ぺこーらに、告白しようと思ってる。 スレのみんなには、悪いけど。抜け駆けで。――兎田ぺこら構文
雲雀さんと知り合って一か月。食堂で私はスマホのメッセージアプリとにらめっこを続けていた。
「困ったな……」
雲雀さんが浮世離れしているのとは反対に、私は俗っぽい。雲雀さんと仲良くなりたいと思ったのは、雲雀さんに一目惚れしたからという、浮ついた一方的な理由だし、そんな私に雲雀さんはよく付き合ってくれると思う。
私の目に映る古森雲雀という人間は、思ったよりもおかしな類の言動をする人だった。他人の言動には頭を悩ませるのに、自分の言動を省みることはあまりない。とはいえ、この人は自分の言動を省みる必要がない丁寧で律義な人だったから幸運だ。
「こんにちは。千さんはチーかまと魚肉ソーセージどちらが好きですか。好きな方を差し上げます」
私の了承も得ず、雲雀さんは私の向かいの席に車椅子を滑り込ませる。
「……チーかまで」
「どうぞ。チーかまです。でも僕は魚肉ソーセージはそんなに好きじゃないので魚肉ソーセージも差し上げます」
私の方にチーかまと魚肉ソーセージが送り込まれる。こういうよくわからないやりとりにも慣れた。別に雲雀さんも何か考えてものを言っている訳ではないので、適当にやり過ごせばいい。
「で、何を困っていたんですか?」
「聞いていたんですか」
「そりゃ、そんな困った顔で、困ったなあと言っていれば」
「……その、ですね」
私の俗っぽい悩みを聞いた雲雀さんは、なぜか生き生きし始めた。
「えっ、告白されたんですか!おめでとうございます!」
雲雀さんの反応に私は目をぱちくりさせた。俗世に馴染まないタイプの人だと思っていたのに、手をぱちぱちさせてなんだか楽しそうだ。
「おめでとう……なんですかね。私、告白されて初めてその相手のことを意識したというのに」
私が苦虫を潰したような顔をしていると、雲雀さんは察して同情を見せた。
「わかります。自分の気持ちの外にいる人に気持ちを伝えられると、困ることしかできない」
「そういう経験があるんですか?」
「……まあ。ちょっと」
苦笑している雲雀さんをじろじろ見る。顔を歪めても元々の端正さが損なわれない綺麗さが、この人が数々の「気持ちの外にいる人」から告白をされた経験があることを語っていた。
「もし千さんの気持ちの範囲外にお相手がいるのなら、さっさと断って差し上げなさい。どうせ傷つけるのなら」
「傷つけるって――」
「傷つけるでしょう。そういう人たちは、なんらかの期待を持って告白するんです。気持ちの整理とか言いながら、目の前に落ちている
「私は告白をされただけなのに?」
「好きの気持ちは、いつだって身勝手で、好きと伝えられた相手の業として降り積もります。千さんは、身勝手の罪を相手の代わりに背負って差し上げているんですよ」
私と雲雀さんは、奇跡的に上手くやれていた。一つ、余計なことを言わない。二つ、雲雀さんの目の前では、当然の親切を当然かつ平等にこなす。三つ、常に雲雀さんに見られていると思って行動する。
「目に入る人間の言動を忘れることができない」という特性を持った雲雀さんに対して、自分の嫌な部分を一瞬でも見せたら終わりだと思って胃が荒れたこともある。初めの方こそ一方的に私が緊張している状況が続いたが、そのお陰でミーハーな気持ちが落ち着き、自然と誠実で平等な自分を生み出すことができるようになった。超人的な人の良さと完璧な容姿を持つ雲雀さんに恥じない自分が欲しかったという理由もある。
そうなったのも、食堂で一緒に食事をする回数が増えるのと同時に、噂をされる回数も増えたからだ。小さい大学の絶対的なアイドルに、突如現れた年下の友人である私が注目されないはずがない。お陰で合コンに誘われることも増えたけれど、雲雀さんのことを考えるとどうしても合コンに行く気にはなれなかった。誠実と一途を取り違えているんじゃないかと年月が経った今では思うけれど、今の私でも雲雀さんを裏切って合コンに行って恋人候補を見繕う気にはなれない。
そうした努力を重ねた結果、私はついに雲雀さんの家に遊びに行く仲になっていた。
大学にほど近い郊外に、雲雀さんの家はあった。一人暮らしとは聞いていたものの、アパートやマンションを予想していたら一戸建ての洋館が出てきたので腰を抜かした。
しかもこの小奇麗なマイホームと同じ敷地に、三階建ての個人博物館を所有していた。雲雀さんは収集癖があり、一階と二階には雲雀さんが「これぞ」と思ったコレクションを飾っていた。
「……もしかして、雲雀じゃなくて烏だったりしますか、名前」
「なんで」
「烏しか集めませんよ、これは」
これは初めて私が古森雲雀博物館に足を踏み入れたときの会話である。というのも、コレクションには画家誰々の作品といった「およそ想定の範囲内であるコレクションと呼べるもの」も中にはあったものの、大体が小学校の蛇口に引っ掛けられている様なネットの中のレモン石鹸、知り合いにもらった青函トンネル開通の記念硬貨、えらく綺麗に光っている泥団子というシロモノなのだ。
