心の臓が最後の音を刻むまで、俺は君を愛し続ける
春風秋雄
土曜の午後なのに熱が出てきた
やばい。熱が出てきた。体温計の数字は38度6分と表示されている。朝から調子が悪くて寝ていたが、午後になってから寒気がすると思ったら、本格的に風邪をひいたようだ。今日は土曜日で、行きつけの病院は午前中で診療を終えているので今から行っても診察はしてくれない。休日診療の病院は車でないと行けない距離だ。こんなにふらふらしているのに運転ができるだろうか。今日に限って両親は法事でいない。そうすると、歩いていける近所の加藤内科に連絡して診てもらうしかないのか。あそこなら長い付き合いなので、診てもらえると思うが、できたら加藤内科には行きたくない。あそこの院長は今ではほぼ引退状態で、代わりに幼馴染の真央が患者を診ている。俺はあいつに診察されるのはどうも嫌だ。1回だけあいつに診てもらったことがあるが、診断以外のことで、ちょっと太り気味なので痩せろとか、お酒は控えろとか、禁煙しろといった感じで、余計なことをネチネチ言って来る。子供の頃よく遊んでいたときは俺の方が二つ年上なので色々面倒を診てやったのに、この年になってから逆に色々言われるのは癪に障る。それ以来俺は行きつけの病院を替えた。しかし、月曜日の仕事は重要な打ち合わせが入っている。それまでに何とか熱だけでも下げなければいけない。背に腹は代えられないので俺は加藤医院に電話をすることにした。
呼び出し音が続くが誰も出ない。真央以外の誰かが出てくれないかと期待したが、さすがに病院の方の電話には誰も出ないようだ。仕方なく真央の携帯に電話した。
「どうしたの?敏治ちゃんから電話してくるなんて珍しいじゃない」
この年になって「ちゃん」付けで呼ぶなと何度も言っているのに、相変わらず真央は俺のことを“敏治ちゃん”と呼ぶ。
「休みの日に申し訳ないけど、ちょっと風邪をひいたようなので、診てもらうわけにはいかないかな?」
「熱は測った?」
「さっき測ったら38度6分だった」
「わかった。じゃあ、今からそっちに行く」
「俺がそっちへ行くよ」
「それだけ熱があったら歩くのもしんどいでしょ?10分ほどで行くから」
真央はそれだけ言うと電話を切った。
俺の名前は石川敏治。32歳の独身だ。食品メーカーの販売管理部で働いている。一人っ子で両親と実家暮らしだ。加藤真央は幼馴染で、小学校の低学年まではお互いの家を行き来してよく遊んでいた。近所ということもあり、親同士も仲が良く、うちの親父と加藤のおじさんはゴルフ仲間ということもあり、家族ぐるみの付き合いをしていた。真央も一人っ子で、加藤医院を継ぐために東京の医大に進学した。真央はインターンが終わってから東京の大学病院で働きだし、実家には帰ってこなかった。だから、俺が大学へ進学してからは真央に会うのは年に1回あるかないかといった程度だった。ところが2年前に加藤のおじさんが糖尿病になった。フルタイムで診療をするのが難しくなるというので、真央が実家に帰ってきて医院を切り盛りするようになったというわけだ。
「敏治ちゃん、あがるよ」
玄関から真央の声が聞こえた。勝手知ったる他人の家で、真央はずかずかと家にあがり、俺の部屋まできた。
「先にちょっと検査するからね」
真央はそう言って綿棒で俺の鼻の奥の粘膜をとる。
「結果でるまでちょっと待っていて」
真央は一旦医院に戻ったようだ。30分ほどして戻ってきた。
「とりあえずインフルエンザとかではなかったみたい」
真央はそう言って聴診器を俺の胸に当てる。真剣な眼差しをみていると、立派な医者になったなと思う。そのあと口を開けてと言って喉の奥をみる。
「かなり赤くなっているね。あとで薬を処方してもってくるよ」
「ありがとう」
「今日はおじさんとおばさんは?」
「法事で出かけている。今日は泊りになると思う」
「じゃあ、今日の食事はどうするつもりだったの?」
「こんな状態だから何も考えていないよ」
俺がそう言うと、真央は少し考えてから「じゃあ、またあとで来るから」と言って出て行った。
うとうとしていると、玄関が開いた音がして真央が部屋に入ってきた。
「とりあえず薬もってきたから。それとスポーツドリンク。とにかく水分を摂ることが大切だからね」
「ありがとう」
「ちょっと台所を借りるね」
真央はそう言うなり台所へ行った。しばらくしてからお盆に何か乗せて戻ってきた。
「お粥を作ったから食べて。あとこのスープも」
