五



「……それで、腕は治ったのかい」

「ああ、この通り」

 夜風はコートとシャツをまくって、腕を見せる。そこには、白い肌に針の痕が残っている。


「そうかい、まァ、あんたにすりゃかすり傷みてぇなモンだろうさ」


 蔵司はふう、と煙を吐く。筆は箪笥にしまわれ、紙はひとりでに糸綴じの帳面に綴じられている。こうして、夜風の経験は記録され、八百識楼の知識の一つとなるのだ。


「そうそう、ついでに訊きたいことがあったんだ」

「なんだ?」

「磯で小さい妖怪が言ってたんだけど、磯のよめじょってお波って名前なのか?」

「さあ? 知らねえな。そういうのは人間の昔話とか言い伝えの本も読んでみねえと分かんねえ。調べっか?」

「いや、いいや。気になっただけだし」

「そうかい」

「それじゃあ」


 夜風は手を上げて、入ってきた扉から出ていった。


「お波、ねえ……」

 蔵司はひとり呟くと、中断していた書物の整理を再開した。

「そういえば……」

 未整理の書物のなかに、普通の人間が書いた伝説集や昔話集があった。煙管の灰を取り、くるんと煙管を振る。すると、人間の民俗学者が残した『浦々鬼談録』という書物が出てきた。そこには「お波の火」という題で、こう書かれていた。


 ——七ヶ浦という村は漁夫の村なり。村の娘お波、庄屋の倅久右衛門と恋仲でありしが、久右衛門縁談によりて網元の娘まつと婚姻せり。お波嘆き悲しみて、久右衛門と心中の契り交わして、村の岬より飛び降りて死す。久右衛門その岬の高きに慄きて逃げたり。お波が魂、磯浜を彷徨える火となりて、久右衛門や、久右衛門や、とさめざめ泣きたり。村人これを恐れ、お波が火に我が子を取り違われぬよう、倅に久右衛門、娘にまつの名をつけぬという。


 もう一度、蔵司は煙管を振った。次に飛んできたのは、妖怪が視える旅の研究者が書いた、『魔霊漂旅記』という紀行文だった。大正に入る頃に書かれたものである。


 ——七ヶ浦といふ浜辺の部落にて。磯の周りに久右衛門、久右衛門と叫びたる女の霊を見たり。その霊に問ひて答へて曰く、心中の誓ひを交わせしが、果たさずして生きたる男の名を呼んで居るといふ。姿、引き振袖を着て口に紅をさす。人に害なしと見えて、其の儘残し帰りたり。


 そして、夜風が来る前に棚へしまった『海の鬼女の研究』を再び出して、煙管を振った。ページがめくられ、次の文章があるところで止まった。


——海に死せる女の霊、その気魂留まりて海の霊気妖気と混じり凝りて海妖と成せり。世俗にヌレオナゴ、イソオンナといへる海の鬼女もまた、これに依りて生まれたるものなり。


「ああ、そういうことか……」


 江戸時代に死んだお波は死後も七ヶ浦の磯辺に留まり、大正頃までは人の姿をしていた。婚礼の振袖姿で。髪を濡らして。そしてその姿は人々に恐れられた。その頃はまだ久右衛門を探していた。しかし、歳月が過ぎ、夜風が退治した頃にはもう——

 蔵司は書物を閉じた。そして、煙管を振り、書物は階上の棚へ収められた。

 夜風には伝えないでおくことにした。悔やむこともないだろうが、耳心地が良いものではないし、知ったとてどうにもならない。彼女はすでに鬼女となったあとで、そして葬られたあとなのだ。


「まァ、知らねえほうが良いこともあるわな」

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磯のよめじょ 白洲尚哉 @funatuki

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