夢逢人

霧朽

獏の夢

 青白い指につままれたカプセルが時代遅れの白熱電球に照らされ、てらてらとした艶を見せていた。男は意を決してそれを口へ放ると、度数が高いだけの安いウイスキーで流し込んだ。


 男は空っぽだった。熱中できるものはなく、恋人はおろか、友人と呼べる存在さえいない。両親からはとうに限りを付けられ、もう何年も顔を見ていなかった。唯一の優しい記憶は幼少期のものだったが、そんなものはとうに擦り切れていた。


 男の持つ薬は〈ソムニ〉と言い、その一錠で服用者の望む夢を見せるという代物だった。ある科学者が作り出したそれは今ではごく一般的な抗うつ薬の一種となっており、想い人の写真を枕元に潜ませるまでもなく、カプセル一つで夢を操ることができる時代に彼は生きていた。


 〈ソムニ〉はカウンセラーとの面談を経て〈調律〉される。その内容は様々で、依頼人の語る理想やディティールを詰めるだけで済む場合もあれば、まず依頼人の夢を考えることから始まる場合もある。


 男もまた、〈ソムニ〉を入手するにあたって、三時間ほどのカウンセリングを済ませていた。自身の空虚さを再確認するだけの作業は苦痛でしかなかったが、辛い現実から離れ、安眠を手にしたいという思いが彼を突き動かした。


 〈ソムニ〉を飲み下した男は、何をするでもなく壁のシミを眺めた。胃の中で溶け出したカプセルによって意識が白んでいく。自身を襲う強烈な酩酊に身を任せると、やがて男の意識はまどろみの中へと落ちた。


 *


 目を覚ました男が最初に目にしたのは、机の立ち並ぶ様と統一された制服に身を包んだ子供たちの姿だった。


「ここは……教室?」


 見覚えのある景色と制服に、通っていた中学の教室だろうかと辺りをつける。

 時計を見るとちょうど昼休みの時間らしく、喧騒が耳を突いていた。生徒たちは男に見向きもしない。試しに近くにいた少年に触れようとしたが、まるで幽霊のように男の手はすり抜けてしまった。


「懐かしいな……」


 男は感慨に耽り、辺りを見回す。すると、生徒たちから距離を置くようにして本を読む少年が目に留まった。それは男の少年時代の姿だった。


「おい奥寺」


 ドキリと心臓が跳ねる。聞き覚えのある声だった。

 いつの間にか、少年の周囲には数人の子供たちが集まっており、ニヤニヤと陰湿な笑みを浮かべていた。

 男はこの後に起こることを知っていた。彼らは自分から正常だった頃の母が買い与えてくれた本を奪って。執拗なほどにそれを破って破って破って破って破って破って破って破って破って破って破って破って破って破って破って破って。


「やめろ」


 声が漏れる。止めようと手を伸ばしても、それは無為にすり抜けるだけだった。


「やめてくれ」


 蓋をしていたはずの記憶に男はみっともなく懇願する。しかしそれが少年たちに聞こえるはずもなく、彼らの手は本へと伸びて――


「おはよう、お寝坊さん。それともまだ夢の中かな?」


 鈴を転がすような声が耳朶を打った。男の眼前にいたのは生徒などではなく、自身を覗き込む一人の少女だった。均整の取れた顔立ち。頬には特徴的なそばかすがあったが、それは百合の花弁に色づく斑のように彼女の魅力を引き立てていた。


「君は……?」

「私? 私はヒョウ。獏のヒョウ。よろしくね、人間のお兄さん」

「夢を食べる、あの?」

「んー……正確には悪夢を、かな。最近は〈ソムニ〉とかいうカプセルのせいでお腹ペコペコでさ。それでお兄さんの夢にお邪魔してたんだ」


 これは本当に現実なのだろうか。そう思案を巡らせたとき、それ裏付けるように記憶が蘇る。そうだ、きっとこれは〈ソムニ〉が見せている夢に違いない。でなければ、こんな運命的かつ非現実的なことが自分に起こるはずもなかった。


「まったく、〈調律師〉も雑な仕事するよね。まあ、そのお陰でご飯が食べられてるんだけど。お兄さんの悪夢、とってもおいしかったよ」と、ヒョウは顔を綻ばせた。


 どうやららしかった。登場人物は理想の形をした上で、服用者が納得できるだけの世界観。悪夢を見せられたと気付いたときは混乱してしまったが、そこからの展開を考えれば、実によくできた夢だと男は舌を巻く。僅かに引っかかりのようなものもあったが、今この場においては些細な事だった。


「おいしい悪夢のお礼ってわけじゃないけど、折角だしちょっとだけお話しない?」


 断る道理はなかった。男は立ち上がると、周囲を見渡す。いつの間にか辺りは教室から一面の海へと変化していた。彼とヒョウ以外に人影は見当たらない。穏やかに揺れる水面が太陽の光を反射して煌めき、視界の端では遊泳区域を示すオレンジ色の浮標が揺蕩っていた。


