第15話:魔瘴の残滓と腐敗の記憶

 ホーリィ商会での一件以来、俺の日常は、表面上は以前と変わらないように見えた。


 リサからの依頼で時折ダンジョンに潜り、素材を納品する。その合間には、自室で情報収集をしたり、力の制御のための鍛錬をしたり。


 だが、心の奥底では、常に言い知れぬ不安と焦燥感が渦巻いていた。


 あの「番頭さん」と名乗る謎の老人。彼が口にした「我が主」という存在。そして、リサが関わろうとしている「例の“品”」の件。


 俺の知らないところで、何かが大きく動き出そうとしている。その予感が、日増しに強くなっていた。


 そして、それ以上に俺の神経を苛んでいたのが、あの忌まわしい魔瘴の気配だった。


 最近では、ダンジョン内部だけでなく、街中のごく普通の場所でも、ふとした瞬間にその残滓を感じることが増えていた。

 それは、まるで腐臭のように、俺の鼻腔の奥にまとわりつき、不快な記憶を呼び覚ます。


「―――来るなッ! 俺に、近づくなァァァァ!!」


 それは、かつての仲間だった男の、最後の叫びだった。

 彼の目は赤黒く濁り、口からは涎と血反吐が滴り落ちる。その手には、かつて共に磨き上げたはずの剣が握られ、その切っ先は、俺に向けられていた。


 彼の周囲には、濃密な魔瘴が渦巻き、空間そのものを歪ませているようだった。

 もう、言葉は通じない。理性は失われ、ただ純粋な破壊衝動だけが彼を支配している。


 俺は、震える手で『月詠』を構えた。

 切りたくない。戦いたくない。

 だが、やらなければ、他の仲間たちが殺される。


「アルフ……ごめん……ごめんな……っ!」


 涙で視界が滲む中、俺は渾身の力で剣を振り下ろした――。


「―――はっ……ぁっ、はぁっ……!」


 俺は、悪夢から逃れるように、勢いよく上半身を跳ね起こした。

 額には脂汗が滲み、心臓が激しく鼓動している。


(……また、この夢か……)


 最近、眠りが浅くなると、決まってこの光景が蘇る。

 魔瘴に侵され、正気を失った仲間たち。そして、彼らをその手で斬り捨てなければならなかった、あの日の記憶。


 それは、俺の魂に深く刻まれた、決して消えることのない傷跡だった。


 あの時、もっと早く魔瘴の危険性に気づいていれば。

 あの時、もっと俺に力があれば。

 仲間たちを、救えたのではないか――。


 そんな後悔と自責の念が、五年経った今も、俺の心を蝕み続けている。


「……静かに生きたい」


 俺が現代に帰還してから、何度も心の中で繰り返してきた言葉。

 それは、単に平穏な日常を望むというだけでなく、もう二度とあのような悲劇を繰り返したくない、誰かを傷つけたり、失ったりしたくないという、切実な祈りにも似た願いだった。


 だが、この世界にも魔瘴が存在し、そしてそれが広がりつつあるのだとしたら。

 俺のそのささやかな願いすら、踏みにじられることになるのかもしれない。


(……魔瘴は、どこから来るんだ……? なぜ、この世界にまで……?)


 異世界では、魔瘴は古代の邪神の怨念だとか、世界の歪みから染み出す負のエネルギーだとか、様々な説があったが、その正体は最後まで分からなかった。


 ただ一つ確かなのは、魔瘴が生物の精神を汚染し、凶暴化させ、最終的には破滅へと導く、恐ろしい力を持っているということだけだ。


 俺は、ベッドから下り、窓を開けた。

 ひんやりとした夜風が、火照った顔を撫でる。


 眼下に広がるのは、眠りについた街の灯り。

 この平和に見える光景の裏側で、静かに、しかし確実に、魔瘴の汚染が進行しているのかもしれない。


(……俺に、何ができる……?)


 異世界での経験と力は、あるいはこの世界の魔瘴に対抗する上で役立つかもしれない。

 だが、それは同時に、俺が再び戦いの渦中に身を投じることを意味する。


 静かに生きたいという願いと、迫りくる脅威への危機感。

 その二つの間で、俺の心は激しく揺れ動いていた。


◇ ◇ ◇


 翌日、俺はリサに呼び出され、ホーリィ商会を訪れた。

 彼女は、カウンターの奥で何やら新しい商品の整理をしているようだった。


「よう、蓮。ちょうどいいところに来たね。ちょっと、あんたに見てもらいたいモンがあるんだ」


 リサは、そう言うと、小さな桐の箱のようなものをカウンターの上に置いた。

 箱の中には、黒ずんだ銀色の指輪が一つ、収められている。


 一見すると、ただの古びた装飾品にしか見えない。

 だが、俺は、その指輪から放たれる微弱な、しかし間違いなく異質な気配を感じ取った。


「……これは?」


「昨日、とある探索者が持ち込んできた“曰く付き”の品さ。なんでも、最近出現したばかりの未確認ダンジョンの奥で見つけたらしいんだが……装備した途端、持ち主がひどい頭痛と吐き気に襲われて、慌てて手放したんだと」


 リサは、面白がるように説明した。

 俺は、その指輪を慎重に手に取り、観察する。


 指輪の内側には、見たこともない奇妙な文様が刻まれていた。

 そして、その表面からは、ごく僅かだが、魔瘴の気配が感じられる。


(……呪われた装備、か。あるいは、魔瘴に汚染されたアーティファクト……)


 異世界では、こういった品は珍しくなかった。

 強力な力を秘めている代わりに、装備者に何らかの代償を強いる、危険な代物。


「リサ。この指輪を持ち込んだ探索者は、その後どうなった?」


「さあね。あたしが知る限りじゃ、ピンピンしてるみたいだけどね。ただ……なんだか、以前より少し“攻撃的”になったような気がしないでもない、って話は聞いたかな」


 リサの言葉に、俺は眉をひそめた。

 魔瘴による精神汚染は、徐々に進行する。初期症状としては、気分の高揚や攻撃性の増大などが現れることが多い。


 この指輪は、間違いなく危険な代物だ。


「……この指輪、俺が預かってもいいか?」


「へえ? あんた、こんな気味の悪いモンに興味があるのかい?」


「少し、気になることがある。……もし、これが本当に危険なものなら、あんたの店に置いておくわけにもいかないだろう」


 俺の言葉に、リサは一瞬意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべた。


「……ふーん。まあ、いいさ。あんたがそう言うなら、好きにしなよ。ただし、もし何かあっても、あたしは責任取らないからね」


 俺は、その指輪を万能ポーチの奥にしまい込んだ。

 この指輪から放たれる魔瘴の気配は、俺の過去の記憶を刺激し、不快な感情を呼び覚ます。


 だが、同時に、この世界に広がりつつある魔瘴の謎を解くための、何らかの手がかりになるかもしれないという、淡い期待も抱いていた。


 静けさを求める俺の心とは裏腹に、俺自身が、騒動の中心へと引き寄せられているような、そんな奇妙な感覚が、ますます強くなっていた。

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