第19話:一撃、そして静寂
影の巨人の猛攻をかいくぐりながら、俺は荒廃した旧地下祭壇の奥、中央に据えられた祭壇へと一直線に駆けていた。石造りの天井からは時折砂埃が落ち、足元にはひび割れた装飾タイルが不規則に散らばっている。気温は低く、肌を刺すような冷気が充満していたが、それ以上に身を蝕むのは、背後から迫る魔瘴と邪悪な気配だった。
その気配は、まるで空間そのものを軋ませるかのように、重く、黒く、粘りついてくる。追いすがる無数の影の触手が、空間の歪みを引き裂きながら、うねりを上げて俺に迫る。
(……間に合え……!)
俺は万能ポーチの中に手を突っ込み、包んでいた布ごと、小さな黒ずんだ銀色の指輪を取り出した。指輪は手の中で微かに振動し、まるで熱を帯びているかのような感覚が伝わってくる。脈動するようなその熱は、確かにこの空間――この祭壇に呼応している。俺の勘は確信に近かった。
祭壇まであと数メートル。だがその瞬間、背後から飛来した巨大な触手が俺の肩を掠めた。
「ぐっ……!」
鉄棒のような衝撃と共に、身体が横に弾かれ、壁際に倒れ込む。肩に走る激痛をこらえ、俺は再び立ち上がった。息が乱れる。全身が汗ばんでいる。
もはや選択の余地はない。俺は必死に手を伸ばし、祭壇の中央にある石の窪みに指輪を押し込んだ。
カチリ、という小さな音。
指輪は吸い込まれるように、ぴったりとその窪みに収まった。
――その瞬間。
祭壇全体が、まばゆい光を放ち始めた。柱や床の彫刻に沿って、光の紋様が走り抜ける。そして、あれほど猛り狂っていた影の巨人の動きが、ぴたりと静止した。
「グ……オ……?」
低く濁った声が響く。巨人は苦しげに身をよじらせ、何か見えない枷に抗うように激しく震え始めた。
白光はさらに強まり、祭壇の周囲数メートルを包み込む。瘴気の気配がわずかに後退し、この光に“浄化”の性質があることを、肌で感じ取る。
(……これは……封印の儀式か何かか……?)
だが、光の力はこの異形を完全に制御するには至っていなかった。
光に包まれた祭壇を前に、俺はただ息を呑んで立ち尽くしていた。指輪が発動したことで、何らかの封印が作動し、影の巨人の動きを制御しかけている。空間全体を満たしていた瘴気は薄まり、わずかに清浄な空気が戻ってきていた。
だが――それは束の間の静寂に過ぎなかった。
「グオオオオオオオオオオオオオッ!!」
影の巨人が、咆哮を上げた。石壁を震わせるような絶叫と共に、その身体が再び膨張を始める。全高はすでに天井に届きそうなほど。体表には黒い靄が濃く絡みつき、魔瘴の濁流が視界を覆っていく。
光の加護すら、完全には抑え込めないのか。祭壇の力と影の巨人の力が、せめぎ合うように空間でぶつかり、空気がひどく不安定になる。赤い一つ目がぎらつき、俺を見据えていた。
(……このままでは、封印が破られる。地上まで被害が及ぶかもしれない)
焦りが喉を焼く。ここは、街の地下に隠された旧遺跡の一つ。地盤は古く、これ以上の衝撃が加われば崩落する可能性もある。何としても、この場で巨人を止めるしかない。
(……やるしかないのか……!)
