湖畔の名探偵

@takahiroshiga

ノートとパフェと、彼と彼女


午後の授業が終わるチャイムが、どこか遠くの空に吸い込まれていくように校舎に響いた。鞄を肩にかけ、まだ少しだけクラスメイトたちのざわめきが残る廊下を抜けて昇降口へ向かう。外に出ると、午後の柔らかい日差しがアスファルトに春らしい影を落としていた。グラウンドからは、土埃の匂いと共に、野球部の威勢のいい掛け声が風に乗って届く。ここ、琵琶湖のほとりに建つ歴史ある膳所高校の放課後は、いつもこんなふうに活気に満ちている。正門へと続く緩やかな坂道には、家路を急ぐ生徒たちの姿があった。

校門近く、葉桜になりかけた大きな楠の木のたもとに、小春はもう来ていた。俺――東方仗助の姿を認めると、小さな顔がわずかに綻ぶ。

「ごめん、待たせた?」

「ううん、私も今来たところ」

彼女は小さく首を振る。肩までの黒髪のおかっぱ頭と相まって、その仕草が、なんとなくハムスターのような小動物を思わせた。白いブラウスの襟が、春風に小さく揺れている。

「行こっか」

「うん」

二人で並んで、駅へと続く坂道を下り始める。今日の目的地は、最近カフェ雑誌で見つけた駅前の店。春季限定の苺パフェがお目当てだ。

「あのね、仗助くん」隣で小春の普段は小さな声が弾んだ。「今日からのね、春限定の苺パフェ!写真で見たんだけど、白いふわふわのクリームの上に、真っ赤な苺がキラキラ光る宝石みたいに、いーっぱい乗ってるの!もう、絶対美味しいよ!」

そこまで一気に言ってから、小春は少しだけ残念そうな顔で付け加えた。

「でもね、すごく人気なの」

「つまり、「おひとり様一つまで」なんだね」俺が相槌を打つと、彼女はこくりと頷く。

「うん…。それにね、去年は四時半にはもう最後の一つだったんだ。…今、三時十五分でしょ?お店まで歩いて十五分だから…急がないと、なくなっちゃうかも!」

「まあ、売り切れてたら仕方ないけどな」

「えー、やだ! 絶対食べたいもん!」

期待と計算が入り混じったような目で話す彼女につられて、自然と歩くペースも速くなる。限定、という言葉以上に、隣の彼女の(隠しきれていない)食欲が、俺の足を急かせていた。

その、まさに胸がざわめきかけた瞬間だった。

ポケットの中で、スマホが控えめな振動を伝えてきた。画面に表示された名前に、俺は内心で小さく舌打ちをする。健吾。クラスメイトで、文学部所属。まあ友人と言えなくもないが、時々面倒事を持ち込んでくる男だ。タイミングが良いのか悪いのか。メッセージを開くと、予想通り、だが少し予想とは違う文面がそこにあった。

『困ったことになった。今、図書館にいるんだけど、少し時間あるか?』

俺は無言でスマホの画面を隣の小春に見せた。彼女はメッセージを読み、ぱちくりと目を瞬かせた後、ほんの少しだけ眉を寄せる。その表情には、期待していたパフェへの未練が色濃く見て取れた。「健吾くん…どうしたんだろ」

「…どうする?」俺が尋ねると、小春は数秒考えてから、困ったように笑って言った。

「うーん……でも、健吾くんがわざわざ連絡してくるってことは、本当に困ってるのかも…。ここで断るのも、なんだか…ねぇ?」

「だよな」俺も同意する。「下手に断って、後で角が立つのも面倒だし…」我々「小市民」は波風を立てずに生きるのが信条だ。たとえ内心で舌打ちしていても。

「うん。もしかしたら、すぐ終わるかもしれないし!…パフェ、まだあるといいな」

「そう願いたいな。よし、じゃあ、ごめん、ちょっと図書館に寄ってもいいかな? すぐ終わらせるから」

俺が伺うように言うと、小春は努めて明るい声で返事をした。「うん、分かった!」

俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなく、駅とは反対方向――古い図書館のある校舎の方へと、歩き出した。

