですれ違う美人なOLさんかもしれないし、落とし物を拾ってくれたトラックの運転手さんかもしれないし、ふと入った喫茶店で美味しい珈琲を入れてくれるマスターかもしれないし、道端で笑みを絶やさないお地蔵さんかもしれない。とにかく、毎日ひとりの天使と、人は出会うのさ」
イズミさんは笑顔を浮かべながら、髪を耳にかけた。
「でもあの日の君、いや、正確には、私はそれ以前に、なん度か君と言葉を交わしていたけれど、とにかく青年はスーパーの鮮魚コーナーで深夜まで売れ残った
そんな発想が生まれる人間が果たしているのだろうかと、僕は疑っていた。そしてその発想に至ったとて、そう簡単に実行できるのかとも疑っていた。しかし、その疑念はたったひと言で片付けられるような気もしていた。つまり、イズミさんだから、と。結局、僕はまだ、イズミさんのことを良く知らないのであった。
「それが、僕に声をかけてくれた理由ですか」
「そうさ。そして、私が素性を君に明かさない理由でもある。だって、仮に、天使が実は三十五歳でした、とか、休日は彼氏とデートしてます、とか興ざめだろ? 実にいい質問だったじゃないか。君の聞きたいことは全て聞けたんじゃないかい?」
到底これが全てではないと思ったものの、まるっきり嘘の話とも思えなかった。結局、僕は何処までが本当の話か、分からないまま、グラスの酒を飲み干した。
「じゃ、青年。おやすみ」
「はい。今日もありがとうございました」
「明日はどんな天使と会えるか、楽しみにしているといいよ。あと、今年の夏も、ね」
散らかった自室に戻ると、いきなり現実に連れ戻されたような気がした。
「毎日、ひとりの天使、か」
思い返してみると、イズミさんが僕に声をかけてくれた頃、確かに僕は面白くない日々を過ごしていた。毎日がただ、家と職場の往復だけで、職場で時折怒号を聞く以外には、大きな苦痛も無ければ、小さな幸いも無かった。本音を言えば、食べてゆくためにやりたくもない仕事を日々こなさなければならないこの世界を、生きている
結局、今日、イズミさんについて新たに分かったことはほとんど何もなかった。しかし、捉えどころのない、ちょっと変な彼女が隣の部屋に居るかと思うと、自然、笑みが浮かんだ。窓の外ではわずか、空が明るくなり始めていた。
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