第3話(2/3) 五人目 その2

その日は、珍しく電灯がついていた。


潮が寝泊まりしている女子用の宿営テントの天井から、裸電球がひとつぶら下がっている。かすかに白い光が、布張りの天井と簡易ベッドの列、足元に置かれた荷物の山まで、まとめて照らし出していた。


いつもは通路の端に置かれたランタンの橙色だけが頼りで、夜になると一気に世界が狭くなる。見えるのは、自分の枕元と布団の内側だけ。他の子の顔も、輪郭がぼんやり浮かぶくらいで、細かいところまでは分からなかった。


今日は違う。布一枚向こうの寝息や寝相まで、ぼんやりと見渡せてしまう。


(……やっぱり、電気って明るいな)


胸の中でそうつぶやいて、潮はもう一度天井を見上げた。ランタンの揺れる火に比べたら、この白い光は頼もしいくらいに明るい。本当なら安心できるはずなのに、その明るさがどこか落ち着かない。


(でも、明るすぎひん? なんか、丸見えや……)


寝癖のついた髪も、洗濯物を畳みかけて積んだままのベッドも、隣の子の泣きはらした目も、ぜんぶこの白い光の下に並んでいる。薄暗いランタンの灯りのほうが、まだ自分の中身を布団の中に隠しておける気がした。


「そうか、今までは……停電やった、ってことか」


潮は思わず、寝床代わりにあてがわれた板の上で身を起こした。思いがけず板が大きくきしんで、テントの中に音が響いた。


(なあんや、ここだって、本当はちゃんと電気がつく世界なんや……まあ、そりゃそうか)


そう思うと同時に、なぜか胸の奥がざわざわし始めた。帰りたいと願う日本と、今いるこの世界。どっちがほんまの現実なんやろ。


あらためてそう考えると、さっきリタの天幕で聞かされた話が、頭の中でまたぐるぐると繰り返し始めた。


——世界が壊れている。

——統合政府のせいで、人々が苦しんでいる。

——だから、この世界を救いたい。


そんな大それた話を、目の前でまっすぐにぶつけられてしまって、どうしていいのか分からない。関係ない、と突っぱねたかったのに、「力を貸してほしい」と頭を下げられた瞬間、胸のどこかがきゅっと痛んだ。


「……なんなん、もう」


小さくつぶやきながら、潮は上着を羽織って天幕の外に出た。


外はすでに夕方で、空の端っこには早くも星がにじみ始めている。風はひんやり肌寒く、乾いた土の匂いと、どこかで煮ているスープの匂いが混じって鼻をくすぐった。


キャンプの中央に近い柱には、いくつかの電灯が取り付けられている。いつもは黒い塊のままぶらさがっているだけなのに、今日はそこにも小さな光がともっていた。


そばを通りかかった兵士が、見上げてなにかをつぶやいていた。


「どうせ夜になったらすぐ落ちるさ。ひと月に何日も持たねえよ、こんなの」


潮がそばを通り過ぎるとき、皮肉とも諦めとも取れるその軽口が耳に入った。


「街の発電機だって、たまには動かしてやらないと錆びるんだろうよ」


隣の兵が笑い混じりに返した。慣れた口調だ。珍しいことではあるが、よろこぶほどでもない。そんな諦めの気配が、ふたりのあいだにさらりと流れていた。


潮はなんとなく、ポケットに手を突っ込んだ。指先に、硬いものが触れる。若草色の石——自分の牡牛座の魔石。


「あっ……」


思い出したように、もう片方のポケットからスマホを取り出す。電源を入れると、画面の隅に小さく赤い電池マーク。アンテナは、相変わらず「圏外」の表示だ。


プラスチックの冷たさ。ガラスの滑らかさ。あの世界の感触が、手のひらに蘇る。


(あっ、フィオナと撮った写真……)