「そういえば、ここは一体何処なんだ?」

「強いて言うなら、理想の景色……かな。まぁ、何処でもいいじゃん。だって、こんなに綺麗なんだし。お兄さん、いいセンスしてるよ」


 ずっと昔、似たような場所に来たような感覚を覚えつつも、それもそうかと男は考えるのをやめた。


「お兄さんはどんな夢を〈調律〉してもらったの?」

「美少女と物語のような出会いを果たす夢……だと思う。お試しとして渡されたやつを飲んでみただけだから、詳しくは僕も知らないんだ」

「うーん、夢だね」

「違いない」


 二人は顔を見合わせて笑った。男に最も幸福だった瞬間を問えば、百回中百回とも今この瞬間だと答えただろう。いっそ夢だと割り切れてしまうほどに、この夢は男の欲望を満たしていた。


 それからは好きな食べ物や趣味のことなど、他愛もない会話が続いた。


「夢だから、そこにあると思えばあるんだよ。整合性はなくてもね」


 そう語るヒョウの手にはソフトクリームと二世代以上前の携帯ゲーム機が握られていた。男が彼女と同じものを願えば、それらはすぐに男の手に現れる。


「そうそう。初めてなのに上手だね」

「空っぽを埋めるための妄想なら大の得意さ」

「うわっ、悲しいこと言わないでよ」

「困ったな、他に話のレパートリーがない」

「本当に悲しいじゃんかさぁ!」


 くっくっくっと、堪えきれなかった笑いが漏れた。男がゲームを起動すると、昔流行ったレースゲームが画面に表示される。不思議なことにゲームは初めから対戦モードになっており、CPUに混じってヒョウというネームタグが点滅していた。


「じゃ、今から楽しいことしよっか」

「負けないよ?」

「こっちのセリフですとも」


 *


「あー、遊んだぁ〜!」


 ばたりと、男とヒョウが仰向けに倒れると、充実した疲労感が体を襲った。汗ばんだ体に冷たい砂浜が心地よかった。


「わはは、もう動けないや」

「スイカ割りにビーチフラッグ、遠泳だっけ?」

「ビーチバレーも」

「ああ、確かに」


 勝敗はどれもヒョウの圧勝だったが、男はそれでも満足していた。彼が疲労感に身を任せていると、不意に彼女の声が鼓膜を揺らした。


「さてさてお兄さん。もうそろそろ目を覚ますお時間ですが」


 徐々に世界が白み出していた。


「……目を覚ましたくないな」

「あはは、ダーメ。現実の人間は現実に帰らなくちゃ。また悪夢を見れば会える日もきっとあるよ。まあ……あんまり良くないことだけど」

「そうか、また夢を……。すっかり忘れてたよ」


 まったく、大事なことなのにと、呆れ半分、愛おしさ半分といった具合にヒョウは笑った。口角にできるエクボがひどく愛らしかった。


「今日は久しぶりに人と会えて楽しかったよ。じゃあね、お兄さん」

「ああ、じゃあ」


 世界が完全に白に染まる。次に目を開けると、そこは海岸などではなく、薄暗く陰鬱な空気に満ちた、けれど見慣れた四畳半だった。程なくして、先ほどまでの出来事が夢だったことを男は悟った。


 しかし、目を覚ました彼は気力に満ち満ちていた。顔を洗い、朝食を取る。ただそれだけのことだったが、もう長いことできていなかったことだった。

 男の中で何かが変わり始めていた。


 やるべきことを済ませた男はカウンセラーに会うため、クリニックへと足を向けた。営業開始までは二時間ほどあったが、ヒョウとのこれからを想えばそれも一瞬だった。


「あぁ、奥寺さん。その後はどうでしたか」


 数日ぶりに会うカウンセラーは以前よりやつれているように見えた。


「何かあったんですか?」

「ええ、実は――」


 話を聞くと、なんでも一部の〈ソムニ〉が不具合で悪夢――中でも自身のトラウマを刺激するような――を見せるようになっていて、その対応に追われていたそうだ。悪夢で飛び起きた患者は軽いものでも症状の悪化、最悪の場合だと自殺にまで見舞われたらしい。


「私のところではそれほど酷い被害に見舞われていないのが幸いでした。奥寺さんは大丈夫でしたか」

「はい。お陰でとても良い夢を見れました。なので、本格的に〈ソムニ〉の服用を始めようかなと」

「それは良かった。では本日は前回お渡ししたような学校生活の夢でよろしいですか?」

?」

「おや、確かそうだったと記憶していたのですが、違いましたか。すみません、疲れが出てしまっていますね」


 カウンセラーはバツが悪そうに笑った。


「では改めまして、本日はどのような夢を〈調律〉しましょうか」

「えっと――」


 男は手をぐっと握りしめ、逸る気持ちを抑えて言った。


「獏の少女が出てくる夢をお願いします」

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夢逢人 霧朽 @mukuti_

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