「スープ?」
「チキンと野菜のスープ。喉が痛そうだったから、具は入れずにスープだけにしたから」
「ありがとう」
「食べ終わったら薬を飲んでね。薬はスポーツドリンクではなくて、水で飲んでね。水のペットボトルも置いておくから」
「わかった」
「また後で様子を見に来るから」
真央はそう言って帰って行った。
どれくらい寝ていたのだろう。ふと目を覚ますとそばに真央が座っていた。
「熱測ってみようか」
真央はそう言って体温計を差し出す。俺は体温計を腋に挟みながら聞いた。
「いつからそこにいたの?」
「夕飯食べてからだから8時くらいかな」
「いま何時?」
「9時半」
体温計がピピピと鳴る。
「7度8分かぁ、まだまだだね。汗かいているでしょ?着替えた方がいいね。着替えはどこにあるの?」
俺が場所を教えると、真央が着替え一式を持ってきた。俺が着替えている間真央は部屋を出て待っている。終わったと言うと部屋に入ってきて、汗で汚れた衣類を持って「洗濯しておくね」と言って部屋を出て行った。大人になってから真央と接する機会がほとんどなかったので、こんなに尽くす女性だとは思っていなかった。部屋に戻ってきた真央に俺は言ってみた。
「真央はどうして結婚しないの?良い奥さんになれると思うのに」
「私がこっちに帰ってきた理由聞いてないの?」
「おじさんが糖尿病になったからだろ?」
「そうかぁ、聞いてないんだ。お父さんが糖尿病になったからというのもあるけど、本当の理由は違うの」
「本当の理由って何なの?」
「大学病院で働いていた時、同じ科の上司と不倫をして妊娠しちゃったの。奥さんとは別れると言っていたのに、妊娠したと告げたら堕してくれの一点張りで、仕方なく子供は堕したんだけど、そのうち院内で噂になってしまってね。病院に居づらくなって逃げるように帰ってきたの」
「そのことは、ご両親は知っているの?」
「病院に行くのが嫌になっていた頃、たまたまお母さんから電話があって、思わず泣いてしまったものだから、心配してすぐにお母さんが東京にやってきて、事情を話したら、すぐに帰ってきなさいと言って、翌日病院に退職願を出したの」
「おじさん怒っていたでしょ?」
「相手の男に対してカンカンになって怒っていた。今から東京へ行ってそいつを殴ってくると言っていたけど、不倫なんだから相手の奥さんに知れたら、真央が悪者にされるだけだよとお母さんが宥めて、やっととどまったの」
「じゃあ、それ以来その男性とは会っていないんだ?」
「そうね。連絡もしていない」
「でも結婚しないのは、まだその男のことが忘れられないからじゃないの?」
真央は一瞬黙り込んだ。少ししてからようやく口を開いた。
「自分ではもう気持ちに区切りをつけたつもりなんだけど、まだあの人のことが好きなのかどうか、自分でもわからないの。でも、新たに相手を見つけて結婚するにしても、その相手には過去にそういうことがあった事を隠しておくわけにはいかないと思っている。子供を堕した経験があることは言っておかなければいけないことだと思うし。でも、簡単に言えることではないだろうなと思うと、結婚自体が面倒くさいなって思えてきて、もう誰とも付き合わないって決めたの」
俺が知らないだけで、真央も大変な人生を送っていたんだ。
真央は洗濯物を干したあと「ちゃんと水分を摂ってね」と言って帰って行った。
翌日、体はかなり楽になった。熱を測ると7度2分だった。これなら明日の打ち合わせは何とかなりそうだと思った。昼前に真央がやってきた。
「熱はどう?」
「何とか7度2分まで下がったよ。ありがとう」
「今日一日は寝ておきなさいよ。今は薬で熱を下げているだけだから、安心したらすぐぶり返すからね」
「わかった」
真央は俺に口を開けさせ、喉を見ている。
「喉もだいぶん良くなったけど、まだ少し炎症があるみたいね」
そう言ってから台所へ行く。しばらくすると部屋に戻ってきた。
「雑炊を作ったけど、ここで食べる?それともキッチンで食べる?」
「キッチンで食べることにするよ」
俺がそう言って、キッチンに行くと、土鍋から作ったばかりの雑炊が湯気をたてていた。椅子に座ると真央が雑炊をよそってくれ、そしてトマトのサラダを出してくれた。
「トマトは熱があるときに良い食べ物なの」
レンゲで雑炊をすくって食べる。美味しい。ちゃんと味もわかるようになったようだ。
「昨日は私に何故結婚しないのかと聞いたけど、敏治ちゃんはどうして結婚しないの?」
