隣人のイズミさん
時津橋士
01_隣人のイズミさん1
午前一時。僕がアルバイトからアパートへ帰宅すると、玄関戸の郵便受けに紙が
“barイズミ、本日開店
見慣れた達筆の文字を目にした僕は自室に荷物を置くと、近所のコンビニで数本の酒とつまみ、それからプリンをひとつだけ買うと、アパートに戻り、隣室のチャイムを鳴らした。
「やあ、青年。待ってたよ。今日は
中から出てきたのは背の高い、ショートカットのイズミさん。今日はパーカーにジーンズ姿であった。目尻の下にあるほくろが
「さ、入って」
彼女にそう
「いつもどおり、その辺に座ってくれたまえ。ウェルカムドリンクを作ろう。ジンとウイスキ、どちらがいい?」
「じゃあ、ジンで」
彼女の部屋にはいつもジンとウイスキーの
「さ、できた、乾杯しよう。少し濃かったかもしれないが、君なら大丈夫だろう」
イズミさんは机に二つの小さなグラスを置くと、僕の隣に腰かけた。柔軟剤のような、シャンプーのような香りがした。
「じゃ、今日もお疲れ様」
彼女の声に、僕たちはグラスをぶつけた。ウェルカムドリンクはかすかにレモンの香りがしながらも、力強いジンのアルコールが感じられた。
「あ、そうだ。イズミさん、これ」
僕は手元の袋からプリンを取りだした。彼女の好みは分からないものの、僕は月になん度か、彼女の部屋で開催される飲み会に無難な甘味を持参するようにしていたのだった。
「おや、いつもすまないね。ありがとう」
イズミさんは立ちあがり、冷蔵庫にプリンを入れた。座ったままその様子を見て、僕は彼女の足が恐ろしく長いことを再確認しながら、カルパスの封を切っていた。
「あ、そうだ、青年。余りものですまないがこんなのもある。よかったら食べてみてくれ」
彼女は冷蔵庫からポテトサラダの盛られた皿を取りだした。レタスが敷かれ、黒コショウのちりばめられたそれは、余りものというには整いすぎた見た目であった。
「それで、青年。今日はどうだった?」
イズミさんは僕の隣に再び腰を下ろし、片膝を立てると、その切れ長な目で僕を見た。
「別に、これといったこともなかったですけどね。バイトで
「おや、そうかい。まあ、時にはやらかすこともあるさ」
「でも僕、一週間前にも同じようなミスしたんですよ」
ポテトサラダをひと口食べてみると、マヨネーズの強くない、さっぱりとした、僕の好きな味だった。
「おや、一週間前のことを覚えているのかい? 青年は記憶力がいいんだね」
「そうですかね」
「そうとも。私なんか、三日前はおろか、昨日何をしたかも、意識しないと思いだせないからね。それに、同じミスをなん度もしてしまうのも、仕方ないさ」
世間の通念とは正反対のことを、イズミさんは言ってのけた。
「でも、よく言いません? 同じミスは繰り返すなって」
「そりゃあ、君、理想論だろう? それか、何処かで聞きかじったことをちょっと地位のある人間がそれらしく言っているだけのことさ。大体、人間が同じミスを繰り返さないような存在なら、人類はもっと進歩している
「そうですかね」
「そうそう。あんまり世間とやらで信じられている価値観や、誰かに教えられた理屈にとらわれ過ぎるのも危険だと思うよ。お姉さんは」
イズミさんは僕の手元にあったカルパスをその白い指先でさらい、僕にウインクを撃った。やはりイズミさんは少し変なのかもしれないという予測を、僕は確かなものにしつつあった。
「まあまあ、暗くなりそうな話はこの辺にして。どうだい、青年。最近何か面白いことはなかったかい? 嫌なことを思いだすより、楽しいことを思いだす方が精神衛生にもいい。記憶力の良い君なら、何か覚えているだろう?」
喉が渇いていた僕は早々にウェルカムドリンクを飲み終え、空いた水玉模様のグラスに安い缶チューハイを注ぎながら、記憶を
「駄目ですね。同じような毎日ばかりで」
ひと口飲んだ酒はいかにも人工的な味で、イズミさんお手製のウェルカムドリンクの後に口にするものではなかった。
「おや、それは一大事だにぇ」
イズミさんは手早くハイボールを作り、ウイスキーの瓶とペットボトルの炭酸水を持って戻ってきた。
「そんな青年にお姉さんがいいことを教えよう。日々にちょっとしたアクセントを与える方法があるんだ。それも数百円でね」
そんな方法があるとも思えなかったが、イズミさんの発想であれば、と、僕は妙に期待を寄せながらポテトサラダを食べていた。イズミさんがハイボールを飲むと、彼女の喉が動くのが分かった。それはほんの少し、グロテスクなようでありながら、生々しいような魅力で僕の胸に迫った。
「青年、電車に乗りたまえ」
「へ?」
イズミさんは立てた膝に腕を乗せたまま、僕の顔を覗いた。
「電車、電車だよ。トレインだ。片道で、そう、三百円くらいの駅まで切符を買うんだ」
「それで、何処へ何をしに行くんです?」
「何処に行くかは問題じゃないよ。大事なのは君が電車に乗ることだ」
まだ、彼女の言おうとしていることが分からなかった。
「いいかい、青年。電車に乗って、街並みを見ていてごらんよ。妄想が
「それだけですか?」
「ああ、それだけさ。でも、君はそこで発見するだろう。何処にだって人が生きている。この世界には
幼いころの僕と同じような忍者の妄想を、恐らく年上の彼女は
僕は酒を飲みながら、それとなく部屋を見回し、彼女にまつわる情報を探してみた。しかし、ミニマリストの見本のようなその部屋には何もなかった。必要最小限を超えたものといえば、ガラス瓶に中に竹串が何本も入ったような格好のルームフレグランスと、いつも僕が目にとめる、窓辺に置かれた小さな
「こらこら、青年。あんまり乙女の部屋をじっくりと観察するものじゃないよ。見かけによらず、悪い子だにぇ」
イズミさんはハイボール片手に
「ええと、すみません」
「謝ることはないさ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます