第3話(1/3) 五人目 その1
潮は天幕の入口の布をくぐった。まとわりつくような薄暗い空気の中に、ひとりの人影が立っていた。
外の光が布越しにぼんやりと差し込み、埃の舞う光の柱が幾筋か地面に落ちている。その奥で、リタが机の前で微動だにせず潮を見つめていた。
「ようこそ」
低く、揺るぎない声で迎えられた。
「……来たで」
潮は一瞬、気圧されそうになる。天幕の中という閉じた空間、そしてリタの放つ張りつめた空気が、自然と背筋に力を走らせた。空手の試合で、強い相手と向き合う時のあの感覚だ。
上半身と四肢にまとった革の甲冑は、使い込まれた革特有のしなやかさを湛えながらも、艶めくほど丹念に磨き込まれていた。短く刈り込まれた黒髪、長いもみあげ。切れ長の目が、暗がりの中でも鋭く光り、潮をまっすぐに見据えている。
潮は数歩歩み寄り、手のひらに握っていた石を、机の上に置いた。石は鈍い音を立てて転がり、止まった。
「これが欲しいんやろ?」
リタの目が、机の上の石へと一瞬動く。それから再び潮に戻る。表情は変わらない。
「ほな、うちはこれ、置いて帰るから。あんたらで勝手にやったらええ」
潮はそう言って、くるりと踵を返した。一歩、二歩。
「待て」
背中に響く声は、怒鳴りでも威圧でもなかった。静かで、冷たく、それでいて潮の足を地面に釘付けにするような重みを持っていた。
潮はゆっくりと振り返る。
リタは机から離れ、一歩、潮の方へ踏み出していた。甲冑の革がきしむ微かな音が、静まり返った天幕の中に響く。
「おまえがそれを置いていける立場ではない」
潮は眉をひそめた。「は?」
「石がおまえを選んだのだ」
「選ぶ?石が?」
潮の声には、思わず嘲笑が混じった。
「いや、石ころやで……あんた、頭おかしいんとちゃう?」
リタは潮の嘲りに動じない。むしろ、その目はますます真剣さを増していた。
「おまえも、何か感じなかったか?」
感じた。
ポケットの中で、いつの間にか戻っていた重み。手に取った時の、冷たいのにどこか温かい感触。衛生兵の「石のおかげ」という呟き。
潮は言葉を失い、ただリタを見つめるしかなかった。その沈黙が、答えだった。
「おまえはもう、その石からは逃れられない」
決めつけるような言い草に、潮の腹の底に熱いものがこみ上げてきた。押し付けがましい。この女は、最初からこうだ。
「……ほんなら、うちに、ちゃんと説明してや」
潮は一歩前に出る。机を隔てて、リタと向き合う。
「この石がなんなんか。うちが、どうして、このキャンプに、連れてこられたんか。リーゼもそうなんやろ。だいたい、ここはどこやねん。日本とちゃうやろ」
矢継ぎ早にまくしたてる。溜まっていた疑問が、堰を切ったように溢れ出した。
「それに、どうしたらフィオナを……うちの友だちを探せるんか」
フィオナの名を口にした時、リタの目がほんの一瞬だけ、わずかに揺れた。鋭い切れ長の瞳に、かすかな陰が走る。潮はそれを見逃さなかった。
リタはゆっくりと息をつくと、机の向こう側に立ったまま、潮を見下ろすような位置から口を開いた。
「ここは私たちの世界だ。ニホン、ではない」
「は? 地球はひとつやろ」
「おまえがいた地球と似ているが、まったくの別世界だ」リタの声には、ためらいも含みもない。淡々と事実を告げる調子だ。「姿も文化も似ているが、別の歴史を歩んだ世界なのだ。並行世界といって……」
「……うちを、おちょくってる?」
潮の声は思わず高くなった。ゲームや漫画のネタのような話を、真顔で言われて。
「おちょくってなどいない」
「だって……ほんまに、本気の本気で言うてんの?」
「本気だ」
リタの目は、一瞬も潮から離れていない。嘘を吐く者の目ではない。だが、それでも潮の頭は追いつかない。ここが日本ではないことは、肌で感じていた。スマホは圏外。コンビニもない。テレビもない。戦争している!
でも、「並行世界」?
