夜磯

「へえ、意外と悪くないね」


 浜崎が用意した民宿は、集落に入ったときに見かけた、古民家をリフォームした家だった。一階に土間を改造した厨房、居間を改造した小ぶりな食堂があり、二階の二部屋が宿泊スペースで、夜風の他には釣り人客が二人泊まっていた。


 居室は六畳の畳敷きで、あるのは寝具が一揃いとちゃぶ台が一つ、アメニティのポットと茶碗だけだった。貧乏学生の下宿のような部屋である。


「ま、野宿よりマシか。別に野宿でも良いけど」


 夜風は野宿にも慣れていた。だが、好意で宿代を出してくれるというので、ありがたく受け取ることにした。

 窓を開けると、夕暮れの茜色に染まる海が見えた。漁港の堤防や、船着き場にぽつりぽつりと竿を持って釣り糸を垂れる影が見える。しかし、磯の近くには誰もいない。

 窓を閉め、夜風は階段を下りて食堂へ入った。


「ちょっと早いけど、夕食を頼めるかな」

 食堂から厨房へ声をかけると、「はいよ」と女将のはきはきした声が返ってきた。

「これから釣りに行くんな?」

 女将が刺身やら焼き貝やらを並べながら訊いた。

「まあ、そんなところだね」

「気ぃつけなや。最近磯で死ぬ人がおるけんな。この前も他所から来た人が磯で亡くなったし」

「最近? それっていつ頃の話?」

「そうやなぁ……先月の終わり頃やったかいの。がっしりした男の人でね。その人も夜に磯に行って、死んで見つかったらしいわ」

「ふうん。そうか、ありがと」

「お客さんも気ぃつけてなあ」

 女将はそう言い残して、奥に戻っていった。



 夜の磯は、岩と波と暗闇以外、なにもなかった。ごつごつした岩礁に、ざざあ、ざざあ、と波が押し寄せ、また押し返される音が単調に反復している。

 夜風は足元をライトで照らしながら、磯のよめじょを探していた。

 肩には細長い黒革の袋を担いでいた。潮風が肌を撫で、コートの裾をはためかす。


「さて、どこにいるかな?」


 ライトの光で、磯全体を照らす。

 夜風以外に、人影はない。

 ざざあ、ざざあ、と波が岩に打ち寄せ、しぶきをあげ、また引いていく。

「いやあ、釣れないなあ。釣れるって聞いたんだけどなあ」

 わざとらしい大きな声で夜風が言う。

 その声は波しぶきに掻き消され、真っ暗闇に吸い込まれていく。

 にわかに雲が出てきて、わずかな星明りも濃い暗闇に塗りこめられてきた。


 ——雨が近いな。


 夜風がそう思ったとき、ざざあ、ざざあ、という波の音の中に、ばしゃん、と跳ねるような音が混ざった。そして、ぴちゃ、ぴちゃ、と水気を含んだ足音がする。

「釣れよんな」

 釣れているか、とこの地方の訛りで問う声がした。

 夜風はそちらをライトで照らしながら、肩にかけた細長い袋に手をかける。

 ライトで照らした先には、振袖姿の女がいた。婚礼に用いられる、引き振袖と呼ばれるものである。長い髪は毛先までぐっしょり濡れて、前髪は額に張りついている。

 口許に微笑を浮かべ、切れ長の目はこちらをじっと見つめる。


 ——こいつか。


 夜風は女の一挙手一投足を注視しながら、空いた間合いを維持する。

 女は徐々に、夜風へにじり寄ってくる。

「かんざしをなあ、大事なかんざしをなくしたんやけど、見とらんかぁ」

 夜風は答えずに、ただ女を見ている。

「あら、そこにあったわ。ちょっと、取ってくれんかぁ」

 足元にかんざしがあった。しかし夜風は一瞥もせず、女から視線を逸らさない。

 びゅぅっと強い風が吹いた。

 女がすんすん、と鼻を鳴らしてその風を嗅いだ。そして、にたり、と妖艶な笑みを浮かべた。

「お前さん、釣り客とちゃうやろぉ」

 女の顔が豹変する。色気の漂う微笑は消え、目はらんらんと光り、口は鋭く小さな歯の列を剥き出しにする。長い舌がだらりと垂れ、鬼女の本性を露わにしていく。


 ——やはり、磯のよめじょか。


 夜風は肩にかけた細長い革の袋を開けた。中には一振りの太刀が入っている。

 磯のよめじょが飛びかかるのと、夜風が刃を抜くのが同時だった。

 ひゅん、と切っ先が磯のよめじょの眼前をかすめる。

 切っ先は磯のよめじょの鼻先数ミリをかすめ、空を切る。振り切った腕と鞘を持った腕で正面が空いた。空いたところに向かって磯のよめじょが夜風に噛みつこうと飛びつくも、夜風はすんでのところでしゃがみこむ。夜風の頭上を越えた磯のよめじょは両手をついて着地し、夜風が立てた左膝を軸にターンして、さっと立ち上がるのが同時だった。両者の位置が入れ替わる。 


 ざざあ、ざざあ、と波は単調に打ち寄せ、岩礁に砕けて消えていく。

 磯は真っ暗で、斬り、避け、飛びかかり、それを払う攻防は誰の目にも映らない。

 体勢を持ち直し、今度は夜風が飛びかかった。袈裟懸けに太刀を振り下ろす。磯のよめじょはひらりと避け、濡れた髪が刃に絡みつく。それを断ち切り持ち直す。磯のよめじょの爪が振り下ろされる。夜風はそれを太刀で受ける。それを押し返してざっと後ろへ退がる。


 夜風が太刀を振るう。磯のよめじょは爪で受ける。磯のよめじょが噛みついてくる。夜風は避けて距離を取る。夜風が磯のよめじょの懐へ飛び込む。磯のよめじょはそれをかわす。

 その攻防が幾度も続いた。

 夜風が何度目かの攻撃を仕掛けようとしたとき、ふとある違和感に気づいた。


 ——磯のよめじょが、大きくなっている?