「じゃあ、行ってくる」

俺が言うと、校門近くの木陰にあるベンチに腰掛けた小春が、こちらに向かって小さく手を振った。「気をつけてね」という声が聞こえた気がした。その健気な姿に少しだけ罪悪感を覚えつつ、俺は一人、踵を返す。駅へ向かうはずだった軽い足取りは、今は図書館のある旧校舎へと向かっている。我ながら、気分が重い。

(パフェ、四時半までに戻れるか…? いや、そもそも健吾の用事がそれまでに終わるのか)

頭の中ではまだ、白いクリームと赤い苺の美しいパフェが未練がましく主張している。健吾の『困ったこと』というのが、本当に『少し』で終わることを祈るしかない。まったく、なぜ俺がこんな。…いや、これも『小市民』として平穏を保つための処世術だ。波風立てずに、穏便に。そう自分に言い聞かせるが、どうにもしっくりこない。腹の底で何かが小さく――例えば狐か狼のような何かが――せせら笑っているような気さえする。面倒事は避けたいはずなのに、心のどこかで少しだけ、何かが起こるのを期待しているような。

午後の日差しも、新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下を過ぎると、どこか色褪せて温度を失ったように感じられた。図書館棟は、他の校舎から少し離れた場所に、まるで忘れられた時間の中にぽつんと建っている。少し古びたコンクリート造りの、それでも歴史を感じさせる風格のある建物だ。壁には緑の蔦が絡まり、縦長のアーチ窓には午後の光が鈍く反射している。シンとした静けさが、建物の周りを支配していた。ざわめきが遠のき、聞こえるのは自分の足音と、遠く琵琶湖を渡る風の音だけだ。本の返却でもなければ、好んで近寄る生徒は少ないだろう。俺だってそうだ。面倒事の気配がする場所には、できるだけ近づきたくないのだから。

図書館の、年月を重ねて少し黒ずんだ重い木製の扉の前に立つ。真鍮だろうか、鈍く光る取っ手にそっと触れると、ひやりとした感触が指先に伝わってきた。中はきっと、いつものように静まり返り、古い紙と埃の匂いが混じり合った独特の空気が満ちているはずだ。俺はひとつ小さく息を吐き、その重い扉を押し開けた。

重い扉が軋むような低い音を立てて開き、俺は図書館の中へと足を踏み入れた。ひんやりとした空気が肌を撫で、外の喧騒とは完全に切り離された、しんとした静寂が耳に痛いほどだ。高い天井には古風なシャンデリアが吊り下がり(今は点灯していないが)、壁一面に並ぶ年季の入った木製の書架が、まるで賢者のように威圧感を持ってずらりと並んでいる。そして古い紙とインクが混じり合った独特の匂いが鼻腔をくすぐった。床に敷かれた赤黒い絨毯が、俺の足音をほとんど吸い込んでしまう。窓から差し込む午後の光も、分厚いガラスと高い棚の影に遮られて、どこか頼りなげに床に細長い模様を描いていた。

館内を見渡す。閲覧スペースには数人の生徒が黙々と自習しているだけで、彼らのペンを走らせる音だけがかろうじて聞こえる。司書カウンターも今は空っぽのようだ。目的の人物、健吾はどこにいる? あいつのことだから、どうせ奥の方だろうと見当をつけ、書架の迷路の間を縫うように進んでいく。背の高い書架に囲まれると、まるで自分が巨大な知識の森に迷い込んだような気分になる。

すると、一番奥まった、普段は文学部員くらいしか寄り付かない古い郷土資料の棚の近くで、見慣れた後ろ姿を見つけた。健吾だ。棚の前で腕組みをして、何か難しい顔で書架の一点を見つめている。俺が近づく気配に気づいたのか、彼がゆっくりと振り返った。その表情には、いつもの飄々とした雰囲気はなく、明らかに困惑の色が深く浮かんでいた。飄々とした態度の裏にある真面目さが、こういう時に顔を出す男だ。肩がわずかに落ちているように見える。

