閑話2:『月詠』との出会いと力の代償

 ――それは、俺がこの忌々しい異世界に召喚されてから、まだ数ヶ月も経っていない頃の話だ。


 右も左も分からぬまま、何の力も持たぬまま、ただ生存本能だけを頼りに生き延びていた日々。


 見慣れぬ魔物に追われ、飢えと渇きに苦しみ、時には他の召喚者たちから蔑まれ、奪われるだけの存在だった。


 仲間など、いるはずもなかった。誰も信じられず、誰も俺を信じなかった。孤独と絶望だけが、俺の心を支配していた。


 「静かに生きたい」などという贅沢な願いは、まだ欠片も抱いていなかった。ただ、明日を生きるためだけに、必死だった。


◇ ◇ ◇


 その日も、俺は、森の中を彷徨っていた。


 数日前から、食料は底をつき、体力も限界に近かった。背後からは、執拗に俺を追ってくる、狼に似た魔物の群れの気配が迫っている。


 もう、逃げる力も残っていない。


 死を覚悟した、その時だった。


 不意に、目の前の空間がぐにゃりと歪み、俺はバランスを失って、暗い穴へと転がり落ちた。


 どれくらいの時間、気を失っていただろうか。


 ハッと我に返った時、俺は薄暗く、ひんやりとした石造りの通路に横たわっていた。どうやら、古代の遺跡のような場所に迷い込んでしまったらしい。


 幸い、魔物の気配は感じられない。ひとまずの安全は確保できたようだ。


 俺は、疲弊しきった体に鞭打ち、壁を伝いながらゆっくりと立ち上がった。


 この遺跡が、どこへ続いているのかは分からない。だが、少なくとも、外で野垂れ死にするよりはマシだろう。


 俺は、覚束ない足取りで、遺跡の奥へと進んでいった。


 通路は、まるで迷宮のように入り組んでいた。時折、壁には見たこともない文字や、奇妙な生物の絵が刻まれている。それらは、この遺跡が、ただの廃墟ではない、何か特別な意味を持つ場所であることを示唆していた。


 やがて、俺は一つの広間へとたどり着いた。


 その広間の中央には、石造りの台座があり、その上に、一本の剣が静かに安置されていた。


 他の武器は、壁に立てかけられた錆びついた槍や、埃を被った盾など、見るからに年代物ばかりだった。だが、その剣だけは、まるで昨日鍛えられたかのように、一点の曇りもなく、周囲の僅かな光を反射して妖しく輝いていた。


 黒漆くろうるしの鞘に収められた、美しい片刃の長剣。


 俺は、吸い寄せられるように、その剣へと近づいていった。


 そして、無意識のうちに、その鞘に手を伸ばす。


 指先が触れた瞬間、微かな温もりと、そして、まるで剣が俺に応えるかのような、不思議な共鳴を感じた。


 その剣を手に取った、まさにその時だった。


 広間の入り口から、複数の影が雪崩れ込んできた。


 それは、先ほど俺を追っていた、あの狼型の魔物の群れだった。どうやら、俺が転がり落ちた穴を見つけ、ここまで追ってきたらしい。


 数は、十匹以上。その目には、飢えた獣特有の、獰猛な光が宿っている。


 絶体絶命。

 俺は、咄嗟に、手にした剣を鞘から抜き放った。


 シュン――ッ!


 澄んだ金属音と共に、月光を凝縮したかのような、白銀の刃が姿を現す。


 その瞬間、俺の全身を、これまで感じたことのない、強大で、そしてどこか懐かしいような力が駆け巡った。まるで、長い間眠っていた何かが、呼び覚まされたかのように。


 狼型の魔物たちが、一斉に俺へと襲い掛かってくる。


 俺は、もはや無我夢中だった。

 ただ、本能の赴くままに、手にした剣を振るう。


 ザシュッ!


 一閃。最初に飛び掛かってきた魔物の首が、いとも簡単に宙を舞った。


 手応えが、ない。まるで、熟れた果実でも斬ったかのような、あまりにも軽い感触。


 俺は、戸惑う暇もなく、次々と襲い来る魔物たちを薙ぎ払い、切り裂き、突き刺していく。


 剣を振るうたびに、魔物たちは悲鳴を上げる間もなく絶命し、広間の石畳は、瞬く間に血の海と化した。


 それは、もはや戦闘というよりも、一方的な蹂躙じゅうりんだった。


 そして、最後の魔物を斬り伏せた時、俺は、血塗れの剣を握りしめたまま、呆然と立ち尽くしていた。


 広間には、魔物たちの死骸と、鉄錆のような血の匂いだけが満ちている。


(……なんだ……この力は……。俺は……一体……?)


 初めて体験する、圧倒的なまでの全能感。そして、敵を屠るという、原始的な快感。


 だが、それと同時に、俺の心の奥底で、何かが警鐘を鳴らしていた。


 激しい消耗感。頭の芯が痺れるような感覚。


 そして、先ほどまで感じていた剣との共鳴が、今はどこか歪み、まるで耳元で直接語りかけられているかのような、粘りつくような“囁き”へと変わっていた。


『もっと……もっと力を……。全てを破壊しろ……。お前には、その資格がある……』


 それは、この剣から発せられているのか、それとも、俺自身の心の闇が生み出した幻聴なのか。


 分からなかった。だが、このままではいけない、ということだけは、はっきりと理解できた。この囁きは、俺の理性を少しずつ蝕んでいくような、甘美で危険な響きを持っていた。


 俺は、その剣を『月詠つくよみ』と名付けた。


 月光のような白銀の刃と、その力が持つどこか妖しい魅惑。


 そして、あの静かで、冷たく、しかし確かに暗闇を照らし、そこに在り続ける月のように――俺もまた、この過酷な世界で、誰にも頼らず、ただ己の力だけで静かに存在し続けたい、そんな叶わぬ願いを、その名に込めたのかもしれない。


 『月詠』は、俺に生き残るための力を与えてくれた。だが、それは同時に、決して踏み込んではならない領域へと、俺を引きずり込もうとする、危険な力でもあった。

 それでもあのとき、手放すという選択肢はなかった


 俺は、誓った。


 二度と、この力に呑まれまい、と。


 無闇に、この剣を振るうことはすまい、と。


 そして、この力を制御しきれるようになるまでは、決して誰にも頼らず、ただ一人で生きていこう、と。


 それが、俺が『月詠』と出会い、そして、その力の代償の片鱗に触れた、最初の記憶。


 この忌まわしい異世界で、俺が孤独な戦いを始めることになった、全ての始まりだったのかもしれない。

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