決戦
四
昼を過ぎた頃、夜風は布団から身を起こした。外では依然雨が降り続けており、鈍色の雲が厚く空を覆って、大粒の雨が集落の屋根と壁を洗っている。
夜風は身支度を済ませると、宿を出て、集落に来たときに見た小さい商店に向かった。
「いらっしゃい」
背の曲がった老婆が、しわくちゃの顔を向ける。
商店は食料品と生活用品を扱う店のようだが、近年の釣り人客の増加に伴って釣り具を多く取り扱っていた。
「レインコートとナイフ売ってる?」
「あるけど、今日はやめたほうがええで。磯も荒れとるみたいなしなあ」
夜風は老婆の言葉を無視して、衣料品の辺りに向かう。ポンチョ型のレインコートを一着、折り畳みのナイフを三本買った。
「ありがとうねぇ」
店を出ると、一度宿に戻り、昼食をとった。
夜風はレインコートを羽織り、また宿を出た。雨は少し弱まったものの、まだ降り続いている。向かった先は、例の磯だった。
磯は大荒れだった。
波しぶきが高く上がり、岩礁にぶつかり白く散っている。空が暗いためか海の色は黒々としている。足を滑らせたら、波に攫われてしまうことが容易に想像できる。
どうやらこの磯は、潮が引くと平らな岩場が出るらしい。雨は降っているが、潮が引き気味なのもあり、昨日は見えなかった小ぶりな岩が点々とあるのが見える。岩には海藻や貝類がついていて、岩場と岩場の間には大小の潮だまり。ただ、岩場は平らとはいえ岩は岩で、ごつごつした表面をもじゃもじゃした海藻が覆っている。
予報では、夕方から夜にかけて雨が強まるという。
——あはは、ひひひ
——ごがあ、ごがあ
——ばしゃ、ばしゃ、ばしゃ
磯には、ヒトならざる小さなモノたちが動き回っていた。
小さな童姿のモノ、海鳥の首が三つ連なったなにか、ひとりでに舵を漕いで波をかき分ける小舟。どれも帯びる妖気は弱く、人に害はなさそうだ。
夜風は岩場をちょこまか歩いていた小童の襟首をむんずと掴み持ち上げた。
「おわあ、なんするんやあ」
「私は退治屋だ。殺されたくなかったら問いに答えろ」
「なんや?」
小童は掴まれている首を捻じりながら、夜風を見上げる。浮いた足は最初ばたばた動かしていたものの、次第にただぶらぶらと下げるだけになった。
「振袖姿の女の妖怪がいるだろ。あいつの弱点とか知らないか」
「振袖の言うたらお波のことかい。なんで言わなんだらいかんのや」
夜風がぎろりと睨みつけると、小童はすくみあがって泣きそうな顔になる。
「分かった、言うから、言うから。お波はなあ、元がヒトやからな、心臓があるんや。血ぃも出るしやな、いくら妖怪になったいうても、ほんまもんとちゃうからな。たいそうな術がなくても弓や刀で殺せるで」
どうやら磯のよめじょは浜の妖怪たちからお波と呼ばれているらしい。あの姿は、人間であった頃のもののようだ。
「あいつ、体は強いか?」
「いいや、弱いほうやと思うで。いやまあ、ワシらみたいなんに比べたら強いやろうし、この浜やと強いほうやと思うけど、でも半分は人間と変わらんしな。海ん中やと鱗も出るみたいやが、それでも元がヒトやから、血ぃ出たら痛がるし、髪も引っ張られたら痛がんで」
小童は調子が出てきたのか、それとも夜風が怖いのか、えらく饒舌であった。
「そうか。もう一つ訊きたいことがある」
「なんや」
「そのお波以外に、人型で、釣り人客を襲う妖怪はいるか」
「あんなんふたりもおってたまるかい。あれだけや。お波も昔は大人しゅぅしょったんやで。それが、いつからかあんなふうに——」
夜風は小童の襟首から手を離した。
「おわわ、おい! 下ろすならゆっくり下ろしぃや!」
夜風は抗議の声になにも言わず、磯をあとにした。
夜風は宿に戻って、夜に備えて寝ることにした。
夜風が再び起きたのは夕方で、昼間は弱まっていた雨が再び強くなってきているのが、掃射のような雨粒の音で感じられた。
夜風は目覚ましに顔を洗い、先ほど買った三本のナイフを用意した。そしてそれを、左腰に一本、左の手首に一本、右の足首に一本括りつけた。腰のものはベルトに差し込み、左手と右足は鞘を革の組紐で固定した。左手首と右足首のものは上着の袖とズボンの裾で隠した。
「これで良し」
準備を終えると、夜風はレインコートで腰のナイフを隠しながら、宿を出た。
外は相変わらず大雨である。
夜風はレインコートを羽織り、フードを頭に被った。ポンチョ型のため、その姿は巨大なてるてる坊主に見える。シャカシャカのポリエステル製で、雨粒を受け流し、その流れは裾から滴り落ちる。
夜風はまた、磯に向かった。
磯も相変わらず、大荒れだった。だが昼とは違っていたこともあった。
——妖怪の姿がない?
