第2話:失われた時と隣人の壁
窓から差し込む朝日が眩しく、俺はゆっくりと目を開けた。
昨夜の悪夢の残滓は消え、身体の重苦しさも幾分か和らいでいる。
異世界での習慣で、ごく浅い眠りしか取れない身体になってしまっていたが、それでも久しぶりの自室のベッドは、強張った神経を少しだけ解きほぐしてくれたようだ。
「……さて、と」
まずは情報収集だ。
リビングに置かれたままだった古いノートパソコンを開き、電源を入れる。幸い、まだ壊れてはいないようだ。
問題はインターネット環境だが……壁のLANポートにケーブルを差し込むと、あっさりと繋がった。
どうやら、俺が異世界へ行っている間も、契約は継続され、料金も引き落とされていたらしい。
(ありがたいが……複雑だな)
手始めに、大手ニュースサイトを開いてみる。
目に飛び込んできたのは、政治経済の動向、芸能人のスキャンダル、そして、やたらと自己主張の激しい広告バナーの数々。
五年という月日は、俺が思っていた以上に社会の細部を変化させていた。
スマートフォン自体は見慣れたものだったが、その性能の向上ぶりや、キャッシュレス決済の急速な普及。
街中で見かけるようになった電動キックボード。
そして何より、人々が以前にも増して画面に没頭し、現実世界でのコミュニケーションが希薄になっているように見える光景には、軽い戸惑いを覚えた。
(……世界の流れは、止まらないんだな……)
検索窓に「五年間の主な出来事」と打ち込んでみる。
異世界では、情報は命綱だった。限られた情報の中から真偽を見抜き、活路を見出す“情報処理能力”が、何度も俺の命を救った。
だが、この現代社会の情報の奔流は、あまりに雑多で、ノイズが多すぎる。
異世界で磨かれたはずの能力が、この世界では逆に、無意味な情報に埋もれてしまいそうだ――。
「……少し、頭を冷やすか」
俺はノートパソコンを閉じ、立ち上がった。
埃をかぶったクローゼットから、当たり障りのない地味なシャツとジーンズを引っ張り出して着替える。
行き先は決めていた。両親の墓だ。
最後に顔を見てから、もう五年以上が経ってしまっている。
マンションを出て、最寄りの駅へ向かう。
平日の午前中だというのに、駅のホームは思った以上の人でごった返していた。誰もがスマートフォンに視線を落とし、足早にホームを移動していく。
その無防備さ、周囲への関心の薄さに、俺は軽い眩暈を覚えた。異世界では、常に周囲を警戒し、敵意や殺気を感知するのが当たり前だった。
(……力を、抜かないと)
電車に乗り込んでも、人の波に揉まれながら、俺は必死に自分の身体感覚を制御しようと努めた。
少しでも気を緩めれば、無意識のうちに人を押しのけてしまったり、あるいは逆に、些細な接触で相手を吹き飛ばしてしまいかねない。
墓地は、都心から少し離れた、緑の多い静かな場所にあった。
受付で場所を確認し、真新しい墓石の前に立つ。両親の名前が並んで刻まれているのを見て、改めてその死を実感した。
「父さん、母さん……ただいま」
声に出したつもりはなかったが、自然と口からこぼれていた。
「色々……本当に、色々あったけど……何とか、帰ってきたよ」
異世界での出来事を、どこまで話すべきか。いや、話したところで、信じてもらえるはずもない。
ただ、心の中で、これまでの経緯と、そしてこれからの決意を伝えた。
(これからは……静かに、ここで生きていく。もう、誰にも迷惑はかけない。だから……どうか、安らかに)
買ってきた花を供え、線香をあげる。
煙が風に揺られ、空へと昇っていくのを、俺はしばらく無言で見つめていた。
心の整理がついたわけではない。だが、一つの区切りだけは、つけられたような気がした。
◇ ◇ ◇
墓参りを終え、マンションに戻ってきたのは昼過ぎだった。
エレベーターホールでボタンを押そうとした時、背後から声がかかった。
「あら、日向さん? お久しぶりねぇ」
振り返ると、買い物袋を両手に提げた、ふくよかな体型の中年女性が立っていた。
俺の記憶にはない顔だが、おそらく同じマンションの住人なのだろう。
「……どうも」
俺は、ぎこちなく会釈を返した。
警戒心が頭をもたげる。相手に敵意がないことは分かっているが、どうにも他人との距離感が掴めない。
「本当に、見ない間にすっかり立派になられて。どちらかへお引越しでもされてたの?」
世話焼きな口調で、女性は屈託なく話しかけてくる。
俺は、どう答えるべきか一瞬迷った。
「……ええ、まあ……少し、遠くへ」
曖昧に言葉を濁す。
女性は、特に気にした風もなく、「そうだったのねぇ」と頷いた。
エレベーターが到着し、二人で乗り込む。狭い空間での沈黙が、俺には針の筵のように感じられた。
「お仕事とかは、どうされてるの? もしよかったら、うちの息子も今就職活動中でねぇ……」
女性の言葉は続く。
俺は、ただ「はあ」「ええ」と短い返事を繰り返すばかり。内心では、早くこの状況から逃れたい一心だった。
自分の階に着き、俺はやや早口に「……失礼します」とだけ告げ、逃げるようにエレベーターを降りた。
「それじゃあ、またね、日向さん」
背後からかけられた女性の言葉に、俺は一瞬足を止め、振り返ることなく、ほんのわずかに声を張った。
「……あ、ありがとうございました」
たった一言。絞り出すような、小さな声。でも、それが今の俺には、他人に対する精一杯の配慮だった。
自室のドアを閉め、鍵をかけた瞬間、どっと疲労感が押し寄せてくる。
(……疲れた……)
ただ挨拶を交わし、短い会話をしただけだというのに、全身の神経をすり減らしたような気分だった。
無意識のうちに、相手の表情、声のトーン、些細な仕草まで観察し、警戒していたのだろう。
静かに生きるためには、まずこの過剰な警戒心をどうにかしなければならない。
◇ ◇ ◇
夕食は、駅前のコンビニで買ってきた弁当で済ませた。
味気ないプラスチックの容器に入った、温められただけの食事。
異世界での、素材の味を生かした(というより、それしかできなかった)野趣あふれる料理とは、あまりにもかけ離れている。
それでも、一人で食べる食事の静けさは、俺にとってはある種の安らぎでもあった。
(これから、どうするか……)
漠然と、今後のことを考える。
両親が遺してくれた僅かな貯えと保険金、そして購入したマンションがあるとはいえ、いつまでも無職でいるわけにはいかない。
だが、普通の仕事に就けるだろうか? この身体能力と、この警戒心を抱えたままでは、まず間違いなく周囲から浮くだろう。
(まずは……この力を、完全に制御できるようになることだな……)
それが、当面の最大の課題だと、俺は改めて認識した。
人並みの力加減、人並みの反応速度、人並みの感覚。
それらを取り戻さない限り、「静かに生きる」というささやかな願いすら、叶えることは難しいのかもしれない。
テレビの音が虚しく響く部屋で、俺は一人、深い溜息をついた。
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