枕元でフィオナとふざけながら撮った、ぶれて笑顔だらけの一枚。頭の中で、その輪郭だけがぼんやり浮かぶ。


胸の奥がきゅっと締めつけられる感覚を振り払うように、潮は明かりのついた天幕のそばまで歩いていった。


「あの、これ……ちょっとだけでも充電させてもらえませんか」


天幕の中から、大柄な兵士が顔を出した。


「充電?」


「あ、はい」


「それ、なんだ」


男はさして興味なさそうに潮の手元を覗き込んだ。


「うちのスマホ……あ、電話です」


「電話? 電話線に繋いで使うのか?」


「いえ、そうじゃなくて。これだけで、電話できるやつで……電気あったら、ちょっと充電させてもらえへんかなって」


兵士は眉をひそめ、黒い板をじろりと見た。


「……どこで拾ってきた機械か知らねえが、通信機みてえなもんか。悪いがな、ここに回ってくる電気は、負傷者の照明と基地の無線で手一杯だ。そんな規格外の通信機に回す余裕はねえよ」


「……ですよねー」


わかってはいた。わかっていたつもりだったけれど、改めて言葉にされると、胸の中で小さくしぼむものがあった。


(あ……ていうか、どのみち充電器なんて、ここにはないよな……)


「そこの柱の灯りだって、いつまた消えるかわからんぞ。道が見えるうちに、自分のテントに戻るんだな」


それだけ言って、兵士は天幕の中へと姿を消した。


潮は手の中の冷たい板をしばらく見つめてから、そっとポケットに戻した。


***


傷病者用のテントの前を通りかかると、消毒液と血と汗が混じった匂いが、夕方の空気にじっとりとまとわりついてきた。布越しにも、中からうめき声が聞こえてくる。


入り口近くでは、若い衛生兵が木箱を開けて中身を点検していた。くもりの入ったガラス瓶と、うっすら黄ばんでほつれかけた包帯が、乱暴に押し込まれている。瓶に貼られたラベルは色あせて端がめくれ、印字はかすれて年号も製造元も読み取れない。


隣にいた別の衛生兵が、それを覗き込んで眉をひそめた。


「……また薄いのばっかりだな。傷口洗ったそばから感染しそうだ」


潮は思わず立ち止まり、聞き耳を立てた。


「見ろよ、この消毒液。ほとんど色がついてねえ上に、中身も半分しか入ってない。どこの倉庫の底から掘り出してきたんだか」


「仕方ないだろ。『規格外でもいいから前線に回せ』って上からは来てるんだから。まともなのは街の病院と、お偉方の棚行きさ」


「俺たちゃ所詮、寄せ集めのゲリラ兵だからな」


「ハッ……きっと、あいつらの机の上には、新品の瓶が山ほど並んでんだろうな」


ぼそっと吐き出された言葉に、潮は目を瞬いた。統合政府——さっき、リタの口からも聞いたばかりの名前。


それ以上の話を聞く前に、入口の布がめくれて、担架がひとつ運び込まれていった。衛生兵たちはすぐにそちらへ駆け寄り、潮は邪魔にならないように、慌てて道を開ける。


冷たい風が吹き抜けた。潮は腕をさすりながら、その場を離れる。


「……ほんまなんや」


ぽつりと、誰にも聞こえない声が漏れた。


リタが言っていた言葉が、頭の中で勝手に再生される。


——統合政府の圧政に、人々は苦しんでいる。

——食べるものにも、着るものにも事欠いている。

——世界中が、ゆっくりと壊れている。


大げさやと思っていた。知らん世界の知らん政治の話やし、どこまでほんまなんかも分からへん。けど——


電灯はついたり消えたり。薬は薄められて、足りていない。ここにいる人たちはみんな、当たり前みたいな顔をしてそれを受け入れている。それでも、たまに愚痴のひとつもこぼしながら、仕事を続けている。


「……おかしいやろ、どう考えても」


潮は小さく息を吐いた。


最初の数日は、そんな余裕もなかった。どこにいるのかもわからなくて、自分に何が起こっているのかを理解するだけで精一杯だった。毎日がただ、不安と緊張だけで過ぎていった。たとえ空腹を感じていても、それどころではなかったくらいに。