「単純に相手がいないだけだよ」
「彼女とかいないの?」
「もう何年もいないね」
「敏治ちゃんならその気になればすぐに出来るとおもうけどな」
「俺、恋愛に関して臆病になっているんだ」
「臆病になるようなこと、何かあったの?」
「もう5~6年前だけど、結婚まで考えていた女性がいて、そろそろご両親に挨拶に行こうかって話し合っていたのに、急に別れてと言われてね。理由を聞いたら、元カレがよりを戻したいって言ってきたんだって。やっぱり俺よりその男の方を愛しているから、俺とは結婚できないって言われた」
「そうなんだ」
「それ以来、女性に対して深入りできなくなっちゃったね」
「でも、そんな女性ばかりではないよ」
「それはわかっている。まあ、結婚なんかしなくても何とかなるし、どうしても結婚したくなったら見合いでもするよ」
真央はそれ以上この話にはふれなかった。
翌週の日曜日に俺はこの前の診療費を支払いに真央を訪ねた。
「そんなのいいのに」
「そういうわけにはいかないだろ。ちゃんと払うよ」
「今日は医療事務の人がいないから私ではわからないの」
「そうか、じゃあお袋にお金を預けておくから計算しておいて」
「わかった。明日にでもおばさんに明細書を持っていくよ。せっかくだから上がって行ったら?」
言われて俺は家に上がらせてもらうことにした。この家にあがるのは子供の頃以来だ。
「あれ?おじさんとおばさんは?」
「今日は従弟の結婚式。夕方には帰ってくると思うけど」
真央が淹れてくれたコーヒーを飲む。美味しい。真央が淹れてくれたコーヒーを飲むのは初めてだ。
「そうだ、見せたいものがあるんだ。私の部屋に来ない?」
「見せたいもの?何だろう?」
こうやってこの家に上がっていると、子供の頃に戻ったような感覚で、女性の部屋だということも忘れて気軽に真央について部屋に入ってしまった。
「これ。懐かしいでしょ?この前押入れを整理してたら出てきたの」
それは子供の頃に真央の誕生日にあげたクマの縫いぐるみだった。俺が小さい頃にお袋が買ってくれたお古だったけど、真央は喜んでいた。
「よくこんなもの置いといたね」
「これ、背中にファスナーがついているの覚えている?」
「そんなのあったかな?」
俺がそう言うと、真央は縫いぐるみをひっくり返し背中を上に向けた。そしてファスナーを開く。中から紙切れが出てきた。
「縫いぐるみを触っていたら、背中がガサガサいうので、何かなと思ったら、こんなのが出てきた」
紙を開いて見る。そこには平仮名で“せいやくしょ”と書かれていた。
“いしかわとしはるは、にじゅうごさいになったら、かとうまおとけっこんすることをやくそくします”
と書かれていた。間違いなく、俺が書いたものだ。しかし、まったく記憶にない。
「私たち、婚約していたんだね」
真央が笑いながらそう言った。
「へえ、全然覚えていないな。25歳はとっくに過ぎてしまったけどね」
「これ、何歳のときにもらったんだろう?」
「真央が幼稚園のときか小学校1年くらいの時じゃない?」
「その頃は敏治ちゃんは私のことを好きだったんだ」
「こんなものを大事に持っているくらいだから、真央も俺のことが好きだったんじゃない?」
「そうかもね」
「あの頃はよく遊んだからな」
「毎日どちらかの家で遊んでたね」
「真央は大人になったらお父さんと同じお医者さんになるんだって言って、お父さんからもらったお古の聴診器でよく俺を診察してくれてたものな」
「そうだった。そういえばこの前敏治ちゃんに聴診器をあてたとき、懐かしい気がしたもの」
「本当かよ?」
「本当だよ。あの頃、私ばかり聴診器をあててたら、敏治ちゃんが僕もやるって言って、交代でやってたね」
「リアルなお医者さんごっこだったんだな。本物の聴診器だから、胸の鼓動がドキドキと言っているのが聞こえたもんな」
「私、あの頃敏治ちゃんの心臓の音を聞くのが好きだった」
「俺もそうだよ。真央の心臓がドキドキ言っているのが好きだった」
「今やってみる?」
「え?何を?」
「聴診器で私の胸の鼓動、聞いてみる?」
俺が戸惑っていると、真央は部屋を出て、聴診器をとってきた。
「はい、耳に当てて」
そう言って両耳にイヤーチップを差し込む。そしてチェストピースを服の下に潜り込ませ、胸に当てた。真央の心臓の鼓動がドク・ドクと脈打っているのが聴こえる。何とも言えない気持ちで俺はその音を聞き続けた。
「敏治ちゃん・・・」
