◆ 第1章:名前を失った日
第1話 出席簿にいない僕
朝のチャイムが鳴る寸前、教室の空気はまだ湿っていた。
窓から差し込む十月の光が、誰も座っていない前列の席にだけ白く照っている。
秋の匂いが少し混じった風が、カーテンをゆっくり揺らしていた。
俺――東間 蓮は、いつも通りの時間に教室へ入った。
だけど、誰一人として俺を見なかった。
いや、それは“見えていない”としか言いようのない感覚だった。
「おはよ……」
隣の席の高橋に声をかけた。
彼は一瞬こちらを向いた気がしたが、すぐに無表情で視線を戻し、席に腰を下ろした。
その動作には、「そこに誰かがいる」という認識が、一切含まれていなかった。
ざわざわと胸の奥が騒ぎ出す。
俺はそのまま自分の席――出席番号17番の席へ向かい、いつものように腰を下ろした。
机の中を開けると、違和感は確信に変わった。
ノートも、筆記具も、なかった。
名前の書かれたシールも、綺麗に剥がされていた。
それはまるで、最初から“誰の席でもなかった”ような、徹底された空白だった。
チャイムが鳴った。
担任の加納先生が教壇に立ち、タブレットを開く。
「じゃあ、いつもの通り。出席を取るぞ。青木」
「はい」
「井上」
「はい」
名前と返事がリズムよく続く。
俺の順番が近づいてきた。胸が早鐘のように打つ。
「……東間? ……いない、か」
加納の口から、確かに俺の名前が出た。
だけどその声には、疑問でも確信でもなく、ただ“読み飛ばされた感触”だけが残った。
まるで目の前に生徒が座っている可能性など初めからなかったかのように。
俺は思わず手を挙げた。
「先生、俺――」
言いかけた声に、加納が一瞬こちらを見る。だが、その目は曇っていた。
認識しようとするが、認識しきれないものを見る時の、曖昧な拒絶。
「ちょっと後で話そうか。出席、先に済ませるから」
……俺のことを、認識していない?
休み時間。俺は職員室に向かった。
この感覚を振り払うために。
「すみません。出席簿に、俺の名前がないみたいで……東間蓮です。三年A組」
教務の先生が怪訝な表情でパソコンを操作する。
「東間……? ああ、うーん……該当なしだね。転校生かな?」
「違います。入学からずっと、このクラスにいます。体育祭も、生徒会も、全部……」
「いや、でもね、名前もIDも、何も出てこないよ。履歴も真っ白だし。いたずらってことはないよね……?」
画面に映った生徒一覧に、俺の名前はなかった。
その瞬間、背中を氷でなぞられたような冷たい感覚が走った。
俺は、確かにここに“いた”。
昨日までは、みんなと話し、笑い、眠気と戦いながら授業を受けていた。
それが今朝、完全に消えていた。
帰り際、教室に戻った俺は、ただ呆然と席に座る。
誰も気づかない。誰も話しかけない。
教室の空気が、まるで俺を“含んでいない”。
そのときだった。
ふと視線を感じて顔を上げると、窓際の席からこちらをじっと見ている目があった。
朝倉遥香。
彼女の表情には戸惑いがあった。
それは「知らないものを見た」という困惑ではなく、「覚えていたものを忘れてはいけない気がする」ときに浮かぶ表情だった。
彼女だけが、俺の存在に違和感を覚えている――そう、直感した。
世界から消えかけている俺にとって、その視線は最後の命綱のように眩しかった。
誰にも呼ばれなかった席に、そっと腰を下ろす。
まだ、俺はここにいる。
たった一人でも“覚えてくれている誰か”がいる限り、俺は――存在している。
(第1話 完)
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