第20話:世界の歪みは、静かに始まる

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 俺が意識を取り戻した時、旧地下祭壇の広間は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 祭壇の上には、あの虹色の水晶が、変わらず穏やかな光を放っている。

 そして、俺の手の中には、あの黒ずんだ銀色の指輪が握られていた。どうやら、祭壇の窪みから自然に外れたらしい。


(……一体、何が起きたんだ……?)


 身体に異常はない。むしろ、先ほどまでの疲労感が嘘のように消え去り、全身に活力がみなぎっているような感覚すらある。

 まるで、あの水晶の光に触れたことで、何らかの“浄化”あるいは“回復”が行われたかのようだ。


 俺は、ゆっくりと立ち上がり、改めて周囲を見渡した。

 影の巨人の気配は完全に消え、あれほど濃密だった魔瘴も、ほとんど感じられない。


 ただ、祭壇の周囲には、俺が月詠を振るった痕跡――床に刻まれた深い斬撃の跡や、壁に残る衝撃の跡――が生々しく残っている。


(……この水晶が、リサの言っていた“お宝”で間違いないだろうな)


 俺は、その虹色の水晶を慎重に手に取った。

 手のひらに乗せると、ずっしりとした重みと共に、温かく、そして清浄なエネルギーが伝わってくる。

 それは、魔瘴とは対極にあるような、生命力に満ちた力だった。


 これだけのエネルギーを秘めた物質だ、リサが目の色を変えるのも無理はない。

 だが、同時に、これが「世界の法則を書き換える」ほどの力を持っているとは、今の俺には到底思えなかった。


 あるいは、この水晶は、もっと別の目的のために存在するのかもしれない。

 例えば――魔瘴を浄化するため、とか。


 俺は、虹色の水晶と、黒ずんだ銀色の指輪を万能ポーチにしまい込み、旧地下祭壇を後にすることにした。

 これ以上ここに長居するのは危険だ。DRMの男が、いつまた現れるか分からない。


 帰り道、隠し通路を抜け、旧渋谷地下街ダンジョンの通常ルートに戻った時には、既に夜が明け始めていた。

 ダンジョンの入り口には、数人のDRM職員が慌ただしく動き回っているのが見えた。おそらく、昨夜のシルバーウルフの騒動と、その後の崩落事故の調査だろう。


 俺は、彼らに気づかれないように気配を消し、そっとその場を離れた。


 ホーリィ商会へ向かう道すがら、俺は昨夜の出来事を反芻していた。

 影の巨人、月詠の解放、そして虹色の水晶。

 それらは、俺の日常を、確実に非日常へと引きずり込もうとしている。


(……静かに生きる、か。どうやら、それはもう叶わない相談なのかもしれないな)


 自嘲めいた笑みが、自然とこぼれた。


◇ ◇ ◇


「――それで? “お宝”は見つかったのかい、蓮?」


 ホーリィ商会を訪れると、リサはカウンターの奥で、まるで俺の帰りを待ちわびていたかのように、にやにやと笑いながら尋ねてきた。

 その目には、期待と好奇の色が隠せない。


 俺は、無言で万能ポーチから虹色の水晶を取り出し、カウンターの上に置いた。

 水晶が放つ清浄な光に、リサは一瞬息を飲み、そして次の瞬間には、まるで宝石を見つけた子供のように、目を輝かせた。


「……こ、これは……! 間違いない、これがあの古文書に記されていた“星の涙”……! 本当に、見つけてきたのかい、蓮!?」


 リサは、興奮した様子で水晶に手を伸ばそうとするが、俺はそれを制した。


「触るな、リサ。こいつは、あんたが考えているような、ただの“お宝”じゃないかもしれない」


「……どういう意味だい?」


 俺は、旧地下祭壇での出来事――影の巨人の出現、祭壇と指輪の関係、そして月詠を使った戦闘の経緯を、かいつまんでリサに説明した。

 ただし、月詠の本当の力や、俺が異世界から来たということについては、まだ伏せておいた。


 俺の話を聞き終えたリサは、しばらくの間、難しい顔で黙り込んでいた。

 そして、やがて深いため息をつく。


「……なるほどねぇ。どうやらあたしは、とんでもないパンドラの箱を開けちまったのかもしれないね。世界の法則を書き換えるアーティファクト、か……。まあ、そんな大層なものが、こんな簡単に見つかるわけないとは思ってたけどさ」


