プロローグ6 語り部 最後の律だった声
《空の底、海の声》
第二次世界大戦は終盤を迎え、日本は神風特別攻撃隊を創設した。
昭和十九年、秋。
少年兵・榊
十七歳の誕生日を迎えた翌日に、神風特別攻撃隊に配属された。
所属は第二二一海軍航空隊。
発進地はフィリピン、ルソン島――クラーク・フィールド、アンヘレス北飛行場。
戦局はもはや押されに押され、
空には米軍機の雲、海には艦が群れ、
若さこそが唯一の燃料とされた。
榊はそのとき、
まだ“死に方”しか教わっていなかった。
**
第一出撃― 濡れた滑走路
昭和十九年十月、雨。
榊智紀は初めての突入命令を受けた。
滑走路はぬかるみ、零戦はやや斜めに沈んでいた。
整備兵が黙ったまま機体に手を添える。
榊は、祖母の干した梅干しを口に含み、ゆっくりと座席へ。
しかし離陸直後、エンジンが咳をし、機体が旋回不能に。
命からがら滑走路へ戻り、機体を止めた。
操縦席を開けた瞬間、
「生きてしまった」という思いが胸を打った。
安堵ではなかった。
ただ、逃げたような気がした。
格納庫に戻ったとき、
整備兵の一人が彼の肩を叩いて、言った。
「……お前、まだ行くんだろ?」
榊は頷けなかった。
**
第二出撃 ― 波の向こう
数日後、海は晴れ、榊は再び飛び立った。
小隊は五機。
目標はレイテ湾の連合艦隊の空母。
榊は突入態勢に入り、雲を抜ける。
しかしその直後、戦闘機群が空を裂いた。
榊の零戦は銃撃を受け、左翼を失い、制御不能に。
回転しながら海へ。
死を覚悟したその瞬間、
海の下から、遠くから“引かれるような感覚”があった。
気づけば波間に浮かんでいた。
一隻の現地漁船に救助され、フィリピンの漁村で目覚める。
村の老婆が、彼の髪に手を当てて、
何かを囁いた。言葉はわからなかったが、
その声は、なぜか“深い場所から響いた”気がした。
数日後、再び軍に引き渡された榊は、
「なぜ助かったのか」が口にできなかった。
**
第三出撃― ジャングルの囁き
それから数週間たち修理された機体での再出撃。
味方の編隊とともに、南方へ。
だが中空で、味方機が被弾し空中分解。
爆風に巻き込まれ、榊の機体もバランスを失った。
ジャングルの中へ落下。
衝撃で一時的に意識を失うが、またも無傷。
生還者は榊ただ一人。
熱と湿気、虫の声、
そして時折、風のない森に“うねり”のような気配があった。
何かが生きている。
何かが、斃れた機体の中で泣いていた。
その夜、月を見上げながら、榊ははじめて
「自分は死ねないのではないか」と思った。
それは恐怖だった。
仲間が次々と散っていく中で、
自分は巣に残されたひな鳥のような気がした。
**
第四出撃― 空白の空
また数週間がたったある日。
特攻命令が上官から言い渡された。
発進直前、味方の爆撃隊が誤って滑走路を爆破。
飛行場は混乱し、榊の出撃は中止。
彼は機体の傍で、ぽつんと腰を下ろした。
そこに安達少尉が近づき、煙草を差し出した。
「お前、また生き残ったな」
榊は答えられなかった。
安達は笑って、
自分が明日出撃することを告げた。
その夜、榊は寝返りを打ち続けた。
耳の奥で、
砂利の上を水が流れるような、胸のざわめきが止まらなかった。
翌朝、安達の機影は、
雲の向こうに消えた。
二度と戻らなかった。
**
第五出撃 ― 鋼鉄の上、命が跳ねた
昭和二十年、正月を越えても空は青くはならなかった。
榊智紀、五度目の特攻命令を上官から受けた。
今度こそ、戻らない。
同期は皆、記録にも写真にもなり、
生き残っている自分が間違いのように思えた。
目標は、サマール沖に停泊する米軍機動部隊。
空母レキシントンと推定された。
飛び立つ直前、整備兵が彼の機体の翼に手を添え、
「頼んだぞ」と、
まるで祈るように言った。
榊は機体の中で、
何も答えず、ただ手を置いた
胸の上に、聞こえない“音”があった。
飛行中、彼は冷静だった。
編隊の数は減り、自機は孤立した。
それでも彼は旋回し、雲の下に潜り込んだ。
そして、そこに白く、巨大な艦影が、陽に反射して現れた。
榊は狙いを定め、降下角度を修正。
海風が機体を揺らし、音がすべて消えた。
そのときだった。
“胸の奥が無音になった”。
爆音もない。砲火もない。
ただ、刃のように静かだった。
そのまま、機体は空母の艦橋側面に衝突した。
榊が目を開けたのは、真っ赤な鉄の上だった。
機体は消えていた。
身体は、空母の甲板端に横たわっていた。
耳が聞こえず、世界が水の中のように揺れていた。
米兵が数人、彼を取り囲んでいた。
銃は向けられていたが、誰も引き金を引かなかった。
ただ一人、金髪の若い兵士が、
榊の胸に手を当て、呆然としたように言った。
「こいつ、生きてる……
なんで……こんなとこで……」
最後の出撃も榊は生き延びた。
**
榊は捕虜として数か月を過ごした。
その間は拷問もされず、尋問も少なく、
ただ「なぜ、あの時に生きのびられたのか」を誰からも聞かれ続けた。
彼自身にも、それはわからなかった。
だが、夜にふと海の音を聴くと、
胸の奥に、あの突入直前の“無音”が蘇った。
それは“音”ではなかった。
でも、確かに生きて戻れという命令のようだった。
そして、戦争は終わりを迎えた。
榊はなぜ生きていたのかわからないまま祖国に帰った。
**
榊は語らなかった。
生き残った者として、何も語る資格がないと思った。
だが晩年、彼はある海辺の学校で、
修学旅行の生徒に囲まれ、問われた。
「おじいちゃん、特攻って、こわかった?」
榊は笑わず、答えた。
「こわい、よりも前に、“音”があるんだ。
耳には聞こえない。
だけど……胸の奥に、海が鳴るんだよ。
突っ込むとき、その“鳴り”が、
なぜか“おいで”と言った。」
**
彼の話を、子どもたちはよく分からなかった。
けれど、彼の瞳がどこか、空よりも深く見えたという記憶だけが残った。
榊は、戦友の墓の前でこう語った記録がある。
「あの時、海の底から“何か”が響いた。
それがなければ、俺も、ここにはおらん。
お前らが逝ったあの空の続きに、
今もその“音”は鳴ってる気がする。」
**
最期の言葉は、
ある夏の日のインタビューにて、病床にて語られた。
「戦争は、声のないままに人を飲む。
死ぬことだけを教えられて、
生きることに、何の音もしなかった。
だけどな……
今なら言える。
あの時、確かに胸の中で何かが鳴った。
それが“律”だったんだ――
今なら、そう呼べる気がするんだよ。」
**
榊智紀、享年九十六歳。
彼の墓は、静かに海の見える丘にある。
命中しなかった機体の番号と、
戦友四名の名が刻まれた石碑のそばに、
彼の遺言が彫られている。
「風に飲まれず、音に導かれた。
それが、わたしの生き残った理由でした。」
**
かつて特攻の空を飛んだ少年は、
今は風の静かな音の中で、
“あの海の律”を、
永遠に聴いている。
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