普通、昼と夜では夜のほうが妖怪物の怪の類いは多い。しかし、その気配が全くなかった。
——いや、ひとりだけいるな。
夜風は気配を感じたほうを見る。そこには、大雨にも関わらず傘を差さず、ただ雨に打たれてずぶ濡れになっている女がひとり。視界が悪い中で、赤い口許と白い肌がくっきりと浮き上がって見える。
磯のよめじょだ。
「また来たんな」
ふふふ、と女は微笑を浮かべる。真っ赤な口紅が、雨に打たれて流れていく。口許から、細く鋭い歯がちらりと見える。
「ああ、仕事なんでね」
にやり、と夜風も笑みを浮かべて、磯のよめじょに向き直る。
ごごう、ごごごう、と分厚い雲の中から雷鳴が低く轟く。
磯辺は大荒れ、波しぶきが上がり、岩礁に白波が散る。
磯に女ふたり、向き合って互いから目を逸らさない。
——ダンッ
先に動いたのは夜風だった。
岩と岩を跳んで渡りながら、磯のよめじょに飛びかかる。
磯のよめじょは髪を伸ばし、夜風の体を絡め取ろうとする。
——が、しかし。
両手をレインコートの内に潜め、跳ぶたびに足をコートの裾の中にしまう夜風には、絡みつくところがない。雨に濡れたポリエステル繊維のコートは、絡めとろうとしてもするりと滑り、捕らえることができない。
成功した、とにやりと笑う夜風。
岩場に着地すると、また跳び、身を翻し、くるくると回って髪の毛をかわす。
みるみる磯のよめじょの顔に苛立ちが表れてくる。
夜風は髪の毛をかわし、また岩礁に足をつけたそのとき。
ざぱああん
一際大きな波が上がった。その波が岩に打ちつけるのと、夜風が岩を踏み、そこから飛び上がろうとしたのが同時だった。
「お、おおっ」
夜風はバランスを崩し、海の中に落ちた。
「ち、くそっ」
幸いにもそこは浅い岩場だった。海に浸かったのは膝下までだ。陸に上がろうと、岩に左手をかける。指を切った。血が滲み、上がった波しぶきがかかって海水が染みる。
高笑いと共に、ざぱん、となにかが海に飛び込む音が聞こえた。
——落ち着け、冷静に、まずは岩に上がらないと。
指先の痛みを堪えながら夜風は地上の岩に手を伸ばす。雨で滑る。ジーパンとシャツが水を吸い、体が重い。レインコートがまとわりつき、上手く体を動かせない。
やっと岩をしっかりと掴め、体を上げようとした途端、足首を強く掴まれた。そして海に引きずり込まれる。
ざぶん!
引きずり込まれた瞬間、肩を強く打った。昼とは違い、今は満潮だった。昼間見た岩場と小さな岩の群れが、今は海面の下にあった。深さは深いところで人の肩ほどだったが、夜風は体勢を崩して口も鼻も海の中だった。
また体を打った。打ったその岩に手をかけるが、夜の海では目の前に伸ばした手も分からない。足が引っ張られる。やつはどこだ。目では見えない。耳も聞こえない。
「ごぼ、うぐ、ごぼっ」
手が岩から離れ、足が千切れんばかりに引き寄せられる。右足だ。右足を両手で掴まれている。ずきりと痛みを覚えた。吸血ではない。爪が食い込む痛みだ。
——落ち着け、落ち着け、落ち着け!