「……誰が、うちらをここに呼んだんや?」
「私だ」
リタの答えは即座だった。
「今から三ヶ月前、私はおまえやリーゼをこの世界に召喚した」
「なんのために?」
一瞬の間。
リタの口元が、かすかに、しかし確実に引き締まった。
「この世界を、救うためだ」
潮は息をのんだ。マジか。そんな……。
「おまえも見たとおり、このカインザールでも、統合政府軍と民間のレジスタンスが何度も小競り合いを起こしている。人々は政府の圧政に苦しみ、食べるものにも着るものにも事欠いている。この街だけの話ではない。世界中が、ゆっくりと壊れている」
リタの言葉は、潮の頭の中で、この数日で見てきた光景と重なった。
──薄められた消毒液。足りない包帯。痩せ細った兵士の腕。薄いスープとパン切れを手に、「これで一日持たせろって、無茶だよな」という誰かのぼやき。
「そんなの……勝手にすればええやんか」
潮の声は、自分でも驚くほど小さくよどんでいた。
「なんでうちが、あんたらの世界を……」
言いかけて、潮は言葉を詰まらせた。
目の前で、リタが――甲冑に身を固め、指揮官として振る舞うこの女が、静かに、しかし深く頭を下げたのだ。
「……おまえたちを巻き込んだことは、申し訳なく思っている。だが、どうか力を貸してほしい」
潮は声を失った。
嘘じゃない。この女は、本気で頭を下げている。大人が、本当に切羽詰まった時にする、あの沈んだ、しかし覚悟に満ちた態度だ。
胸の奥がざわつく。怖い。逃げたい。日本に帰りたい。
でも、親友のフィオナは、まだこの世界のどこかにいる。少なくとも、あの子が見つかるまでは。
(フィオナを探すには、こいつらの協力が必要かもしれへん。うちひとりでは、こんな戦場みたいな世界を探し回られへん)
利用できるものは利用しよう。綺麗ごとだけじゃ、生きていけない。
それに──今の潮には「世界が壊れている」というリタの言葉は、もはや大げさには聞こえなかった。キャンプの片隅で、ぎりぎりの線で生きている人たちの顔が、閉じた瞼の裏にちらついた。
「世界を救うて、何をするつもりか知らんけど……」
潮は喉を鳴らし、絞り出すように言葉を続けた。
「……うちに、どこまでできるか、わからんで」
「おまえがここにいてくれるだけで、私は助かる」
(そうやな、せめて、フィオナが見つかるまでは……)
「ほんまに、おるだけでええのん?」
「それでじゅうぶんだ」
リタはようやく頭を上げ、机の上の石を手に取った。そして、潮の前に差し出した。
「手を開いて、石を見てごらん」
潮は一瞬ためらい、それからそっと手のひらを上に向けた。
リタが石を潮の掌に置く。
その瞬間。潮の掌の中心が、じんわりと温かくなった。
「あっ……」
石の表面が、うっすらと若草色の光を放った。さっきまでただの冷たい石だったものが、潮の手に触れたとたん、内側から柔らかい光を帯びたのだ。それは、まるで生き物が目を覚ましたようだった。
「……なんなん、これ」
「それが、潮、おまえの牡牛座の魔石だ」
潮は息を詰まらせて石を見つめた。光る表面に、ゆっくりと、かすかな線が浮かび上がってくる。二本の曲線と、小さな丸。見覚えがある。
「……これ、うちの、星占いの星座の記号や」
「そうだ。おまえは牡牛座の加護を受けた、選ばれし者だ」
潮は思わず、石をぎゅっと握りしめた。光が指の間から漏れ、手のひらを温める。その温もりが、なぜか少しだけ、胸のざわつきを静めてくれるような気がした。
(選ばれたって、なんやねん……誰に?……なぜ?……)
潮の頭の中で、さまざまな思いが渦巻く。
――こんな石ひとつで、自分の運命を決められてたまるか。
――でも、この石がなかったら、うちは死んでたんかも。
――フィオナを探すのに……これが役に立つんやろか。
「なんでうちが……選ばれし者て……」
自分でも情けなくなるほど小さな声が、天幕の静寂に消えていった。
その時、外から慌ただしい足音が近づき、天幕の入口の布がさっと開かれた。
「お、この子が牛娘か?」
まぶしい陽光を背負って、長身の女が中へ入ってきた。紫がかった黒髪を大きくポニーテールに結い上げ、馬の尻尾のように揺れている。
女は潮をじろりと見下ろし、にやりと笑った。
「なあ、リタ。確かに牛だったのか、この女の子」
「なんでうちが牛やねん!」
潮が反射的に身を乗り出して怒鳴る。女はそれを面白がり、ますます笑いを深くした。
リタはかすかにため息をつき、うなずいた。
「確かに、牡牛座の魔石が反応した」
「やったな、リタ! 五人目だ!」
女はテーブルの脇にある椅子をくるりと回し、背もたれを前にして腰を下ろす。まるで自分の家のようにくつろいだ様子で、潮に向かって手を振る。
「あたし、ウーナ。よろしく」
潮は、呆気に取られたように目を瞬かせた。目の前で、自分のことが、自分の星座まで含めて、あたかも当然のことのように話し合われている。腑に落ちない。でも、否定の仕様もない。
机の上の石は、まだかすかに光を残していた。潮はそっとそれを手に取り、ポケットにしまった。重みが、また太ももの横に落ち着く。
新しい現実が、もう目の前に押し寄せている。潮は、ただその流れに立たされているだけだった。
#第四版
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