枇杷の実
途田薫
枇杷の実
その女の元へは、月に一度ほど通った。細い階段を上った先にあるそのアパートの入口は、巨大な枇杷の木の陰に半ば埋もれるような格好で、俺はこれをくぐるのが嫌いだった。枇杷の葉は厚くて暗い。風の強い日などはその大きな葉が一斉にざわめき、事の最中にもその音が耳障りに思えた。
女は、そんな音しますか?と首をかしげた。するよ、と俺は答える。しかし本当はわからなかった。部屋はアパートのつきあたりだから、入口からは距離がある。いくら大きな木だからといって、その葉擦れの音がここまで聞こえてくるとは考えづらかった。
日が落ちて畳の目が曖昧になっている中を、俺は手探りで自分のシャツをつかむ。薄闇の中で、白いシャツと女のむき出しの肩だけがぼーっと光っているように見える。俺はシャツのボタンを留めながら女に言った。
ここは立地は悪くないが、陰気でやりきれないね。おまえのおやじさんは趣味が悪いね。
女は何も答えなかった。汚れた窓の外で、ごーっと風の唸り声がする。飛びかけた屋根だか剝がれかけたトタンだかわからないが、ばたばたと何かがはためく音も聞こえた。一雨くるかもしれないな、と俺は思った。鞄を持ってアパートを出るまでも、女は何も言わなかった。似た親子だと俺は思っている。
商売柄、人の無様な顔は飽きるほど見ているし、土下座されることも珍しくはない。ただ、その中でも自分の娘を差し出す奴は下の部類である。俺は客が昔の知り合いだとわかってもへぇくらいのことしか思わないが、あいつは違った。取り立て屋が元クラスメイトだと知ると、地獄で仏に逢ったかのようにその顔に安堵が広がった。
奴はたどたどしく金は用意できそうにないこと、しかし店はすべて処分するつもりでいること、また妻の実家にもう一度話をしてみることなどを語り、畳に頭を擦り付けた。上から下まで着古した量販店の衣服で揃えた身なりに、油気のないぱさぱさの髪は薄くなりかけていたが、畳についた両手だけはつやつやと光っていた。奴は婿養子として入った和菓子屋を潰したのち、ひと月でその借金を三倍にしていた。パチンコと競馬らしい。
そして、アパートの一室を所有していること、今年二十三になる娘がいることを口にしたのである。アパートの方は抵当に入れるが、娘の方は何の足しにもならない。俺がそう言うと、奴は明らかにがっかりしていた。若いが未成年でもないし、おとなしい優しい子だと控えめに主張するので、思わず笑ってしまう。すると、奴もはじめてはにかむように少し笑った。その笑顔に、学ランのボタンを一番上まできちんと留めたかつての奴の姿が重なった。
それから奴が首を吊ったと聞くまで、そう長い時間はかからなかった。なんとなく予感があったので驚かなかったが、逢った日から数えてみると十二日だった。ずいぶん早い。もちろん金は返っていないので、俺は会社にどういう管理をしているのだと怒鳴り散らされた。事務処理のために奴の家を訪れると、奴の義父が対応した。足を悪くしているらしく、寒いと痛むのだと言ってずっと足をさすっていた。
義父は奴のことを憎んでも憎み切れないようだった。和菓子屋の厨房脇の小部屋で向き合った俺に、あんなにひどい人間はそうそういないと文句を言う。部屋の隅に積まれた菓子用の木箱は、埃をかぶっていた。奴の妻や義母はとうとう最後まで姿を見せなかったのでわからないが、この家で奴に同情するものは誰もいないのではないかと思った。
預かった書類の中に紛れるように、奴から俺への書置きがあった。俺がこの書類を受け取ることを奴は知らないはずだったので、これは少し妙なことである。遺族の様子からも、彼らが俺にこの書置きをわざわざ届けてくれるとは思わない。俺は封を切って中身を読んだ。そこにはただ数行、某月某日私のアパートの一室に来てください、とあった。私の娘がおもてなしします、と。そろそろ年も暮れようとする十二月のことだった。
春が来たと思ったのは束の間のことで、あっという間に日差しが強くなり蒸し暑くなった。アパートへの道すがらも、五月とは思えないほどの陽気である。階段を上りきると、すっかり体が汗ばんでいた。服が体に貼りつくようで、気持ちが悪い。首回りを緩めながら、女の待つアパートへ向かう。こんなに暑くなるのなら、来るのではなかったと早くも後悔しはじめていた。
