隣人のイズミさん

時津橋士

01_隣人のイズミさん1

 午前一時。僕がアルバイトからアパートへ帰宅すると、玄関戸の郵便受けに紙がはさまっていた。もしやと思いながら二つ折りになったそれを開いてみた。

“barイズミ、本日開店なり。暇なら酒持ってこられたし。午前三時ラストオーダー”

見慣れた達筆の文字を目にした僕は自室に荷物を置くと、近所のコンビニで数本の酒とつまみ、それからプリンをひとつだけ買うと、アパートに戻り、隣室のチャイムを鳴らした。

「やあ、青年。待ってたよ。今日は随分ずいぶんと遅かったようだね」

中から出てきたのは背の高い、ショートカットのイズミさん。今日はパーカーにジーンズ姿であった。目尻の下にあるほくろが何処どこ妖艶ようえんな雰囲気をかもしだしているような気がした。

「さ、入って」

彼女にそううながされ、一歩中へ入ると整理の行き届いた室内。最低限の物しかない部屋の中央に、小さなカーペットとクッション、机があった。ペットボトルや脱ぎ散らかされた衣類に床を埋め尽くされた僕の部屋とはまるで違い、随分と広く感じられた。僕はいつでも彼女の部屋に招待される度にここが本当に自分の部屋と同じような間取りであるのかと疑問を抱いていた。

「いつもどおり、その辺に座ってくれたまえ。ウェルカムドリンクを作ろう。ジンとウイスキ、どちらがいい?」

「じゃあ、ジンで」

彼女の部屋にはいつもジンとウイスキーのびんがあるのを、僕は知っていた。そして、イズミさんがジンを飲むところを、見たことがなかった。僕はクッションの隣に腰を下ろしながらウェルカムドリンクとやらを作るイズミさんの横顔を見ていた。彼女と知り合ってからそろそろ半年になろうというものの、僕はこの美人なお姉さんのことを何も知らなかった。年齢も、職業も、故郷も、どうしてあの日、僕に声をかけてくれたのかも。知っていることといえば彼女がイズミという名であるということだけだった。これすら、苗字なのか名前なのか、知らなかった。ただ、僕は彼女が名乗ったように、彼女のことをイズミさんと呼んでいた。

「さ、できた、乾杯しよう。少し濃かったかもしれないが、君なら大丈夫だろう」

イズミさんは机に二つの小さなグラスを置くと、僕の隣に腰かけた。柔軟剤のような、シャンプーのような香りがした。

「じゃ、今日もお疲れ様」

彼女の声に、僕たちはグラスをぶつけた。ウェルカムドリンクはかすかにレモンの香りがしながらも、力強いジンのアルコールが感じられた。

「あ、そうだ。イズミさん、これ」

僕は手元の袋からプリンを取りだした。彼女の好みは分からないものの、僕は月になん度か、彼女の部屋で開催される飲み会に無難な甘味を持参するようにしていたのだった。

「おや、いつもすまないね。ありがとう」

イズミさんは立ちあがり、冷蔵庫にプリンを入れた。座ったままその様子を見て、僕は彼女の足が恐ろしく長いことを再確認しながら、カルパスの封を切っていた。

「あ、そうだ、青年。余りものですまないがこんなのもある。よかったら食べてみてくれ」

彼女は冷蔵庫からポテトサラダの盛られた皿を取りだした。レタスが敷かれ、黒コショウのちりばめられたそれは、余りものというには整いすぎた見た目であった。

「それで、青年。今日はどうだった?」

イズミさんは僕の隣に再び腰を下ろし、片膝を立てると、その切れ長な目で僕を見た。

「別に、これといったこともなかったですけどね。バイトでいくつかやらかした以外は」

「おや、そうかい。まあ、時にはやらかすこともあるさ」

「でも僕、一週間前にも同じようなミスしたんですよ」

ポテトサラダをひと口食べてみると、マヨネーズの強くない、さっぱりとした、僕の好きな味だった。

「おや、一週間前のことを覚えているのかい? 青年は記憶力がいいんだね」

「そうですかね」

「そうとも。私なんか、三日前はおろか、昨日何をしたかも、意識しないと思いだせないからね。それに、同じミスをなん度もしてしまうのも、仕方ないさ」

世間の通念とは正反対のことを、イズミさんは言ってのけた。

「でも、よく言いません? 同じミスは繰り返すなって」

「そりゃあ、君、理想論だろう? それか、何処かで聞きかじったことをちょっと地位のある人間がそれらしく言っているだけのことさ。大体、人間が同じミスを繰り返さないような存在なら、人類はもっと進歩しているはずさ」