「仗助、来てくれたか。助かる」

健吾は、少しだけかすれた声で言った。その声にも焦りのようなものが滲んでいる。「すまないな、急に呼び出して」

「別にいいけど。それで、例の『困ったこと』ってのは何なんだ? 手短に頼む。こっちは時間に限りがあるんでね」

パフェへの未練を隠さずにそう言うと、健吾は「ああ、悪い…本当にすまん」と眉を下げ、それから深刻な声色で切り出した。

「実はな、文学部で代々使ってる『星の王子さま』のノート…知ってるだろ? あれが、どこにもないんだ」

健吾の口から出た言葉に、俺は思わず眉間に皺を寄せた。『星の王子さま』の共有ノート。文学部の連中が代々、感想やら詩やら、果ては落書きまで書き込み続けている、あの特殊な一冊のことだ。外部の人間にはただの古びた本にしか見えないだろうが、彼らにとっては部の歴史そのものらしい。それが、ない?

「…はあ。また面倒そうな話だな」

俺は隠す気もなく、本日何度目かのため息をついた。パフェへの道がまた遠のいた気がする。

「いつからないんだ? 最後に見たのは誰なんだよ」

「今日の放課後、部活が始まる前に気づいたんだ。俺たちがここに来た時にはもうなくてな。最後に確認したのは…」

健吾が言いよどむと、彼のすぐ近く、書架の影からひょっこりと青白い顔が現れた。確か、文学部長の相田だったはずだ。生真面目な性格で知られる彼は、落ち着かない様子で自分の指先を神経質に揉みながら、か細い声で言った。

「…僕だ。昨日の放課後、活動が終わって戸締りする前に、棚にあるのをちゃんと確認した。絶対に間違いない」その声は、責任感の強さゆえか、わずかに震えている。眼鏡の奥の目が不安げに揺れていた。

「じゃあ、誰かが間違えて持って帰ったとか、単なる置き忘れとかじゃないのか? 部室とか、他の教室とか。そういうのが一番ありそうじゃないか?」

俺が一番ありそうな、そして一番平和的な解決策を口にすると、健吾が力なく首を横に振った。

「いや、部室も、他の部員が使いそうな場所も一通り探したんだ。それに、あれは一応『貸出禁止』扱いで、部の共有物だって皆知ってる。勝手に持ち出すやつなんて、普通はいないはずなんだが…」

「それに…ただの置き忘れなら、こんな奥まった場所じゃなくて、もっと目立つところに…」

部長の相田が付け加えようとして、不自然に口ごもる。彼の視線が、助けを求めるように健吾と俺の間を行ったり来たりしているのを、俺は見逃さなかった。部長という立場が、彼を必要以上に追い詰めているように見えた。「もし僕の確認ミスだったら…」と呟く声が聞こえた。

(…なるほどな。これは、どうやら単なる紛失じゃなさそうだ)

俺のささやかな「小市民」としての平穏な日常が、また一つ、音を立てて非日常に侵食され始めたような気がした。ちらりと腕時計に目をやる。時刻は三時半を少し回ったところ。苺パフェのタイムリミットが、無慈悲に、しかし確実に迫ってきていた。

「…とにかく、もう一度だ。皆で手分けして、ちゃんと探してみよう」

沈黙を破ったのは健吾だった。彼は努めて冷静な声で、リーダーシップを取ろうとしているようだった。「諦めるのはまだ早い」

その声に反応するように、近くの閲覧席で参考書を広げていた(ように見えた)他の文学部員二人が、こちらに顔を向けた。一人は、少し気の弱そうなおっとりした雰囲気の男子生徒、馬場だ。大きな眼鏡の奥の目が不安げに揺れている。「ぼ、僕も手伝います…!」と小さな声で言う。もう一人は、腕組みをして少し斜に構えたような態度の、皮肉っぽい目つきの倉田。状況を楽しんでいるのか、あるいは警戒しているのか、読めない表情をしている。

「探すって言っても、もう大体見ただろ?」倉田が壁に寄りかかったまま、面倒くさそうに呟く。その声には、どこか他人事のような響きがあった。「どうせ誰かが勝手に持ち出しただけだろ。明日には戻ってるって」

「で、でも、もしかしたら見落としがあるかもしれないし…! あんな大事なノートがなくなったら、大変なことになるんだぞ!」部長の相田が顔を赤くして必死に反論した。その必死さが、かえって何かを隠しているようにも見えなくもない。彼は犯人捜しよりも、まずノートを見つけ出すことに全神経を集中させているようだ。「もし本当に無くなったら、僕が責任を取らないと…」