配給の列に並んで皿を受け取ったって、「なんか味薄いな」「忙しいところにお世話になってるんやし、こんなもんか」で流していた。


けれど、少しずつ、周りを見る余裕がでてきた今はわかる。


配給の皿に乗るのは、薄っぺらいパンと、水みたいなスープが少しだけ。兵隊たちはそれを当たり前のように受け取って、黙々と口に運んでいる。


潮はふと、一番近くに立つ兵士に目がとまった。手首の骨が皮の下でくっきりと浮かび上がり、あごのラインが鋭く尖っていた。軍服の肩が、痩せた肩幅にだぶついている。


「これで一日持たせろって、無茶だよな」


昨日、誰かがそうぼやいていたのを思い出す。潮自身も、夜になるといつもお腹が鳴った。布団の中で腹を押さえ、鳴りそうな音を押し殺すのが日課になっていた。


「ここで頑張ってる人らが、こんなギリギリなんて……」


ゆっくりと歩きながら、潮は空を仰いだ。電灯のうすい光が、夕暮れの色をかき消すには足りない。視界の端で、その光がちらつく。まるで、自分の中の「世界」という概念の境目が綻び始め、かすかな光のように心の片隅で瞬き始めているようだった。


──世界を救いたい。


リタの言葉が、また胸の中で重く沈む。


(世界……世界て、なにから、どこまでの話なんやろ)


潮の頭の中に浮かぶ「世界」は狭い。学校のクラス、空手の道場、商店街の通学路。母の作る弁当の味。フィオナと並んで寝転んだ、このキャンプの小屋の天井。


自分が知ってるのは、そのくらいの範囲だ。


「うちひとりで、なんもかんもどうにかできるわけないやん」


口に出して言ってみると、少しだけ気が楽になる。そんなのは、最初から分かっていた。


(でも……)


足が自然と、キャンプの外れのほうへ向かっていた。雑用や見張りの兵が行き交う狭い通路を抜けると、小さな丘の斜面に沿って物資置き場が広がっている。木箱や樽が積み上げられ、その横に一本の坂道が伸びていた。坂の途中には、荷車が一台、車止めをかませて停めてある。


箱を担いでゆっくりと歩く男たちの姿が見えた。みんな薄汚れた作業着を着て、肩で息をしている。


(この人ら、ちゃんと食べて、ちゃんと寝れてたら、もうちょいマシな顔できるんちゃうん)


ふと、そんな考えがよぎる。


世界、世界って言われてもピンと来ない。でも、このキャンプくらいやったら。目の前でしんどそうにしてる人らくらいやったら。


「……うちに、なんかできること、あるんかな」


潮は無意識に、ポケットの中の石を探った。指先に触れる、ただそこにあるだけという感触。それが、見知らぬ世界で呼吸をし、地面を踏み締めているという現実感を、いっそう確かにするような気がした。


「うち、ただの高校生やのにな」


そう思いたい。思いたいのに、あのとき天幕の中で見た若草色の光が、頭から離れてくれない。


——おまえは牡牛座の加護を受けた、選ばれし者だ。


リタの声音が、耳の奥でよみがえる。


(選ばれたんやったら……せめて、目の前の誰かひとりくらいは、守れるんやろか)


そこまで考えて、潮ははっとして首を振った。


「なに考えてんねん、うち」


世界を救うとか、自分には荷が重すぎる。そんな大それたこと、できるはずがない。けれど——


この世界がおかしい、という感覚だけは、もう見なかったことにはできなかった。


潮は大きく息を吐くと、ポケットから手を離した。


丘の上から吹き下ろす風が、パンとスープだけでは足りない体をすり抜けていく。どこか遠くで、荷車の車輪がきしむ音がした。


その音が、このあと自分をどこへ連れていくのかを、潮はまだ知らない。


#第四版

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