「そうですかね」

「そうそう。あんまり世間とやらで信じられている価値観や、誰かに教えられた理屈にとらわれ過ぎるのも危険だと思うよ。お姉さんは」

イズミさんは僕の手元にあったカルパスをその白い指先でさらい、僕にウインクを撃った。やはりイズミさんは少し変なのかもしれないという予測を、僕は確かなものにしつつあった。

「まあまあ、暗くなりそうな話はこの辺にして。どうだい、青年。最近何か面白いことはなかったかい? 嫌なことを思いだすより、楽しいことを思いだす方が精神衛生にもいい。記憶力の良い君なら、何か覚えているだろう?」

喉が渇いていた僕は早々にウェルカムドリンクを飲み終え、空いた水玉模様のグラスに安い缶チューハイを注ぎながら、記憶をさかのぼった。しかし、たったひとつさえ面白いことは思い浮かばなかった。

「駄目ですね。同じような毎日ばかりで」

ひと口飲んだ酒はいかにも人工的な味で、イズミさんお手製のウェルカムドリンクの後に口にするものではなかった。

「おや、それは一大事だにぇ」

イズミさんは手早くハイボールを作り、ウイスキーの瓶とペットボトルの炭酸水を持って戻ってきた。

「そんな青年にお姉さんがいいことを教えよう。日々にちょっとしたアクセントを与える方法があるんだ。それも数百円でね」

そんな方法があるとも思えなかったが、イズミさんの発想であれば、と、僕は妙に期待を寄せながらポテトサラダを食べていた。イズミさんがハイボールを飲むと、彼女の喉が動くのが分かった。それはほんの少し、グロテスクなようでありながら、生々しいような魅力で僕の胸に迫った。

「青年、電車に乗りたまえ」

「へ?」

イズミさんは立てた膝に腕を乗せたまま、僕の顔を覗いた。

「電車、電車だよ。トレインだ。片道で、そう、三百円くらいの駅まで切符を買うんだ」

「それで、何処へ何をしに行くんです?」

「何処に行くかは問題じゃないよ。大事なのは君が電車に乗ることだ」

まだ、彼女の言おうとしていることが分からなかった。

「いいかい、青年。電車に乗って、街並みを見ていてごらんよ。妄想がはかどるじゃないか。あの家に住んでいるのはどんな家族だろう、あのビルには何が入っているだろう、あの山の向こうに何があるだろう、次の駅はなんという名前だろう。どんなことでもいい。妄想するんだ。そこには何があるだろうってね」

抑揚よくようのある彼女の言葉が、耳に心地よかった。

「それだけですか?」

「ああ、それだけさ。でも、君はそこで発見するだろう。何処にだって人が生きている。この世界には幾千万いくせんまんの生き方があるんだ。自分がこの先の人生、決して交わらない生き方が、そこにはあるんだよ。青年、君が思うより、世界は広い。自分が世界だと思っていたものなんて、ほんの部分的なものだって気づくことだろう。それだけで、日々が少しだけ楽しくなるものだよ。あ、そうだ。電車に乗ってさ、窓の外に忍者を投影してみるのもいいね。電車と並走するように屋根から屋根へ飛び移る彼の姿は、なかなかに面白い。私もたまにするんだ」

 幼いころの僕と同じような忍者の妄想を、恐らく年上の彼女はいまだにしているらしかった。しかし、イズミさんならそれくらいはするだろうと、特に驚きもしなかった。初めて出会った頃から、彼女は今と変わらず、少し変であった。独特の語り口調、いつまで経っても僕を“青年”と呼ぶこと、なかなか素性を明かそうとしないこと。しかしそれら全てが彼女の魅力であるとも思っていた。そして、彼女に魅力を感じる程に、そんな彼女のことが知りたくなった。

 僕は酒を飲みながら、それとなく部屋を見回し、彼女にまつわる情報を探してみた。しかし、ミニマリストの見本のようなその部屋には何もなかった。必要最小限を超えたものといえば、ガラス瓶に中に竹串が何本も入ったような格好のルームフレグランスと、いつも僕が目にとめる、窓辺に置かれた小さなこけのテラリウムだけであった。僕はこの部屋に以前彼女が着ていた一着のスーツでもあれば、彼女の正体について何らかの妄想を繰り広げることができたかもしれなかった。そちらの方が、電車で世界に思いをせるより、余程、面白いようにも思えた。

「こらこら、青年。あんまり乙女の部屋をじっくりと観察するものじゃないよ。見かけによらず、悪い子だにぇ」

イズミさんはハイボール片手に悪戯いたずらな笑みを見せていた。

「ええと、すみません」

「謝ることはないさ」

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