イヤーチップをしたままなので、真央の声がくぐもった音で聞こえた。俺はイヤーチップを外した。
「敏治ちゃん、大人のお医者さんごっこしようか」
はっきりと聞こえたその声に、俺は引き寄せられるように真央を抱きしめた。
俺と真央は、毎週日曜日に出かけるようになった。一緒に映画を観たり、海辺にドライブに行ったりして、最後はホテルに行って時間を過ごすという流れだった。俺も真央も両親には何も言わずに出かけているので、二人がそういう関係になったことを両家の親たちは気づいていないようだった。俺は真央との結婚を真剣に考える様になった。加藤医院は真央が院長になれば良いことなので、結婚相手は医者でなくても構わないはずだ。真央が結婚に対して消極的だったのは、相手に過去のことを告げるのが辛かったからだ。その点、俺はすでに知っているので問題ない。両家の両親も俺たちが結婚すると言えば喜んでくれるに違いない。何も障害となるものはないので、あとはタイミングの問題だと思っていた。そんな時、事件が起きた。
金曜日の夜。俺が残業で遅い時間に帰ると、お袋が加藤さんのところ、今日は大変だったみたいよと言う。何があったんだと聞くと、東京から男の人がいきなり来て、真央さんと結婚させてくださいと申し出たそうだ。お袋は詳しいことを言うのをためらっていたので、ひょっとしてその男というのは東京の病院で真央が付き合っていた既婚者かと聞くと、俺が事情を知っていることに驚いたようだが、それならと詳しく教えてくれた。どうやらその男は離婚を成立させて、やっと真央と結婚できる身になったので、正式に結婚を申し込みにきたらしい。真央が加藤医院を継がなければならないので東京へ来られないというのであれば、自分も大学病院を辞めて一緒に加藤医院で働くとも言っているそうだ。
俺は頭の中が真っ白になった。俺は真央との結婚について、障害になる事はないかということばかり考えていた。しかし、肝心な真央の気持ちを確かめていなかった。今の流れであれば俺がプロポーズすれば真央はOKしてくれるものだと高を括っていた。
その週の日曜日は、真央と紅葉狩りに行く予定だった。俺が車を出すことにし、11時に駅裏のコンビニで待ち合わせていた。コンビニでコーヒーを二つ買い、駐車場で待っていると真央が現れた。俺が気にしているのでそう見えるだけなのかもしれないが、俺には真央が緊張しているように見えた。俺は嫌な予感がした。5~6年前に付き合っていた彼女に別れを切り出されたことを思い出す。
「お待たせ!」
真央はいつもの調子で車に乗り込んだ。俺も真央が何か切り出すまで普通でいようと思った。
紅葉が綺麗だと有名な公園を二人並んで歩く。真央は何も話さない。二人無言でハラハラと舞う紅葉の中を歩いていた。
「金曜日の夕方、例の東京の上司が来たの」
唐突に真央が話し出した。
「うん、聞いた」
「もう知っているの?」
「うちの親と真央の親は通通の仲だから」
「そうか。彼ね、離婚したらしいの」
「それで、結婚を申し込みに来たんだろ?」
「うん。最初に敏治ちゃんに謝っておく」
やっぱりそうか。
「ごめんね。彼に結婚したいと言われたとき、一瞬付き合っていた時の気持ちが戻りかけたの」
「戻りかけた?」
「うん。でも、すぐにそんな気持ちは綺麗に消え去った。その時、私、はっきりと自分の気持ちに気づいたの。私は敏治ちゃんと結婚したいって」
「真央・・・」
「だから、この約束、実行してくれないかな?」
真央はそう言って、あの“せいやくしょ”を出した。
「真央、それは子供の頃に書いたものだから、代わりにこれを受け取ってくれないかな」
俺はそう言って用意していた紙を取り出した。真央はそれを受け取り、紙を開いて読み始めた。すると、途端に真央の目から大粒の涙がポロポロとこぼれてきた。
“誓約書
私、石川敏治は、加藤真央を妻とし、病めるときは労り、困難が生じたときは助け、いつの時も真央を笑顔にし、心の臓が最後の音を刻むまで、真央を愛し続けることを誓います。“
読み終わった真央が俺に抱きついてきた。
「あなたの心臓の音、毎日聞かせて」
「俺も真央の胸の鼓動を毎日聞いていたい」
きつく抱き合った二人の胸の間から、確かな鼓動が響いていた。
心の臓が最後の音を刻むまで、俺は君を愛し続ける 春風秋雄 @hk76617661
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