プロローグ4 地域伝承 遊郭の音

《燈籠の揺らぎ(とうろうのゆらぎ)》

――花魁・薄香うすこう、ひびきに宿した命のこと


江戸、吉原、扇屋の楼上。

その座敷には、名も告げぬまま“紅隠れの間”と呼ばれる一室があった。

その奥に住まう花魁――名は薄香。

これは花魁特有の源氏名である。

本当の名は誰も知らない。


彼女は声を持たず、香も纏わず、

ただひとつ、肌と動きの所作のみで、

客の欲の“鼓動”を操ると謳われた。


**


ある春、ひとりの浪人がやって来た。

花街の遊びを知り尽くし、

それでも「耳の奥が震える女に会いたい」と言った。


その夜、音はなかった。

声もなかった。

あるのは、吐息の前の沈黙と、指先の間に生まれる残り香。


薄香は、この浪人と交わった。


肌の熱はなく、ただ――

響きが重なった。

それは薄香が重ねた響きであった。


彼女の“中”に、何かが入ったとき。

それは欲でも、愛でも、悦でもなく。

波紋のようにひろがった“ゆらぎ”だった。


「……この夜だけは、静けさの中に忘れられない音が響いたのです」


そう語ったのは、名もなき響きである。


**


やがて月が巡り、

女の身に変化が現れた。


兆しは音もなく訪れ、

吐き気、倦怠、月のものの途絶え。


薄香は、自らの腹に、

“命”のゆらぎを聴いた。


けれど、それは誰にも祝福されぬ命。

花魁にとって、孕むということは、

生きる道ではなく――終わりの鐘。


**


誰にも言えぬまま、

夜が来て、朝が去った。


そして、ある晩。

月の細い夜に、裏手の医師のもとで、

彼女はその命を堕とすことを選んだ。


麻酔はなく、

灯りもなく、

ただ一人の女将が手を握った。


血の中で、彼女は何度も目を閉じた。

冷えた畳に背をつけ、

心臓が鳴るたびに――


「ああ、あのときの“ゆらぎ”だけは、本物だったのに」


**


帰りの籠の中、

彼女は唇を噛み、涙も見せず、

ただひとつ、腹に掌を当てたまま、

まるで響きの余韻を感じるように揺れていた。


**


その晩から、薄香の所作は変わった。

指先のひと撫でに“熱”がこもり、

客の男たちは皆、

「彼女の肌にふれると、骨の奥が痛む」と言った。


**


花魁たちは語る。


「薄香は、魂に祟られた女だった。

 されど、祟りとは哀れみの別名。

 なにかを宿したまま、

 ただひとり、黙して立っておった。」


**


ある秋の夜。

薄香は、誰にも告げず、座敷を去った。


扇屋には、ひとつの小刀と、匂い袋が残された。

小刀は刃が欠け、

匂い袋は開ければ、わずかに血の香りが残る。


**


それを見た楼主は、涙を堪えながら呟いた。


「あれは、声なき“赤子”じゃ……

 産まれず、名も告げられず、

 灯の下に擦れて消えた“ひとつの魂”じゃ。」


**


そして噂が残った。


春の雨の夜。

誰もいない座敷に、ふと赤子の泣き声にも似た“ゆらぎ”が流れることがある。


それは音ではない。

ただ、胸の奥に届き、

過ちと哀しみと――たしかな“ゆらぎの痕”だけを、灯に揺らす。


**


そのゆらぎを感じる者の中には、

二度と花街に足を運ばぬ者もいたという。


「あの震えは、

 祝福でも愛でもなく……

 祈られぬままに残った“ゆらぎの余香”だった。」


**


時は流れ、紅隠れの間は誰も知らぬ座敷となり、近代化により座敷は跡形も残っていない。

だが、とある夕刻。旧吉原を彷徨い歩く風変わりな琵琶法師が、

雑居ビルの前で立ち止まり、ふとこう語ったという。


「あの女の所作には、音があった。

 声でも、鼓でもない。

 ただ、ひとつ…彼女の身に宿った痛みと悦びが、

 胸の奥で“鳴った”のだろう。

 あれを聞いた男たちは、皆、

 自分が何を失ったのかを思い出して帰ったのだろう。

 名は残らず、声は消えようとも……

 あの夜の“律”だけは、今もここに染みついておる。

 あぁ…無常なり。」


そう呟くと、琵琶法師は旧吉原を去っていくのであった。

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