 暗い中での印象だが、最初に見たときよりも幅が大きく見える。

 

 ——いや、違う。これは……


「……!」

 夜風が違和感に引っかかり数秒止まっているそのとき、夜風の足に絡みつくものがあった。感触からして触手のようなものではない。なにかの糸、いや毛に近いもの。そして直感的に気づいた。女の毛だ。大きくなって見えたのは、磯のよめじょが髪を伸ばしていたからだ。 

 振りほどこうとしたが、遅かった。髪の毛はしっかり夜風の足首を締めつけ、両手首も縛り上げている。手首にさわさわと髪の毛が触れ、ぷすりと小さな針が刺さる感覚がする。

 磯のよめじょが近づいてくる。夜風の右手から太刀が滑り落ち、四肢の自由は完全に奪われた。

「お前さん、よう見たらえらい別嬪やのぅ。女子どもの肉はやわいから好きやけど……」

 夜風の顔をまじまじと見ながら磯のよめじょが言う。

「お前さんの肉はこわそうやのぅ」

 にたにたと笑みを浮かべる。その顔は、ぞっとするほど美しい。舌なめずりをし

て、夜風に顔を近づける。


 夜風の顔と、くっつきそうなほど、近くに顔を寄せる。

 生臭い息が、鼻にかかる。

 にたりと笑みを浮かべ磯のよめじょが口を開いたとき、夜風はにやり、と笑った。

「食えるもんなら食ってみろッ!」

 その瞬間、夜風は思い切り磯のよめじょの頭に、自分の頭をぶつけた。

 一瞬、磯のよめじょが怯んだ。

 その隙を見て、夜風は磯のよめじょの鼻に噛みついた。

「うううッッ」

 夜風の歯が食い込むと同時に、足の縛めが解けていく。


 ——よし、右足が解けた!


 夜風が磯のよめじょの鼻から口を離す。きれいな形の鼻には、歯形がしっかりついている。

 磯のよめじょがくわっと目をひん剥いて夜風を睨む。

 そこに右足で上段回し蹴りを食らわせる。

 ぐしゃ、という鈍い音が聞こえた。

「ううう、うううう」

 磯のよめじょが岩に倒れ込み、夜風の両手と左足が自由になる。

「おのれ、おのれ……おのれ……」

 夜風は磯のよめじょを注視しながら、岩場に転がっている刀を拾う。

 すると、ふいに磯のよめじょの姿が消えた。


 ざっぱああん


 水しぶきの上がるとびきり大きな音がする。

 束の間の静けさのあと、また、ざざあ、ざざあ、と単調な波の音に戻る。

 磯は再び、岩と波と暗闇、そして夜風だけになった。



 夜風が宿に戻ったのは、間もなく真夜中になろうとする頃だった。

「ああ、お帰りなさい。釣れましたか?」

 宿の玄関に入ると、女将がこれから鍵をかけるところだった。

「いいや、全く」

「そうですか。お怪我がないようでなによりです」

 夜風は自分の部屋に戻り、刀袋を壁に立てかけて、そのまま寝転がった。

 体が重い。手首を見てみると、少し血が出ている。小さな穴がぽつぽつと開いて、そこから血が滲んでいた。


 ——爪と牙はなんとかなる。


 今夜負った傷を見ながら、夜風は思った。夜風は噛みつきこそすれ、噛まれはしなかったし、相手の爪による傷もない。爪と牙は、体のこなし方で避けようがある。


 ——問題はあの髪だな。


 長く伸び、自在に動き回る髪。手足に巻きつかれると動きが封じられるし、肌から吸血もする。血を吸われ、手や足が壊死したらその時点で死が確定する。

「どうしたもんかな……」

 天井を見上げながら、一人呟く。

 ばらばらと、天井の奥が騒がしくなり始めた。雨が降り出したらしい。

 手首の手当をしようと、夜風が起き上がったとき、廊下のほうから声が聞こえた。

「降ってきたな。朝までにやめばいいんだけど?」

「雨ん中で釣りはできんもんなあ。カッパ着てやるわけにもいかんし」

「そうよなぁ。ま、明日の天気次第だな」

「ダメなら部屋でのんびりしようぜ」

「おう」

 他に泊っている釣り人客らしい。雨は徐々に強くなってきて、風も出てきたのか雨粒が窓に叩きつけられている。

「……そうか」

 ぽつり、と夜風が言葉を漏らした。

「明日、行ってみるか」

 それきり夜風はなにも言うことはなく、傷を手当し終えると、布団を敷いてすぐに眠った。


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