俺は、右腰の拡張カバンに手を差し入れ、奥にしまい込んでいた一本の剣の柄を探る。異世界時代の愛剣――『月詠』。この剣は、俺の力を象徴するもの。そして、その力を解放するということは、同時に俺が「普通の人間」であるという偽りを捨てるということでもある。
「……すまない、月詠。また、お前の力を借りるぞ」
柄を握りしめた瞬間、全身に電撃のような感覚が走る。鞘から抜かれた月詠は、暗がりの中で淡い白銀の光を放ち、祭壇の聖光と競うように輝いた。
その瞬間、身体の奥に沈んでいた戦士としての記憶が呼び起こされる。異世界で幾度となく剣を振るった時の感覚――魔力の流れ、敵の気配、空間の歪み。すべてが手に取るように見える。
祭壇の正面に立ち、月詠を正眼に構えた俺に向け、影の巨人が無数の触手を解き放った。天井を裂くような速度で降り注ぐ黒い槍の嵐。しかし――
すべてが、遅い。
触手の雨を抜け、俺は影の巨人の懐へと一気に踏み込んだ。
「――月光、一閃」
無意識に漏れた技の名と同時に、月詠が閃く。刃は鋭く伸びる軌跡を描き、巨人の赤い一つ目を正確に捉えた。
ザシュッ――。
確かな手応えと共に、斬撃が巨人の核らしき部位に達した。だが、次の瞬間、異様な感触が返ってくる。巨人の身体は、まるで霧か粘土のように斬撃を受け流し、核は消えずに残っていた。
(……やはり、物理攻撃だけでは決定打にはならないか。ならば――)
俺はすぐに構えを変え、月詠に魔力を注ぎ込む。刀身が、よりまばゆい白銀の光を帯び始めた。かつて異世界で、幾度となく魔物を討つために磨いた剣技――対魔物用の魔力斬撃だ。
闇に侵された敵を討つには、その魔核を破壊する必要がある。ただ力任せに斬るだけでは届かない。斬撃と魔力の流れを同調させ、相手の内側から崩す必要がある。
「――破魔、月影斬」
俺の気配が変化するのを、巨人も察したのだろう。再び、無数の触手が全方位から迫ってくる。だが――遅い。
俺は、一歩、また一歩と正確に足を運びながら、触手の合間を縫うように進む。空間が広がったような錯覚すら覚える集中状態の中、月詠が赤い核へとまっすぐ突き出された。
ピシィッ。
刃が核に到達した瞬間、割れるような音と共に、巨人が叫び声を上げる。
「ギ……イイイイイイイイイイイイッ!!!」
その声は、耳をつんざくような異音だった。巨人の身体は、核を中心に激しく震え、次第に黒い瘴気を撒き散らしながら崩れていく。
断末魔の咆哮と共に、その巨大な影は崩壊を始めた。粘性を帯びた黒霧が飛散し、空間の瘴気が急速に薄れていく。
やがて、その身体は完全に崩れ去り、まるで最初から存在していなかったかのように、瘴気すら残さず霧散した。
広間に静寂が戻る。再び、俺は月詠を構え直したが――敵の気配はもう、どこにもなかった。
(……終わった、のか?)
祭壇の上では、封印の光が穏やかに明滅を繰り返し、やがて静かにその輝きを収めていった。窪みに嵌められた指輪だけが、名残を惜しむようにわずかに脈動していた。
俺は剣を下ろし、深く息を吐いた。汗が頬を伝い、指先がわずかに震えている。久々に本気で戦った代償が、身体に残っていた。
それでも、心にはどこか懐かしい感触があった。異世界での戦いを思い出させる、あの剣と魔力が一体になる感覚。失われたはずのものが、ここにあるような気がした。
静寂が訪れた広間には、戦いの余韻だけが残っていた。
俺はゆっくりと月詠を鞘に収め、荒い息を整える。全身の筋肉が心地よい疲労に包まれていた。指先にはまだ、斬撃の感覚が残っている。
あの影の巨人は、一体何だったのか。そして、祭壇に嵌めた指輪の正体は――?
ふと視線を巡らせると、祭壇の中央に何かが置かれているのが目に入った。淡い光を帯びた、小さな物体。戦闘の直後、いつの間にか出現したらしい。
近づいてよく見ると、それは手のひらに収まる程度の、水晶のような石だった。表面は滑らかで、虹色の光が内包されている。まるで生きているかのように、一定のリズムで光が明滅していた。
その瞬間、俺の脳裏に浮かぶものがあった。
(……これが、リサの言っていた“アーティファクト”……なのか?)
リサが口にしていた、古代文明の遺産。異能や記憶を宿すとされる、危険でもあり、同時に価値のある遺物。まさか、本当にこんな場所に存在していたとは。
この地下祭壇は、広さにして十数メートル四方ほどの石造りの空間だった。壁面にはかつての儀式を描いた古代文字が刻まれ、祭壇の周囲には、いくつかの焦げ跡とひび割れが残っている。先ほどまでの激しい戦いの痕跡が、そこかしこに散らばっていた。
天井は高く、吹き抜けのように上空に続いているが、そこからの光は差し込んでいない。照らしているのは、俺の足元に落ちた月詠の残光と、祭壇に残された水晶の微光だけだ。
俺は、ゆっくりとその水晶に手を伸ばした。冷たいのかと思いきや、指先に触れた瞬間、柔らかな温もりが伝わってくる。
そして――。
突如、強烈な光が視界を包み込んだ。その輝きは、先ほどの祭壇の封印光とは異なる、もっと内面的な何かを揺さぶるような光だった。意識が引き込まれる。重力が崩れ、世界が反転する感覚。
頭の奥に響く、ノイズ混じりの声。まるで誰かが耳元で囁くような……。
俺は、思わず目を閉じた。
そして、そのまま――意識を手放した。
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