 リサは、どこか諦めたような、それでいて吹っ切れたような表情で言った。


「だが、この水晶が、あんたの言うように魔瘴を浄化する力を持っているのだとしたら……それはそれで、とんでもない価値がある代物だよ。今のこの世界にとっては、な」


 リサは、カウンターの下から、例の黒ずんだ銀色の指輪を取り出した。どうやら、俺が持ち帰った後、彼女が保管していたらしい。


「この指輪と、あの祭壇の石片……そして、この水晶。これらは、何か大きな謎の一部なのかもしれないねぇ」


 リサが持ち出した「旧地下祭壇の石片」とは、以前俺が持ち帰り、彼女が分析していたものだろう。

 その石片からは、異世界の魔石と酷似しつつも、より不安定で強力な未知の魔素反応が検出されていたはずだ。


「……リサ。あんた、以前言っていたな。『大昔、この国で一度だけ、異界の門が開いたという記録があるらしい』と」


「ああ、言ったね。ただの都市伝説だと思ってたが……どうやら、あながちデタラメでもなかったのかもしれないね」


 リサは、意味ありげに俺を見た。

 彼女は、俺の正体にどこまで気づいているのだろうか。


 その時、ホーリィ商会の奥にある、リサ専用の情報端末が、静かに着信音を鳴らした。

 リサは、一瞬だけ俺に目配せをすると、端末を操作し、スピーカーモードで通話を開始した。


『――リサか。例の“観測対象A”の件だが、昨夜、旧渋谷地下街ダンジョン周辺で、極めて大規模な魔力変動と、未知のエネルギー反応を観測した。詳細なデータは送ったが……何か、心当たりは?』


 聞こえてきたのは、感情の読めない、フラットな合成音声。

 情報屋ノアの声だ。


 リサは、俺の顔をちらりと見ると、悪戯っぽく微笑んで答えた。


「さあねぇ。あたしは、ただのしがない素材屋だよ、ノア。そんな大層なこと、知るわけないじゃないか。……ただ、あたしの“パートナー”が、昨夜ちょっとした“大掃除”をしてきたみたいだけどね。そのお陰で、街の空気が少し綺麗になったような気がしないでもないかな?」


『……“パートナー”……ね。引き続き、対象Aの動向と、彼が持ち帰った“未知の物質”に関する詳細な報告を求める』


 ノアは、それだけを告げると、一方的に通話を切った。


「……だってさ、蓮。どうやらあんたは、あの情報屋に、ますます目をつけられちまったみたいだねぇ」


 リサは、肩をすくめて笑う。

 俺は、何も言わずに、窓の外に広がる、いつもと変わらないはずの街の風景を見つめていた。


 世界の歪みは、静かに、しかし確実に始まっている。

 そして俺は、その中心へと、否応なく引きずり込まれようとしていた。


 俺の静かな日常は、もう、どこにもないのかもしれない。

 だが、それでも――。


(……俺は、俺のやり方で、この歪みに立ち向かうだけだ)


 心の中で、そう呟いた。

 それは、新たな決意の始まりでもあった。




ーーーーーーーーーー

【あとがき】

ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。


日向蓮の物語、第1章「帰還者と裏店の日常」は、これにて一旦幕となります。

異世界からの帰還、リサとの出会い、そして“世界の歪み”の片鱗。

静かに生きたいと願う蓮の日常は、彼自身の力と、彼を取り巻く謎によって、静かに、しかし確実に変容を始めました。


次章からは、いよいよ物語が大きく動き出します。

幕間を挟み、第2章「歪む世界と、迫る選択」では、蓮が直面する新たな脅威、深まる謎、そして彼自身の内なる葛藤が描かれていく予定です。


引き続き、蓮とリサ、そして彼らを取り巻く者たちの運命を見守っていただけますと幸いです。

次回更新も、どうぞお楽しみに。

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