焦り慌てる自分に言い聞かせる。息も長くは持たない。
足が引っ張られ、一気に引き寄せられる。水流を顔に感じる。
夜風は完全に岸から離れ、沖合に連れていかれつつあった。もう掴める岩も岩場もない。
——ええい、こうなったら!
夜風は引っ張られながらレインコートを脱ぎ捨てた。やつの両手は自分の足を掴んでいて塞がっている。やつの腕の長さは標準的な女性と同じくらい。足首から腕一本分先にやつの肩から上はある。
磯のよめじょが伸ばした腕を引き、思い切り夜風の足を引き寄せた。腕の先にあった夜風の足先が磯のよめじょの腰あたりに、膝が頭のあたりまで下がる。
——よし、手が届く!
夜風は左手首からナイフを抜いた。それと同時に、自由な左足をばたつかせる。左膝が磯のよめじょの顎に当たった。これで、大体の位置は分かった。そして、水流に飛ばされないように両手で、しっかりとナイフを逆手に握る。その腕をまっすぐ伸ばし、水流に抗いながら半身を起こす。そして、腹に力を込めて、上体起こしの体勢を維持し、腕をピーンと伸ばしたまま振り下ろす。
「うぐッ」
夜風の手にぶすり、と肉に突き刺さる感触が伝わる。首筋から背中にかけてのどこかに当たったようだ。磯のよめじょの首筋から、血が流れてそれが海中を漂う。一瞬、夜風の右足の食い込みが緩んだ。それを感じ取り、夜風は一旦ナイフから手を離して右足に手を伸ばす。脛のナイフを抜く。そして、まだ足首を掴んでいる磯のよめじょの手首に刃を突き立てる。
海中に、どろりとした血が漏れ出した。
そして夜風の右足から完全に手が離れる。
「ぷはっ」
その隙に夜風は息継ぎをした。そして、もう一度潜水する。
磯のよめじょが痛みにそう強くないことは、初日の戦闘で分かっていたし、磯辺の小童も言っていた。人間の女に蹴られてうずくまるほどの耐久力だ。体に二本もナイフを刺されたら、動けるはずもない。
夜風のその推測は当たっていた。さっきのところまで潜水すると、ナイフが刺さったままの磯のよめじょがいたのだ。だが、水中では目が効かない。夜目が効く夜風でも、水中の暗闇は段違いに見えにくかった。
「んんんッ!」
夜風が磯のよめじょを探していると、左腕に強烈な痛みが走った。一列に並んだ針に上下から刺されるような食い込む痛さ。左腕のナイフは内側に括りつけてたため、特に前腕の外側に鋭い痛みが走った。
夜風は痛みを堪え、左腰からナイフを抜いた。そして、それを前腕と垂直に十センチほどのところに向かって突き立てる。
硬い感触のあと、それが割れる手応えを感じた。
そして腕に食い込む力が急に喪失し、夜風は食い込むそれをもぎ取って、息を吸うために海面に向かう。
「ぷはっ、ふう、ふう」
夜風が海面に顔を出した。海面には、首の付け根、眉間、手にナイフが刺さった半人半蛇の妖怪の死体が浮いていた。
夜風はその死体を磯に引き上げ、ずたずたに切り裂き、それを海に放り投げた。昼間にみた小さい物の気たちがわんさか湧いてきて、その肉塊肉片にかぶりつき、貪り食っている。ナイフは全て海水で洗って、折り畳み、ズボンに突っ込んだ。
「痛、痛たたた」
急に、切ったり擦りむいたり噛まれたりした傷が痛みだした。緊張が解けて、血も出だしている。岩にぶつけたところもじんじん痛む。
夜風は浜沿いの街道に上がって、近くの診療所の戸を叩いた。
「どうしましたか……おわ、血が出てるじゃないですか!」
血まみれの夜風を見て診療所の医師は飛び上がり、大慌てで傷の手当の準備をした。通りすがりに見かけたら失神してしまうそうな出で立ちである。両手が血にまみれて、人でも殺したのかと思いたくなる姿だ。
夜風は平然としていた。仕事が一つ終わったのだ。
もう海に、釣り人を襲う女は出ない。
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