02_散歩のイズミさん1

 五月のる深夜。僕はイズミさんに招待され、彼女の部屋で例のごとく、缶チューハイを飲んでいた。

「だからね、青年。どちらかひとつに決める必要なんてないんだ。きぬには絹の、木綿もめんには木綿の良さがあるんだから。もっとも、その日の気分や食べる時間帯ということもある。深夜に手を加えずに食べるというなら、私は絹をすよ。空腹が酷いなら、木綿の方が食べごたえはある。そして豆腐にはいろんな調理法があるね。湯豆腐に麻婆豆腐、そしてもちろん、豆腐ハンバーグ」

今日のイズミさんは上下ジャージ姿で、少し反り身になって、豆腐について熱弁していた。そんな話を、僕はイズミさんお手製の豆腐ハンバーグを食べながら聞いていた。

「しかし、やはりなんといっても、豆腐は冷奴で食べるに限るね。そこで重要になるものが、何か分かるかい、青年」

唐突に話を振られ、僕は豆腐ハンバーグを喉に詰まらせるところだった。

「え、えーと。醤油、でしょうか」

「悪くない着眼点だよ。でももう一歩、外れたね」

イズミさんは楽しそうに、卓上で二杯目のハイボールを作っていた。

「薬味だよ。や・く・み」

彼女は言葉に合わせて指を振りながら最後にウインクを撃った。

「薬味?」

「そう。なんなら、そちらが主役で豆腐はそれの引き立て役だとする意見もある。そこで青年にクイズだ」

「随分突然ですね」

そう言いながらも、私は少しずつ、イズミさんのペースに適応しつつあった。

「当然さ、クイズは常に突然であるべしと、ワールドオフィシャルクイズブックにも載っている。もし、正解すれば、君のお願いをひとつ、叶えてあげようじゃないか」

「あ、言いましたね」

僕はにわかに、やる気になった。この勝負に勝ったあかつきにはイズミさんの年齢かフルネームをたずねようと考えていた。流石に恋人の有無について尋ねるのは気が引けた。しかし、にやけながら豆腐ハンバーグを頬張るイズミさんの様子が、このクイズとやらが相当に難易度の高いものだと物語っていた。

「言ったとも。心して答えたまえよ。じゃあ、出題だ。冷奴になんでもひとつ、薬味を添えられるとしたら、私は何を選ぶか。さあ、なんだと思う?」

僕は今日程、薬味の種類を知らなかったことを後悔した日は無いと確信しながらアルコールで動きの鈍った頭を働かせた。

 相手はイズミさんだ。王道の薬味であるネギやショウガが正解であるはずはない。きっと、普通の人であれば冷奴に添えないようなもの。どんな薬味だ? 胡麻ごま? 多分違う。鰹節? いや、鰹節は薬味か? じゃあ、紅ショウガ、てんかす? いや、流石に豆腐には合わないだろう。あとは、海苔、梅干し、ワサビ? この辺りなら豆腐に合わせても不自然は無いけれど。

 ふと目を上げると、イズミさんが僕の悩む様子を見ながら、美味しそうにハイボールを飲んでいた。

「どうだい、青年。それらしい薬味は見つかったかい?」

ちょっと悔しくなってきた僕は目を閉じ、イズミさんが冷奴を食べているところを鮮明に思い描いた。

 この部屋でひとり、冷奴に向かうイズミさん。いつも見るピンクに縁取りされた皿に乗った豆腐に醤油をかけるイズミさん。箸を入れて、豆腐をひと口大に切って、口元へ運ぶイズミさん。その豆腐には、何が乗っている? 何が、乗って……。想像の中でイズミさんは豆腐を口へ入れてしまった。あ。想像は続き、イズミさんの薄い唇に焦点が向けられた。彼女の舌先が顔を出し、口元についていたほんの小さな豆腐の欠片を舐めとった。

 僕は思わず目を開けた。何か見てはいけないようなものを見てしまったような気がした。

「どうしたんだい、青年? 何か思いついたのかい?」

にやりと白い歯を見せたイズミさんに、僕の良からぬ妄想が覗き見られた気がした。

「大葉、です」

僕は観念したように、なんの期待もしないまま、今日、アルバイト先のスーパーで見た薬味の名を口にした。

「おお!」

イズミさんはそんな声をあげると、ぱちんと両手を合わせた。

「青年!」

「まさか、当たったんですか?」

「いや、外れ」

「なんだ」

当然の結末であったが、一瞬でも期待を持たされた僕は落胆しないではいられなかった。

「じゃあ、なんですか、今の“おお”っていうのは」

僕は悔し紛れに抗議した。

「すまないね。期待させてしまったかな。いや、実は次に冷奴を食べる時の薬味として大葉を候補に挙げていたんだよ。まさか青年の口から大葉が挙がるとは。恐れ入ったよ。私たちの思考回路は似ているのかもしれないね」