「まあ、やるだけやってみようぜ」健吾が場を収めるように言った。「俺と相田は、ノートがあった棚周辺と、そこの書架をもう一度。馬場は部室スペースの机とロッカー周り。倉田は…そっちの閲覧席のあたりを頼む。仗助も、悪いけど手伝ってくれないか? 部外者の目から見たら、何か気づくかもしれないし」

(結局こうなるのか…)俺は内心で肩をすくめたが、断る理由もない。「分かった」と短く答え、一番可能性が低そうで、かつ楽そうなゴミ箱周辺のチェックを引き受けることにした。

そこから、十分ほどだっただろうか。図書館の静寂の中で、俺たちはめいめい、手分けしてノートの行方を探した。相田はほとんど祈るような顔で棚の中を何度も覗き込み、何かぶつぶつと呪文のように呟いている。馬場はおどおどしながらロッカーの扉を開け閉めし、その度に小さな物音にびくりと肩を震わせている。誰かに見られているとでも思っているのか、やけに挙動不審だ。時折、怯えたように俺の方を見てくるのが気になった。そして倉田は、やはりやる気なさそうに閲覧席の雑誌をパラパラとめくっているだけのように見えるが、その視線は時折、鋭く他のメンバー、特に相田の動きを観察しているようにも感じられた。健吾は真剣な表情で書架の間を歩き回り、時折、低い声で相田を落ち着かせている。「相田、落ち着け。パニックになっても始まらない」

俺はといえば、ゴミ箱の中身を(もちろん直接触りはしないが)備え付けの長いトングで軽くかき混ぜて確認し、あとは床に何か落ちていないか、それとなく視線を走らせていた。――やはり、あの棚の近くの床には、不自然なほど新しい消しゴムのカスがいくつか落ちている。誰かが、ここで何かを消そうとしたのは間違いなさそうだ。しかも、かなり慌てていたのか、消しカスが広範囲に散らばっている。

やがて、健吾が重い溜息をついた。

「…だめだ。やっぱりどこにもない」

その言葉に、他のメンバーも次々と捜索を諦めて集まってくる。相田は今にも泣き出しそうな顔で、「どうしよう…僕の責任だ…」と肩を落としている。

「そんな…じゃあ、本当に…誰かが盗んだとか…?」馬場がおそるおそる口にした言葉が、図書館の静かな空気に重く響いた。場の雰囲気が、単なる探し物から、もっと不穏なものへと確実に変わっていくのが分かった。そして俺の腕時計の針は、無情にも四時を示そうとしていた。

馬場の呟きが、図書館の静寂に重く沈んだ。誰もが口を開けずに、互いの顔を見回している。部長の相田は俯いて唇を噛み締め、責任感に押しつぶされそうな顔をしている。健吾はなんとか落ち着こうと努めているようだが、眉間の皺は深い。馬場は相変わらず怯えたように周囲を見回している。そして、倉田は…壁に寄りかかったまま、腕を組み、つまらなそうに、しかしどこか値踏みするような目で他のメンバーを見ていた。その、微妙な距離感と、状況から浮いているような態度が、俺の注意を強く引いた。他の三人がノートの「行方」を心配しているのに対し、彼だけがどこか違う次元にいるように見える。

「なあ、倉田」

俺の声は、自分でも意外なほど静かに響いた。皆の視線が一斉に俺に集まる。倉田だけが一瞬、虚を突かれたように肩を揺らし、すぐに「…なんだよ」とぶっきらぼうに返した。その声に、わずかな苛立ちが混じる。

「いや、さっきから少し気になってたんだけどさ」俺は努めて穏やかな口調で続けた。「お前、他の奴らのことは気にしてるみたいだけど、ノートそのものが『どこにあるか』は、あんまり心配してないように見えるんだよな。まるで、心当たりがあるみたいに」

倉田の眉がぴくりと動いた。「…は? 何言ってんだよ。憶測で物を言うな」

「憶測じゃないさ。ただの感想だ」俺は肩をすくめた。「それに、さっきの捜索も、少し上の空だったように見えたしな。まるで、ノートが見つからない方が都合がいい、とでも思ってるみたいに」

俺は挑発ではなく、あくまで疑問を提示するような口調を心がけた。そして、視線をゆっくりと、倉田が寄りかかっていた壁際の床、ノートが置かれていた棚の近くへと移す。

「…その辺にさ、やけに新しい消しゴムのカスが落ちてたんだ。誰かさんが、何かを消そうとしたのかな、ってちょっと思っただけだよ」

その言葉に、倉田の表情が明らかに強張った。だが、彼はすぐにそれを嘲るような薄笑いで隠そうとする。

「はっ、くだらねえ。消しゴムのカスなんて、誰だって落とすだろ。そんなものが証拠になるかよ」

「まあ、そうかもな」俺はあっさりと認めた。「だから、確認してるだけだ。なあ、倉田。あの共有ノートにさ、何か書き込んだり、あるいは、最近何かを消したりしなかったか? ちょっと気になっただけなんだが」

俺の最後の、あくまで「気になっただけ」という形の問いかけに、倉田の顔から完全に色が引いた。彼の動揺は、もはや皮肉な笑みでも隠しきれていない。他のメンバーも、俺と倉田の間で交わされる静かな、しかし緊迫したやり取りに、固唾を飲んでいる。部長の相田は、「倉田、お前まさか…」と信じられないというように呟いた。

(…ビンゴ、だな)

ポーカーフェイスの裏に隠された焦り。これでほぼ確定だ。

腕時計を見る。針は容赦なく四時を回り、苺パフェへのカウントダウンは最終段階。さっさと終わらせるに限る。

(…まあ、ここで全員の前でやることでもないか)

倉田のプライドもあるだろうし、何よりこれ以上、事を大きくして目立つのは俺の本意じゃない。俺は内心でため息をつき、追及の矛先をそっと収めた。

「…まあ、いいさ。今はノートを見つけるのが先決だろ」

俺がわざとらしくそう言うと、倉田は訝しげな顔をしながらも、少しだけ安堵したような表情を見せた。場の張り詰めた空気も、わずかに緩む。

「とりあえず、今日のところはもう解散にしないか? これ以上探しても出てこないだろ。明日、また考えようぜ」

俺の提案に、健吾や相田も(少し不満そうではあったが)頷いた。「そうだな…今日はもう遅いしな」と健吾が言う。

(さて、と…)

俺は解散の流れになる中、ちらりと倉田に視線を送った。あいつには後で、少しだけ話を聞かせてもらう必要がある。もちろん、二人きりで、だ。

図書館が閉まる時間が近づき、他のメンバーがそれぞれ帰り支度を始める中、俺はタイミングを見計らって、一人で窓の外を見ていた倉田の後ろに近づいた。窓の外では、運動部が片付けを始めている。声はもうほとんど聞こえない。

「倉田、少しだけ、いいかな」

できるだけ穏やかに声をかけると、倉田はびくりと肩を震わせ、警戒心を滲ませた目で俺を振り返った。逃げるような素振りも見せる。

「…なんだよ、まだ何かあんのか」

「場所を変えよう。ここで話すのもなんだし」

俺が促すと、倉田は一瞬躊躇ったが、やけに素直に、諦めたように小さく頷いた。俺たちは他のメンバーに気づかれないように、そっと図書館を出た。

人気の少ない旧校舎の裏手、西日が壁に長い影を作っている場所まで来ると、俺は立ち止まって振り返った。すぐ近くのグラウンドからは、もう何の音も聞こえない。夕暮れの静寂が辺りを包んでいた。

「なあ、倉田」俺は切り出した。「あのノートのことなんだけどさ…心当たり、ないかな?」

単刀直入ではなく、少しだけ逃げ道を残すように尋ねる。

「…っ」倉田は息を飲むが、もう否定する気力もないようだった。観念したように、力なく頷いた。その表情には後悔の色が濃い。

「やっぱりか。理由は聞かないよ。誰にだって、見られたくないものの一つや二つ、あるだろうからな」

俺が言うと、倉田はバツが悪そうに顔を伏せた。その耳が少し赤い。「…悪かった」と、蚊の鳴くような声で言った。

「…お前、どうするつもりなんだ」か細い声で彼が尋ねる。

「別に、どうもしないさ。俺は面倒事はごめんだから」俺は肩をすくめた。「ただ、あれは文学部の大事なもんだろ? だからさ、明日までには、元の場所にそっと戻しておいてくれると助かるんだけど…どうかな?」

依頼するような口調で言うと、倉田は驚いたように顔を上げた。その目には、少しだけ安堵の色が浮かんでいる。「…ああ、分かった。そうする。本当に…助かった」

「うん、頼むよ」

そう言って、俺は倉田に背を向けた。早くしないと、小春を待たせすぎている。

後ろで倉田が「あの…仗助」と何か言いたそうに立ち尽くしている気配がしたが、俺は振り返らなかった。これで一件落着、のはずだ。明日、図書館の棚に何事もなかったかのように『星の王子さま』が戻っていることを願うばかりだ。面倒事は、これで終わりにしてほしい。

旧校舎の影から出ると、琵琶湖からの風だろうか、少し湿り気を含んだ空気が頬を撫でた。西日が眩しく、校舎の窓ガラスをオレンジ色に染めている。もうすっかり夕方だ。小春が待っているはずの、校門近くのベンチへと足を向ける。葉桜の木漏れ日はもうほとんど消え、ベンチには夕方の光が静かに落ちていた。小春はそこに、膝を抱えるようにして小さく座っていた。俺の足音に気づいて顔を上げる。

「ごめん。待たせた」

駆け寄って声をかけると、彼女はほっとしたように表情を緩めた。

「ううん、大丈夫。…終わったの?」その声には、隠しきれない心配の色が滲んでいる。

「ああ、まあ…なんとかな。詳しくは言えないけど、一応、解決の見込みだ」

俺は、倉田とのやり取りの結果を、かいつまんで小春に話した。誰がノートを隠していて、理由はぼかしたが、明日には元に戻るだろうということだけは伝えた。「結局、ちょっとした勘違いみたいなもんだったらしい」と付け加えておく。

「そっか。よかった」小春は話を聞き終えると、納得したように頷き、立ち上がって隣に並ぶ。「じゃあ、」と彼女が言いかける。パフェのことだろう。俺は腕時計を見た。針は四時半を少し過ぎたところ。

「ああ、行ってみるか。まだ残ってるかもしれないしな」

俺が言うと、小春の顔がぱっと輝いた。「うん!」

カフェのドアに下げられた「OPEN」の札に安堵しつつ、店内に入る。コーヒーと甘い焼き菓子の香りが混じった、暖かな空気が俺たちを迎えた。幸い、店内は思ったより空いていて、窓際の席もいくつか空いている。そして――ショーケースの中に、奇跡的に二つだけ、あの苺パフェが残っているのが見えた! 俺と小春は顔を見合わせ、どちらからともなく安堵のため息をついた。

「…あった!」

「ああ、本当に最後の二つみたいだ。運が良かったな」

カウンターで、俺たちはそれぞれ一つずつ、最後の苺パフェを注文した。やはり『おひとり様一つまで』のルールは健在のようで、店員さんが少し申し訳なさそうにそう告げた。もちろん、問題ない。

窓際の小さなテーブル席に、運ばれてきた二つのパフェグラスが並ぶ。夕方の光を受けて、グラスの中で赤い苺と白いクリーム、そしてピスタチオの緑がきらきらと輝いていた。まさに写真で見た通りの、食べるのがもったいないくらいの芸術品だ。グラスの側面についた水滴がきらりと光る。

「わー…!すごい…!間に合ってよかったね!」

小春は子供みたいに目をキラキラさせて、自分の前のパフェと、俺の前のパフェを嬉しそうに交互に見ている。その瞳には、純粋な喜びが満ち溢れていた。スプーンを握りしめ、どちらから食べようか迷っているようだ。

