第2話(3/3) 潮(うしお)の目覚め その3
潮は両ひざを抱え、焚き火跡の前に置かれた丸太の上で身をちぢめていた。指先の炭はただ冷たかった。あの夜、ここにあった笑い声も、火の揺らめきも、もうここにはない。
「潮……」
そのとき、ふいに背後から、名を呼ぶ声がした。
「……ここにいたのね」
潮は胸の中のざわつきを押さえようと、一度だけ息を吐き、ゆっくり振り返った。
リーゼが立っていた。
草を踏む音すらなかった。朝の光が後ろから当たり、白い衣の端が風で少し揺れている。
リーゼ――いつも同じ白い服を着ていて、何を考えているのかよくわからない女の子。
青い瞳。年上にも見えるし、同い年にも見える。食事の準備、傷病兵の看護、洗濯。金色の長い髪を揺らしながら、いつも誰かのために動いている。
気がつくと、潮はその姿を目で追っていることが多かった。
「ああ、あんた、いつの間に……」
潮は顔を上げて、ぎこちなく笑った。リーゼは手を後ろに組み、潮の横に立つ。ふたりのあいだに、言葉のない隙間ができた。
「ひとりで考えていた?」
「まあな」
リーゼの視線がなぜか、自分の腰のあたりに向けられているような──気がした。潮が顔を向けると、リーゼは穏やかな表情で地面を見つめている。
(気のせいか)
「リタが、あなたに会いたがってる」
リーゼは、抑えた声で言った。その声は落ち着いていたが、どこか緊張しているようにも聞こえた。
「リタ?」
名前を聞いて、潮は少し目を見開いた。この世界に来た最初の日に会った女だ。甲冑をまとった、冷たい目をした女。潮は、あの鋭い視線が肌を刺すような感覚を思い出す。
「あの甲冑の女が?」
潮はそう言いながら、ゆっくり立ち上がった。
「あの女と、うちのあいだに何があったか……知ってるんやろ」
リーゼは、ほんの少し困ったように眉を寄せて、小さくうなずいた。
「リタだって、もう気にしてないわ」
「……わかるもんか」
潮は焚き火跡に目を落とした。黒い炭のかけらが視界の端に入る。あの夜、フィオナが食糧庫から芋をくすねてきて、この炭で焼こうとして失敗し、ふたりは煤で顔を真っ黒にしながら笑った。
リーゼはそれ以上は言わず、少し間を置いてから続けた。
「だいじな話があるって言ってた。潮にとっても、きっとだいじな話だわ」
潮は口の中で、リタの名前を噛みしめた。あの女は、最初に会った時から潮を値踏みするような目で見ていた。
「そうか……あの女も、ええ度胸しとる」
不意打ちの呼び出し。潮の体のどこかに染みついた空手家の構えのクセが、自然と背筋を伸ばさせた。
「売られたケンカや、逃げるつもりはない」
潮は自分に言い聞かせるように言って、ぐっと顎を上げた。左肩の傷が、疼くように痛んだ。あの日、リタの部下に取り押さえられた時も、同じ肩を押さえつけられた。
「潮、あのね……」
リーゼが何か続けようとする。けれど、その先を聞いてしまったら足がすくんでしまいそうで、潮はわざと軽い声をかぶせた。
「ほな、行ってくるわ」
そう言ってくるりと踵を返し、リタの待つ天幕の方へ歩き出そうとした、その時――
「潮!ズボンの、左のポケットに手を入れてみて!」
背中に投げかけられたリーゼの声に、潮の足が止まる。
「……左?」
言われた通り、ジャージのズボンの左ポケットに手を差し入れる。指先が、布越しにかたい感触に触れた。昨日まで何もなかったはずなのに。
「……な、なんやこれ」
つまむようにして取り出す。手のひらにころんと転がったのは、あのときと同じ、緑色の石だった。昼の光を受けて、内側から淡く光っているようにも見える。
「これ……あの時の……」
あの夜、天幕の中で兵のひとりに取り上げられたはずの石。潮はその手の感触を覚えている。冷たく、無機質で、だけど取り上げられたとき、なぜか悔しくて、泣き出したくなるような不安な気持ちになった、あの石。
なのに、どうして今、自分のポケットから出てくるのか。
「なんでや、なんでまた、うちのポケットに……」
「さっきから光ってた。気づかなかったの?」
リーゼが一歩近づき、潮の手の中を覗き込む。その青い瞳に、石の緑の反射が揺れている。
言われてみれば、さっきからポケットのあたりが、じんわりと温かかった気もする。でも、それは気のせいだと思っていた。戦場で撃たれた時のショックで、感覚がおかしくなっているだけだと。
「いや、そんなの、ぜんぜん」
リーゼは静かに息を吐いた。
「それがあなたの石、魔石よ」
「マセキ?」
聞き慣れない響きに、潮は思わずオウム返しをした。けれど、まったくの初耳という感じでもない。どこかで似た言葉を聞いたような、耳の奥がくすぐったくなるような感覚が残った。
「そう、魔石。私たちはそう呼んでいるわ」
リーゼはそっと、潮の手のひらの上の若草色の石に視線を落とした。
「もともと、あなたや私をこの世界に呼び寄せたのも、その石なの」
潮は石を見つめながら、リーゼの言葉を咀嚼しようとする。召喚? 魔石? まるでゲームの説明のようだ。