そう言われて、悪い気はしなかった。イズミさんの片鱗へんりんが僕自身の中にもあるかもしれないと知って、嬉しくすらあった。

「仲間だね、青年」

イズミさんは勝手に僕の持っていたグラスと乾杯した。僕は、温かい、名前の知らない感情がこみ上げてくるのを感じていた。

「それで、なんなんですか」

「何がだい?」

「正解ですよ。クイズの」

「ああ、クイズね。クイズクイズ」

イズミさんは早くも僕との勝負を忘れていたようだった。

「ミョウガさ」

「ミョウガ……」

思いつかなかった薬味であった。しかし、ちょっと変なイズミさんらしい解答であるような気がした

「青年におすすめしよう。あのつぼみのような塊を一本丸々刻んで、豆腐を埋め尽くす程まぶして、醤油を垂らして食べてみたまえ。唯一無二の香りは昇天ものだよ」

「そうですかねえ」

「おや、青年。お姉さんのことが信用できないのかにぇ」

「いや、そういうわけじゃないですけど」

僕は幼い頃、父親が大量のミョウガに鰹節をかけて食べていたことを思いだしていた。そこから漂ってくるカメムシにも似たような匂いが、悪い意味で印象的だった。そこから現在に至るまで、僕はそう多くないミョウガとの接点を意図して遠ざけてきたのだった。

「なんかちょっと、苦手意識あるんですよね、ミョウガって」

「あ、さては君もミョウガの匂いとカメムシの匂いを区別できないというのかな」

「まあ」

僕は手元で缶チューハイを開けながら、イズミさんの好物らしいミョウガの味を知りたくなっていた。

「でも青年。一度食べてみたらその考えも変わるかもしれないよ?」

「ですかね?」

「今日、豆腐ハンバーグ美味しいって言ってくれたね?」

「え、はい。とても」

「入ってるよ」

「え?」

「中にミョウガ、入ってるよ」

「へ」

僕は皿に一切れだけ残っていた豆腐ハンバーグに目を落とした。

「ショウガみたいな味しないかい?」

「します」

「それ、ミョウガ」

イズミさんは今日二回目のウインクを撃った。


 とうとう最後の一本になってしまった缶に、酒はわずかしか残っていなかった。しかし僕はまだ、イズミさんと話していたかった。何か話題をと考えている僕の隣で、イズミさんはジャージのチャックを開けたり閉じたりして遊んでいた。彼女の白いTシャツが覗く度に、僕は目のやり場に困った。

「そういえば、イズミさん。僕、電車乗りましたよ」

「おお、そうかねそうかね。妄想は楽しめたかい?」

「ええ、まあ。景色を見て、そこにどんな人がいるんだろうって考えるの、少し楽しかったです」

「それは何よりだ。でも、そう言う割には青年、あんまりハッピーな表情でないようにも見えるけど、どうかしたのかな」

首を傾げながら、イズミさんはあくまでもさりげない口調でそう尋ねた。こんな時、僕はいつでもイズミさんになら打ち明けてもいいかもしれないと考えてしまうのだった。同時にこれは僕の甘えではないかもしれないとも思っていた。

「このままでいいのかなって、そんなことも考えてしまいました」

「このままっていうのは?」

そう尋ねながらも、イズミさんはこれから僕の言おうとしていることの半分以上を分かっているような顔をしていた。

「就職した会社を一年もしないでやめて、アルバイトで生活している状況が、です。僕が電車で見た景色の中にはたくさんのまともな人がいて、まともな生活があって。そんな中で僕の生活が、ちょっと、みじめって程でもないのかもしれないけど、良くないような気がしたんです」

イズミさんは空いたグラスに半分程のハイボールを作って、箸で混ぜていた。

「妄想は大いに結構。人生を豊かにしてくれるからね。でも、思い込みは危険だよ、青年」

「思い込み、ですか?」

缶からグラスに注いだ最後の酒はわずかしかなかった。

「思い込みは怖いよ、青年。特に、私の知っている限り、君はそれに捕らわれやすいようだからね」

「そうですかね」

「少なくとも、私はそう思うけどね」

イズミさんは立ちあがると冷蔵庫からコーラを持ってきた。

「飲みたまえ、青年。何か手元に飲み物がないと心もとないだろう」

彼女はアシンメトリ―な前髪を揺らしながら笑顔を作った。

「で、どうやら君は電車から見た景色の中に随分とまともな人たちを妄想したそうじゃないか。でも、それは果たして本当かな? 世の中には案外、君が思っているようなまともじゃない人間がたくさんいるかもしれないよ。一見してまともに見える人も、決してまともじゃなかったりするものだよ。まともに見える人もまた、その人にとってのまともに見える人に憧れているんじゃないかな」