そんなことを考えていたからだろうか、アパートの手前まで来て、俺は急にぎょっとして足を止めた。枇杷の木が暗い陰を落としているのはいつものことだったが、そこに鈴なりの実がついていたからである。ただでさえ厚く重たい枇杷の葉に、薄い橙色の実がこれでもかとついてたわんでいる。この蒸し暑さの中、水気をたたえた果実の生々しさがいやに鮮明だった。俺はためらったが、ここをくぐらねばアパートに入れない。そっと腰をかがめるようにして近づくと、入口のまわりには落ちた実がごろごろ転がっており、そのいくつかが潰れている。俺は道路で轢かれた猫の死体をまたぐように、なるべくその実を見ないようにしながら足早にそこを通り過ぎた。
女はいつも通り、布団を敷いて待っていた。暑いねと言うと、そうですねと答える。それ以外に何も言わない。この娘は最初からそうだった。父親からどのように言われたのかもわからなければ、なぜこのような関係を続けているのかもわからない。金銭を要求されたこともなかった。
ただ、この日はいつもと違うことが起きた。蒸し暑さのせいであろうか、俺は事を終えたあと、体がだるくて仕方がなかった。それでしばらく布団の上に寝そべっていた。この部屋は電気も水道も通っていない。なので、俺たちはいつも日暮れ時に待ち合わせ、事を済ませるとすぐに帰るのである。現在、この部屋の持ち主は宙に浮いていた。一度は抵当に入ったのだが、独り身になっている奴の母が買い取って移り住みたいと言ってきたのである。しかし、引っ越しを進めているという話はまるで聞かなかった。
隣の女がすうっと離れる気配がして、俺は彼女がもう帰るのだと思った。しかし、女は戻ってきた。俺の肩を指でつつくので、薄目を開ける。女の顔が俺をのぞき込んでいた。彼女の丸い穴のような口が動いた。
一緒に食べてみませんか?
何のことかわからなかったが、女がお椀の形にした両手を俺の顔に近づけてきて、俺は思わず顔を背けた。彼女のぼんやりした手の中にあるそれは、一見すると縦長の卵のようにも見えた。しかし、次の瞬間、それがアパートの入口に生っている枇杷の実だとわかったのである。
俺はいい。それ、表の?
はい。
よく食べようと思うな、というのが正直な感想だった。汚くない?と尋ねると、でも皮を剥くので……と言う。俺は布団の上に起き上がった。食べてみたいの?と問う。女は首をかしげて、一人だとちょっと怖くて……と言った。そう言う女の口元も、闇に沈んで大分見えづらくなっている。
食べるなら早く食べな。
女はしばらく迷っている様子だった。彼女の手のひらには、四つの実が載っていた。一度それを全て畳の上に置くと、彼女は一つの実を手に取る。白い手が果実に爪を立てた。女は縦に切れ目を入れると、そこから枇杷を剥いていった。果汁が腕を伝うので、自分の腕を吸う。彼女は下着しか身に着けていなかった。
女は苦労して皮を剥ぐと、ちらちらとうかがうように俺を見た。食べなよ。早く。俺は彼女を急かす。女はおそるおそる口を開け、その実を齧った。
うまいか?
女は口の中のものを嚥下して、また首をかしげた。小さな声で、あんまり……と言う。味がしないそうだ。もう一口齧る。食感はあるのに水っぽくて、すごく薄めたジュースのような味だという。
俺は、ああ、なるほどねと思った。きちんと商品用に栽培されていない野生の果物とは、そのようなものなのかもしれない。実はつけるが味はしない、食用ではない代物なのだろう。俺は自分の服を手繰り寄せると、それを羽織った。やっぱり抱くならプロの方がいいなと思った。
結局、女は枇杷を二口しか食べなかった。残りは表の木の根元に捨てた。無理して食べることはないと俺が言ったのだ。女はおとなしくそれに従う。アパートの前で、なんとはなしに彼女と空を見上げた。欠けた月が浮かんでいた。
おまえとはもう会わないよ。
意外にも、女はえっと大きな声を上げた。本当に驚いているようだ。やっぱり父親と似ているな、と思うと、俺は笑ってしまう。学生時代、奴と話したことはほとんどなかったのだが。
それじゃ、と言って俺は女に背を向けた。さよなら、という声はざわざわという重たい音にかき消され、よく聞き取ることができなかった。
枇杷の実 途田薫 @tateshima411
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます