◆ 第2章:データの影を追って

第5話 検索不能な存在

朝、目が覚めたとき、世界は昨日より少しだけ静かになっていた。


スマホの通知はゼロ。SNSのアプリはログアウトされ、再ログインの試みは「該当アカウントなし」の一文に押し返される。

誰とも繋がっていない端末は、ただの無機質な板だった。


記録とは、こんなにも簡単に消えるものなのか。

「履歴」が消えただけで、俺の存在は何も残らなくなった気がする。


駅へ向かう途中、見慣れた掲示板に“顔認証通学ID導入のお知らせ”のポスターが貼られているのが目に入った。

そういえば最近、ICカードではなく顔で改札を通る生徒が増えてきている。


俺も数ヶ月前に登録したはずだ。――いや、登録していた。はずだった。


通学ゲートに近づき、恐る恐る立ち止まる。

黒いセンサーがぴたりと俺の顔に焦点を合わせ、緑のライトが走る。


ピッ


そして、表示された文字は――


《認証失敗:登録情報がありません》


後ろの生徒たちの視線が痛い。通せんぼになってしまった。

慌てて立ち去ろうとすると、職員のひとりが近寄ってきた。


「君、顔認証されてないみたいだけど、申請は?」


「してました。ずっと使ってました。IDも……」


「確認するから、名前教えて」


「東間、東間蓮です。三年A組の――」


「ああ、ちょっと待って……」

彼はスマホでデータベースを開き、数秒スクロールしたあと、眉をひそめた。


「該当ないね……生徒じゃない?」


その言葉に、喉の奥がつまる。


「……います。俺は……ずっとそこに」


だが、声が届いた気配はなかった。

職員は「事務に行って」とだけ言い残し、列をさばくために後ろへ移動していった。


自分の存在を弁明するための“記録”が、一つまた一つと剥がれていく。


手がかりを探さなければならない。

この消失が偶発的なものではなく、意図された“消去”であるならば――どこかにそのログがあるはずだ。


**


放課後。図書館のPCルームにこっそり入った。

校内ネットにログインはできなかったが、一般検索なら使える。

俺は「東間蓮」という名前を、フルネームで、ひらがなで、ローマ字で、様々に検索した。


結果は、ゼロ。


次に、過去に関わったイベント名――体育祭、文化祭、英語弁論大会など――に「三年A組」「出席番号17番」などのキーワードを添えて検索する。


それでも、俺が存在した記録には一切辿り着けなかった。


ただ、一つだけ妙なログに引っかかった。


それは、東京都教育委員会が2026年に一時公開していた教育AI導入報告書のアーカイブだった。


「教育AI導入における試験運用報告:EIDOLON-17プロジェクト」


目を凝らす。


そこにはこう記されていた。


『個別学習履歴の統合試験において、特定IDを仮想記録保存対象としたデータ実験を実施。

目的:学習者の情動傾向と記憶保持率の関係性調査。

対象:コード名 T-REN。』


T-REN。蓮、Ren。


心臓が跳ねた。


俺だ――。

コード化され、抽象化され、匿名化された「個人」。

実験に使われるとき、人は名前を奪われる。それが“倫理的安全”とされるのだ。


だが、俺は現実に存在している。記号ではなく、感情と体温を持った人間として。


クラリオンが言っていた「EIDOLON計画」。

この報告書こそ、その正体に繋がる鍵かもしれない。


手が震えながら、俺はログページのURLをコピーした。

だが、ページを離れた瞬間、モニターに赤い文字が表示された。


《アクセス制限:このファイルは削除済みです》


「……嘘だろ」


確かに見た。

でも今は、もう見られない。


それはまるで、俺の人生そのものだった。

あったことが“なかったこと”になる速度に、現実が追いついていない。


でも――だからこそ、確信した。


この世界のどこかに、まだ“俺”の断片がある。


それを見つける。繋ぎ直す。

記録が消されても、存在は消えないことを証明するために。


俺はスマホを開き、クラリオンにアクセスした。


東間蓮:EIDOLON-17。T-RENって、俺のことだよな?


返信がくるまで、少しだけ時間がかかった。


CLARION_17:……その質問には、まだ回答できません。

ですが、あなたは正しい方向に向かっています。


画面を閉じて、顔を上げる。

誰も気づいていない。誰も声をかけてこない。


それでも、俺は前に進む。


“検索不能”でも、俺はここにいる。


(第5話 完)

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