第5話
教室の扉を開けたとき、そこに残っていたのは黒井だけだった。
窓際の席で、静かに鞄に教科書をしまっていた。陽はだいぶ傾いていて、朱く染まった西日が、彼女の黒髪にそっと火を灯している。どこか閉ざされた横顔は、まるで水面に沈んだ花のようで、触れれば儚くほどけてしまいそうだった。
けれど、なぜか目を離せなかった。
その横顔を見たとき、俺の足は自然と前に進んでいた。
「黒井」
彼女の手が止まり、ゆっくりと俺の方を向く。長いまつ毛の影が頬に落ちて、その瞳は、相変わらず深く、冷たい湖面のようだった。何も映さないふうをして、すべてを拒むような――けれど、ほんのわずかに揺れたような気もした。
「……まだ帰ってなかったんだな」
「はい。今、帰るところです」
そっけない答えだった。だが、それでもいい。俺は思い切って言葉を続ける。
「……一緒に、帰らないか」
沈黙が落ちる。夕暮れの教室には、俺たち以外の音はなかった。静寂は、まるで二人だけを閉じ込めるための幕のように降りてくる。
「……迷惑です」
その声には、はっきりと拒絶の色が滲んでいた。心の壁の高さを、あらためて思い知る。けれど、昼休みのときとは違って、なぜか心は折れなかった。
きっとあの風に吹かれたからだ。
「……それでも帰りたいんだ、一緒に」
それは我儘だったかもしれない。押しつけだと怒られても仕方ない。けれど、どうしても言いたかった。心の底から出てきた言葉だった。
黒井の瞳がわずかに揺れる。
「……意味が、分かりません。なぜ、あなたは私に構うんですか?」
「ん?」
「あなたの目的は、なんですか?」
その問いは、まるで探るように。それでいて、自分自身でも答えを怖れているような響きがあった。
「目的なんてないよ」
「……ない?」
「友達と一緒に帰ろうと思うのに、目的なんているか?」
黒井は、まるで知らない言葉を聞いた子どものように、ぽかんとした顔をした。ほんの一瞬だけ、彼女の表情が緩んだようにも見えた。あまりにも無防備で、それが少し可笑しくもあった。
「……友達」
ぽつりと、呟くように彼女が言う。
「いつから、私とあなたは友達になったんですか」
「昼飯、誘った時だよ」
「……」
「一緒に食べただろ?」
「……あれは、“一緒”の内には含まれません。それに、あの時誘いに乗ったのは、教室の誰かにやり取りしているのを見られるのが嫌だったからです」
彼女は言葉を切ることなく、冷静に告げた。
それはきっと、彼女なりの防衛だったのだろう。誰にも心を許さずにすむように、あらかじめ理由を用意している。
そうかもしれない。彼女にとって、あの時の“選択”は、注目を浴びないための最小限の妥協だったのかもしれない。
「じゃあ、今この瞬間から友達だ」
「……勝手が過ぎます」
「勝手でいいよ。友達になるのに、許可なんかいらないだろ?」
一歩、踏み出すように言った。
また、拒まれるかもしれない。彼女を傷つけるかもしれない。
それでも俺の気持ちはもう決まっていた。
蒼井先生が言ったように、傷つけたらその分埋めればいい。
ただそばにいたい。孤独じゃないって、伝えたい。
彼女はしばらく黙っていた。睫毛がほんの少しだけ震えていた。
やがて、静かに立ち上がる。
鞄を肩にかけ、教室の出口へ向かって歩き出す。その途中で、俺の方をちらりと見た。
「……勝手にしてください」
それが、彼女なりの――精一杯の、肯定だった。
校舎を出ると、夕陽が出迎えていた。
西の空は茜色に染まり、春の終わりを告げる風が頬を撫でていく。校庭の木々がざわりと揺れて、どこかで鳥が一声だけ鳴いた。
無言のまま、俺たちは歩き出した。
歩幅は合わず、距離は二人分くらい離れている。黒井が前で、俺は後ろ。
けれど、不思議とその背中は遠くなかった。
「……今日は、風が強いな」
思わず口から出た。気まずくなると、俺は他愛のない話をしてしまうらしい。
黒井から返事はない。
けれども、立ち止まることなく歩みは続いている。それだけで、少しだけ心があたたかくなった。
「黄砂とか、飛んでそうだよな。さっきから目がかゆくてさ……花粉かもしれないけど」
誰に聞かせるでもないような声で、風に紛れて言葉を紡ぐ。
「黒井は、花粉症とか平気なのか?」
「……あまり、そういうのには、ならないです」
か細く返された声は、風にかき消されてしまいそうだった。
「そっか。羨ましいな」
俺は空を見上げる。昨日と同じ紅い空。
「あの時は悪かったな。黒井の気持ちも考えずなにをしようとしてたんだって問い詰めて」
黒井からの返事はない。ただ、風に乗って、
「私の方こそ」
そんな言葉が耳を吹き抜けた。
その後も俺は会話を続けた。
言葉はぎこちなく、脈絡も途切れがちだった。会話と呼ぶには不器用すぎる。
それでも、俺は話し続けた。たとえ何も返ってこなくても、伝える努力はできる。心の距離を縮めるために。
いまは、それでいいと思えた。
やがて、道が二手に分かれる場所に差しかかる。
小さな公園と、低いフェンス。その向こうに住宅街が広がっている。
黒井は立ち止まり、そっと言う。
「……私の家は、こっちです」
そう告げて、振り返ることなく歩き出す。
俺はその背中を見送った。
夕陽の中に溶け込むような細い輪郭。風に揺れる髪だけが、彼女がまだここにいたことを示している。
「……また、明日」
背を向けたままの黒井に、静かに呼びかけた。
返事はなかった。足取りは変わらず、背中は次第に遠ざかっていく。
それでも、不思議と寂しくなかった。
明日はなにを話そうか。
まだ距離は遠い。心に触れるには、きっと時間がかかる。
でも、それでいい。今日この帰り道が、そのはじまりだから。
西の空がゆっくりと暮れていく。
風が優しく、肩を撫でた。
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