第1部:帰還者と星詠みの夜明け~眠れぬ記憶が、星を呼ぶ~

第1章:静寂を望む帰還者と影の商会

第1話:五月雨の帰還

「―――ッ!」


 獣の咆哮が鼓膜を突き破り、血飛沫が視界を赤く染め上げる。仲間たちの断末魔が、脳髄の奥で木霊した。


 そして、俺の剣が、圧倒的な力で“何か”を薙ぎ払った瞬間の、あの悍ましいまでの全能感が蘇る――。


「はっ……ぁっ、はぁっ……!」


 俺は、勢いよく上半身を跳ね起こした。

 荒い呼吸を繰り返しながら、暗闇の中で周囲を見渡す。


(……夢、か……)


 肌にまとわりつくのは、生温かい汗。


 異様な静寂が、支配する空間。窓の外からは、しとしとと降る雨の音だけが聞こえていた。


(ここは……俺の、部屋……?)


 五年前とほとんど変わらない、見慣れた天井。壁にかけられたままの、色褪せたポスター。


 間違いない。ここは、日本にある、俺――日向蓮ひなた れんのマンションの一室だ。


「……帰って、きたのか……本当に……」


 呟いた声は、掠れていた。


 五年という月日が、現実感を伴って胸に迫る。長かったような、それでいて、まるで昨日のことのようにも感じられる、濃密で過酷な時間だった。


 もう、あの血と硝煙の臭いも、魔物の耳障りな咆哮も、絶えず感じていた殺気も、ここにはない。


(静かだ……静かすぎる……)


 だが、その静けさが、今は何よりも俺の心を落ち着かせた。


 異世界での日々は、常に死と隣り合わせだった。一瞬の油断が命取りになる世界で、神経を張り詰め続けなければならなかった。


 それに比べれば、この日本の夜は、天国のように穏やかだ。


 ゆっくりとベッドから足を下ろし、床に立つ。


 身体の節々が軋むような感覚は、まだ残っていた。異世界で負った無数の傷跡が、疼いているのかもしれない。


(まずは……水を一杯、飲みたい)


 喉がカラカラに乾いていた。

 おぼつかない足取りで、寝室のドアを開ける。


◇ ◇ ◇


 洗面所の明かりをつけると、鏡に映った自分の姿に、俺は思わず息を飲んだ。


(……これが、俺……か)


 最後に鏡で自分の顔を見たのは、いつだっただろうか。


 記憶もおぼろげな五年前の自分と比べれば、幾分か精悍さが増したようにも見える。

 

 だが、それ以上に、目の下に刻まれた隈や、僅かにやつれた頬が、異世界での過酷な日々を物語っていた。


 左の眉の上には、うっすらとだが、治りきらなかった傷跡も見える。あの時、もう少し深ければ、失明していてもおかしくなかった。


(両親は……もういないんだったな……)


 高校生だった俺が異世界へ飛ばされる、ほんの数ヶ月前。両親は突然の事故で帰らぬ人となった。


 悲しみの中で、それでも何とか葬儀を終え、彼らが遺してくれたものと、保険金で、この1LDKマンションの一室を手に入れた。


 新しい生活を始めよう、そう思った矢先だった。この部屋に越してきて、まだ荷解きも終わらないうちに、俺は異世界へと……。


 結局、両親の死を本当の意味で悼む時間も、この新しい部屋で彼らを偲ぶ余裕もなく、全てが強制的に断ち切られた。

 

 そのやり場のない想いと、置き去りにしてしまった日常への未練が、五年経った今も、重く胸にのしかかる。


 孤独感というには、少し違う。異世界でも仲間はいたが、最終的には誰も守れなかった。


 守れなかったどころか……。


「……やめよう」


 俺は小さく首を振り、蛇口を捻った。


 冷たい水で顔を洗い、渇いた喉を潤す。


 リビングへ移動すると、壁にかけられたカレンダーが目に入った。五年前の、あの忌まわしい日付で止まっている。


 スマートフォンは、もちろん電源が入らない。充電器も見当たらない。


(浦島太郎、だな……完全に)


 テレビの電源を入れると、深夜のニュース番組が流れていた。


 日付は、確かに五年後の現代を示している。


 画面の中で流れる、平和で、どこか退屈そうな日本の日常風景。それが、今の俺には眩しく見えた。


「そうか……本当に、終わったんだな……」


 ソファに深く沈み込み、俺は天井を仰いだ。


 異世界での記憶が、走馬灯のように蘇っては消えていく。


 もう、あそこへ戻ることはないだろう。


(俺は……静かに生きたい……)


 ただ、それだけを願っていた。


 誰にも関わらず、誰の目にも触れず、ただ息を潜めるように、この世界の片隅で生きていければ、それでいい。


◇ ◇ ◇


 ふと、喉の渇きを再び覚えた。

 冷蔵庫を開けようと、ドアハンドルに手をかける。


 ミシッ。


「……あっ」


 軽い金属の軋む音。

 見ると、冷蔵庫のドアハンドルが、僅かにだが歪んでいた。


(……しまった。力を、込めすぎた……)


 異世界では、常に身体能力を強化して行動するのが当たり前だった。

 

 魔物との戦闘はもちろん、日常的な動作でさえ、魔力による身体強化なしではままならない状況が多かった。


 その感覚が、まだ抜けきっていない。


 棚から落ちそうになった醤油差しを、人間離れした反射神経で掴み取り、俺は深くため息をついた。


(この身体……どうしたものか……)


 現代の物や人間は、異世界に比べて遥かに脆い。


 少し力を入れただけで、簡単に壊れてしまうだろう。人も、物も。


 目立ちたくない、静かに生きたいと願うなら、この規格外の力は、徹底的に抑え込み、隠し通さなければならない。


「……面倒だな……」


 ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく、静かな部屋に溶けていった。


◇ ◇ ◇


 窓の外が、白み始めていた。


 カーテンを開けると、雨はいつの間にか上がっており、朝焼けの淡い光が街を照らし始めている。


 眼下に広がるのは、見慣れた、しかしどこか新鮮な日本の街並み。


「静かに、生きる……」


 俺は、その決意を新たにした。


 もう、戦う必要はない。誰かを守るために、あるいは生き残るために、力を振るう必要もない。


 ただ、この平和な世界で、人知れず生きていく。


 だが――。


(……この胸騒ぎは、なんだ……?)


 心の奥底で、微かな、しかし無視できない何かが蠢いているのを感じる。


 それは、異世界で常に感じていた、あの不快な魔瘴の気配の残滓にも似ていた。あるいは、これから始まるであろう、新たな騒動の予感なのかもしれない。


 異世界での経験は、俺の身体だけでなく、その魂にも、決して消えない何かを刻み付けていた。


 平穏への強い願いとは裏腹に、俺の新しい日常は、まだ始まったばかりだというのに、既に小さな波紋を立て始めているのかもしれなかった。

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