まとも、という言葉がゲシュタルト崩壊してきた気がした。僕は酒を飲み干し、グラスにコーラを注いだ。

「さて、そんなまともボーイにお姉さんが二つ、助言を与えよう」

イズミさんはピースサインを作るようにして私の目の前に指を二本突きだした。

ずはひとつ。自分に許可を与えるんだ」

「許可、というと?」

ひと口飲んだコーラはアルコールに慣れた僕の口に刺激の少ない甘みを与えた。

「つまり、これでいいんだっていう許可さ。自分が思うまともでなかったとしても、ひとまずはこれでいいんだという許可。青年のように思い込みに捕らわれやすい人を最も許していない存在は自分自身だ。仮に周囲がどれだけ許可を与えていたとしても、自分だけが許可を与えていないことで苦しむ、という場合もあるだろうね」

イズミさんの言おうとしていることが、まるで分からないではなかった。しかし、僕はその言葉を聞いてさえ、自分に許可を与えることを躊躇ちゅうちょしていた。

「でも、イズミさん」

「ん?」

「いいんですかね。自分に許可を与えるなんてこと、してしまって。なんだか、それをきっかけに僕が堕落だらくしていくような、自分を甘やかしてしまうような気がするんです」

いつでも僕の言葉を受け止めてくれるイズミさんにであれば、どんな疑問も向けられた。しかし、やはり、それは僕の甘えかもしれなかった。

「そりゃあ、青年。私は君だからこう言ったんだ。誰にでも同じようなことを言うお姉さんじゃないよ」

嬉しかった。

「君は自分に厳しい性格をしているね。だからこそまともに見える人たちを見て、そんなに悩んでいるんだよ。そんな人こそ、先ずは自分を許す方がいいと、お姉さんは思うな。自分でちょっと甘すぎると思うぐらいがちょうどいいのさ。ミルクセーキみたいにね。その上で、本当に変化が必要なら、青年は自ずとそうするだろうさ」

未だ、自分を許すことに抵抗があったものの、僕はイズミさんが言うのであれば間違いはないだろうと、納得しつつある自分を発見していた。

「さて、二つ目だ。心して聞きたまえよ、青年」

イズミさんはにやけながら勿体もったいを付けるとハイボールをゆっくり飲んだ。僕は彼女の口からどんな言葉が出るだろうと期待しながら待っていた。

「青年、例外を見つけたまえ」

やはり、直ぐには真意の分からない言葉だった。

「今の君は、自分の中にある価値観に悩んでいるんだ。自分はこうあるべき、まともな人間はこうでなければいけない。でもね、その価値観の外にだって、世界はある。そんな例外を知れば、君の価値観は変化して、自分を許すことができるようになるかもしれない」

自分の価値観の例外という言葉から真っ先に想像したのはイズミさんだった。

「例えば君はさっき、アルバイトで生活している状況が良くないといっていたけれど、それは本当かな? 世間には君以上の年齢でも、アルバイトで生計を立てている人がいくらもいるよ? 実際、私もそんな人を知っている。そして彼らは別に、不幸ではないように見えるよ。だからさ、青年。例外を見つけたまえ。大丈夫さ」

イズミさんの言葉は、いつでも僕に大きな安心感を与えてくれた。

「例外、か。探してみるのも、いいのかもしれませんね」

「そうとも。じゃ、行こうか」

イズミさんはハイボールを飲み干して立ちあがった。

「え、行くって?」

「例外探しのお散歩。悪くないと思うよ。どう?」

唐突な誘いに驚きながらも、僕は少しずつ、まだイズミさんといられるという喜びが湧き上がってくるのを感じていた。

「心配はいらないよ。幽霊でも河童でも不審者でも、出てきたらお姉さんが蹴とばしてあげるよ。こう見えて、蹴りには自信があるんだ」

イズミさんはその場でその長い脚で蹴りを繰りだしていた。かなりの量のハイボールを飲んでいるはずのイズミさんの体幹は少しもぶれていなかった。僕は河童や不審者はともかく、幽霊に蹴りが通じるだろうかと考えていた。


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