リーゼは潮の肩の傷に目をやった。
「撃たれたんでしょ? でも、あなたは生きている」
「それがこの石のおかげやって言いたいんか」
リーゼは自分の胸元のペンダントの石を手に取ると、その青い石を見つめた。
「魔石は持ち主を守ってくれる。そして、持ち主が身を守るための力を貸してくれる」
潮の左肩の傷が、ちくっと疼いた。 撃たれた瞬間の記憶ではなく──弾丸が当たった直後、目の前がまばゆい緑色の光に包まれた──あの一瞬の感覚が、石のぬくもりと重なってよみがえった。
(……あの光、これやったんか?……気のせいじゃ、なかった)
そして同時に、脳裏に薄暗い天幕の光景がよみがえった。
血の匂い。消毒液の匂い。天幕のベッドに寝かされた潮の額に手を当てながら、衛生兵の女性が、誰にともなくつぶやいた声。
――この子が助かったのは、あの石のおかげ。
(やっぱり、これのことやったんかもな)
潮は手のひらの上の石をそっとなでた。硬質で冷たい見た目に反して、指先にはかすかなぬくもりが伝わってくる。胸の奥で、なにかが不思議と高鳴った。この石が、自分を撃たれた時、何かをしたのだろうか。
「案外、ずっとあなたのそばにあったのかもしれないわよ」
リーゼが静かに言う。その横顔には、からかいも誇張もない。ただ事実を告げる人の顔だった。
潮は石から目を離し、リーゼを見た。
「……その話も、リタがしてくれるんやろ?」
「ええ。リタの方が、ずっと上手に説明できるはず」
リーゼは小さくうなずく。その頬がわずかに緩み、目元にほのかな陰りができた──心配してくれているようでありながら、どこか期待されているようにも、潮には見えた。 それに気づいてしまったから、潮はそれ以上、彼女の顔を見ていられなくなった。
潮は石をぎゅっと握りしめると、もう一度ズボンの左ポケットへ押し込んだ。布越しに、心臓とは別の鼓動がひとつ増えたような気がする。重みが、太ももの横に馴染んでいく。
「……ほな、今度こそ行ってくる」
振り返らずに言うと、背中越しにリーゼの気配が、ほんの一瞬だけ近づいた。呼び止められるかと思ったが、彼女は何も言わなかった。ただ、見送っている。
潮はそれを感じながら、一歩を踏み出す。
足元の土は、人の足で踏み固められて硬くなっていた。あちこちに血の跡が乾いた黒い斑点になって残り、運びそこねた包帯の切れ端が風に揺れている。遠くからは、まだうめき声や怒鳴り声が聞こえてきて、さっきまで自分が寝かされていた救護天幕の白い布が、視界の端で揺れた。
ズボンの左側が、いつもより重く感じる。ポケットの中の石が歩調に合わせて揺れ、太ももの横をこつこつと叩く。そのたびに、さっきリーゼが口にした言葉が頭に浮かんだ。
(こいつが、守ってくれているっていうんか……)
冗談じゃない、と心のどこかでつぶやく。自分はそんな大それたものを持ち歩いているつもりなんてなかった。ただ、気づけばここにいて、気づけば巻き込まれていただけだ。
けれど――
(売られたケンカや、逃げるつもりはない)
さっき自分で言った言葉を、今度は胸の中で繰り返す。声に出したときよりも、少しだけ重みが増して響いた。
リタの天幕は、陣地の中央に近い場所に張られている。指揮所でもあるその天幕へ向かう道は、他の天幕より少し広く、人の行き来も多い。潮が歩いていくと、行き交う兵士たちがちらりと視線を投げてくるが、誰も声はかけてこない。ただ、見慣れない少女がそこを通るのを、少しだけ不思議そうに眺めるだけだ。
潮は視線を合わさないように、前だけを見て歩いた。
ポケットの上にそっと手を置く。布越しに、石の形が手のひらに伝わる。握りしめれば、きっとまたあのぬくもりを感じるのだろう。
(あの石のおかげで、うちは生きてる)
衛生兵のつぶやきと、リーゼの言葉。ふたつの記憶が、胸の中で重なり合う。
(なら……)
せっかく助かった命だ。ここで引き返したら、さっきの言葉にも、この石にも、顔向けできない気がした。
やがて、前方にひときわ大きな天幕が見えてくる。他のものより張り綱が太く、入口には見張りの兵が二人立っている。あそこが、リタの天幕だ。
潮は小さく息を吐き、足を止めた。胸の奥が、どくん、と大きく鳴る。左ポケットの上に置いた手に、無意識に力がこもった。
「……よし」
誰に聞かせるでもなく、小さくそうつぶやく。
まだ天幕の布には触れない。あと一歩踏み出せば、すべてが変わるかもしれない――そんな予感だけが、足元から静かにせり上がってくる。
潮はもう一度だけ深呼吸をして、視線を入口へと向けた。そこでいったん思考を切り、心の中のざわめきを押し込める。
リタと会うのは、この一歩の先だ。
潮は、そっと左手をポケットから離さないまま、天幕の入口へと歩み寄っていった。
#第四版
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