プロローグ5 地域伝承 研ぎ澄まされた音
《高熊山で鳴らす魂》
――
明治十年、九月。
日本最大の内戦、西南戦争が終わりを迎えようとしていた。
高熊山――雲と霧が尾根を這い、
銃声の残響とともに山は静かに、そして確実に死に向かっていた。
薩摩の士たちは、もはや勝ち目のない戦と知りながら、
それでもなお、刀を捨てず、己の姿勢だけを携えて、山に籠った。
その中に、笠木清正という男がいた。
小柄で、無口。
だが、敵が近づけば真っ先に斬り込み、
その身の動きは、まるで風に浮かぶ柳の枝のようだった。
**
若き日、道場で清正はある“感覚”を得た。
剣を振った瞬間、
胸の奥に、何かが微かに鳴るような気がしたのだ。
それは音ではなかった。
鐘のようでもなく、風でもなく。
ただ、自分の中の何かが震えるのだった。
それ以降、彼はその“鳴り”を確かめるためだけに剣を研ぎ、
刃を抜いた。
**
ある冬、清正は江戸で
ふたりは言葉を多く交わさなかった。
鐵舟が湯を注ぎ、清正がそれを受け取る。
そして、沈黙のまま、座敷の空気がゆっくりと沈んでいった。
ふと、鐵舟が言った。
「君の剣は、音を持たぬな」
「だが、振ったとき、胸に何か響くだろう?」
清正は息を呑んだ。
それを言葉にした者は、今まで誰もいなかった。
鐵舟は続けた。
「あれは剣に宿るものではない。
己が長く持ち続けた気配が、刃に映るだけだ」
**
高熊山、戦の終わり。
砲弾が山肌を裂き、木々が崩れる中、
清正はふもとからの包囲を断ち切るため、十数名を率いて尾根に立った。
その夜、彼は火も灯さず、
ひとりで佩刀の刃を月明かりにかざした。
錆び、傷ついたその刃が、
なぜか鏡のように、彼の顔を映していた。
(まだ、鳴る……)
そのとき、清正の胸奥に、かすかな震えがあった。
昔と同じ、誰にも言えぬ、己だけが知る震え。
**
翌朝。
霧の中、敵が山に攻め入る。
清正は言葉を残さず、
ただ佩刀を軽く抱いて立ち上がった。
その刃を抜いた瞬間――
空気が揺れた。
風もない、音もない。
だが、彼を見ていた者たちは、なぜか背筋がぞわりとしたという。
**
突撃の号令。
清正は前へ。
その小さな背中は、まるで音を孕んだ影のようだった。
敵兵の中を抜け、剣を振るうたび、
なぜか周囲は静まり返った。
銃声も、叫びも、誰の声も届かない。
彼の剣だけが、
何かを断ち、何かを遺し、何かを黙らせていった。
**
清正の遺体が見つかったのは、突撃の数日後だった。
伏せられた身体。
佩刀は血を浴びていなかった。
だが、刀の刃先には――ひとすじの霧が絡まっていたという。
誰かがそれを見て、こう言った。
「まるで、あの男の心が、
刃に戻ってきたようだった」
**
山岡鐵舟は後にこう書き記した。
「剣の道を極めた者は、音を残さぬ。
その歩みも、振るいも、声なきものとなる。
だが、たしかに“そこに在った”という感覚だけが、
土と風に、自然とともに長く残るのだ。」
**
清正の墓はなく、名も碑もない。
ただ、今も高熊の山を歩く者の中に、
振り向いてしまうほどの静けさを感じる者がいるという。
それは音ではない。
風でも、幻でもない。
けれど――たしかに何かが、そこで立ち止まっていた気配。
それを、かつての侍たちはこう呼んだ。
「……あのとき、胸が鳴った」
**
律が世界に知られた時代のある秋の日、ひとりの旅僧が高熊の斜面に佇み、静かに山風を聞いていた。
彼は長く言葉を持たなかったが、
霧が音もなく流れる瞬間、ふと、誰にともなくこう呟いた――
「……あの夜、ここに響いたのは剣ではない。
風でもない。
誰にも知られず、ただひとつ、刃の奥で目覚めた“律”だった。
音にはならず、名にもならず、
だが確かに――あの者は、最後に“己の声”を聴いたのだ。」
そう言い残すと、旅僧は再び山の霧へと消えた。
そのあとには、足跡すらも残らなかったという。
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