そんな彼女の様子を見て、俺は内心で苦笑いしながら、自分の前に置かれたパフェグラスを、そっと彼女の方へ押しやった。

「ん?」

小春はぱちくりと目を瞬かせ、俺とパフェグラスを交互に見る。

「どうぞ。俺は見てるだけで十分だから」

「え、え? いいの? 仗助くんの分…」

「元々、そのつもりで来たんだろ?」俺は少し意地悪く笑ってみせた。「『おひとり様一つまで』の壁を越えるために、俺が必要だった、ってわけだ」

これが、二人でパフェに来た理由。単純明快だ。小市民の俺は、彼女のささやかな(?)願いを叶えるための一翼を担ったに過ぎない。

小春は一瞬きょとんとした後、「えへへ、ばれてた?」と満面の笑みになった。「ありがとう!」

嬉しそうに、小春は早速一つ目のパフェにスプーンを入れた。苺を一口頬張ると、幸せそうなため息が漏れる。「んー!おいしい!」

その心底幸せそうな顔を見ていると、まあ、今日一日、面倒事に振り回された疲れも、少しは報われるような気がした。窓の外は、もうすっかり夜の帳が下り始めていた。カフェの温かい光が、ガラス窓に俺たちの姿を映し出している。

カフェを出ると、すっかり夜の帳が下りていた。膳所の駅前の商店街の明かりが、昼間とは違う顔を見せている。アーケードのスピーカーからは、気の抜けたような音楽が流れていた。俺と小春は並んで、家路につくべく坂道を登り始める。二つのパフェを平らげた小春は、さすがに満足げで、足取りも軽い。見ているこっちが胃もたれしそうだ。

「ねえ、仗助くん」

不意に、小春が隣で俺の顔を見上げてきた。カフェでの満足感とは違う、少し真剣な、それでいて好奇心に満ちた表情だ。

「さっきの、図書館でのことなんだけど…」

「ん?」

「仗助くんの話を聞いてて思ったんだけど…倉田先輩が隠してた理由って、もしかして…その、誰か好きな人のこととか、うっかり書いちゃってたのを、見られたくなかった、とか…そういう感じ…だったりする?」

やはり、気づいていたか。俺が理由をぼかしても、彼女の洞察力の前では無意味だったらしい。俺は肯定も否定もせず、ただ夜空に浮かぶ細い月を見上げた。三日月、というには少しだけ膨らんでいるだろうか。

「さあ、どうだろうな。俺が気にすることじゃないさ。無事にノートが戻れば、それでいい」

「…ふふ、そっか」小春はそれ以上追及せず、何か納得したように小さく笑った。「でも、よかったね。ちゃんと解決して」

「まあな。面倒だったけど」

他愛ない会話を交わしながら、坂道を登る。昼間の図書館での騒動が、もう遠い出来事のように感じられた。あの共有ノートに書かれたであろう、誰かの名前や想い。それは当人にとっては一大事だろうが、俺にとっては、結局のところ他人事だ。ただ、あの皮肉屋の倉田にもそんな一面があったのかと思うと、少しだけ意外な気もする。

やがて、二手に分かれる道が見えてきた。琵琶湖からの夜風が、少しだけひんやりと頬を撫でる。湖面の暗さが、対岸の街の明かりを際立たせていた。さざなみの音が、ここまで聞こえてくるような静かな夜だ。

「じゃあ、また明日」

「うん、またね。今日はありがとう、仗助くん。パフェ、すっごく美味しかった!」

小春は満面の笑みで小さく手を振ると、軽い足取りで坂道を上がっていく。その小さな後ろ姿が、街灯の明かりの中に吸い込まれていくのを見届けてから、俺も自宅へと続く道を歩き始めた。

見上げると、空には星が瞬き始めていた。昼間の図書館での出来事、消えたノート、文学部員たちのそれぞれの表情、そして、二つのパフェを幸せそうに頬張る小春の笑顔。色々なことがあった一日だった。

(ま、たまにはこういうのも、悪くないのかもしれないな)

そんならしくないことを思いながら、俺は少しだけ軽くなった足取りで、夜道を歩いていった。遠くで、京阪電車が石山寺方面へ走り去るゴトン、ゴトンという音が、静かに響いていた。明日、図書館の棚には、きっと何事もなかったかのように、『星の王子さま』が戻っているだろう。それでいい。それが、俺たち「小市民」の望む、ささやかで平穏な日常なのだから。

(了)

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