「いいでしょう、青函トンネル開通記念硬貨。これはこの博物館の中ではかなりまともに貴重品ですよ」
「そういうのばかり飾ればいいじゃないですか」
「レモン石鹸も、できれば僕は毎日見ていたいんですよ。黄色くて、すべすべしていて、しかもいいにおいがする」
雲雀さんは、訝しむ私を面白がっていた。これは雲雀さんなりの信頼の表し方で、私が「なんだこれ」と思いながらもこのコレクションを楽しんでいると考えているからだ。
「ゴミも飾っているんですか、あんたは……」
「失礼な。頑張ったんですよ、サントリー社のC.C.レモンのラベル集め。ビタミンC含有量を表している、『レモン何個分』の数字が全部違うでしょう」
わざわざガラスケースに入れてゴミ、もといC.C.レモンのペットボトルに貼られたラベルが三枚、飾られている。端からレモン三十四個分、レモン四十三個分、レモン四十個分である。
「それをゴミというのなら、もっとすごいものがありますよ」
家用の電動車椅子を自分の足の様にスムーズに動かし、二階のお気に入りを集めた部屋に移動する。雲雀さん自身もあまりこの部屋には入らない。「お気に入りなのに?」と思ったが、雲雀さんの美学というものは複雑そうで意外と単純だ。雲雀さんいわく、「ショートケーキの苺の様なもの」らしい。
薄暗い部屋に蛍光灯の光が差すと、ガラスケースに守られた雲雀さんのお気に入りが姿を現した。
「あれは電気屋のロゴが入ったボールペン、スーパーのカード会員が登録した誕生月になるともらえるスプーン……」
そんなどうしようもない、ありふれたものが鍵付きのガラスケースに入って展示されているのだから金持ちというのはすごいものである。
「雲雀さん、あれは?真ん中の、あれは……石ですか?」
私は気になっていたガラスケースで守られた干からびた石みたいなものを指さした。私の指先にあるものを見た雲雀さんの表情は、「やってしまった」という後悔が浮かんでいたが、同時に慈愛もあった。私はそんな雲雀さんを見たことがなかったのでうろたえたが、努めて態度に出さなかった。
「あまり人に言えたものじゃないんです、これ」
「今まで見せられたゴミもそうですからね」
「いやあね、これ――初めて僕が恋をした方の排泄物なんです」
「――は」
足が不自由なこの人は常に車椅子の上だから、自然と私は雲雀さんを見下ろしていた。私の頭の影の中にいる雲雀さんの目はそれでもひっそりと輝いていて、やはり私を見上げて微笑んでいた。初めて見るこの人の、普遍的な慈愛の中に隠された、恋慕。私の心臓が悲鳴を上げ始めた。
「僕はこれを天使の標本と呼んでいます」
確かに金色の金属が嵌め込まれているプレートには明朝体で「天使の標本」とタイトルが刻まれている。
「排泄物って……」
「うんこですねえ」
雲雀さんの口から「うんこ」という単語が出てきてぎょっとする。雲雀さんの人柄を知ってなお、私は雲雀さんへの憧れは止まることを知らなかった。雲雀さんは変人だけれども、下品な人ではなかった。それゆえにこの人が他人の排泄物を後生大事に飾っている事実に私は戸惑いを隠せなかった。
それどころか、恋。
言ったじゃないか、人付き合いが嫌いだと。人付き合いが苦痛だと。頭痛がして、目の前の人の言動が忘れられなくて、そのせいでどうにも他人に潔癖になってしまい、そんな自分に与えられた祝福に二十も半ば過ぎているのに折り合いをつけられないのだと。
そんな人に恋をする相手がいる。
私が自分を相手に制定した古森雲雀対応法は「余計なことを言わない・当然の親切を当然かつ平等にこなす・常に雲雀さんに見られていると思って行動する」だけではなく、条文の最後に「雲雀さんに恋をしていると思われてはいけない」というものがあった。あくまで私は親切をたまたま初対面の雲雀さんに施して、その流れで雲雀さんと友人になっただけで、雲雀さんの方にもそれ以上の関係の発展を望んでいない節があった。私たちは友人同士がそれぞれ持つ当然の友人に対する関心のみを持ち、ほどほどの距離感を持って交友を深めていると雲雀さんは思っていても、私には雲雀さんへの憧憬が捨てきれなかった。
しかし、雲雀さんが恋ができる人間だというのなら、別の話である。これは裏切りでもなんでもなく、宗教の話に近かった。私が「私が望む関係をあなたと築くことができなくても、どうかあなたを好きでいることをお許し下さい」という小さな願いを持っていても、雲雀さんが「恋愛」というものを知っていて、獲得していて、成立させられるのなら。私が感じていた窮屈さはなんだったのだろうか。
「恋をしたことがあるんですか」
喉から振り絞ると、雲雀さんは恥ずかしそうに微笑んだ。
「恋でしたよ。好きだった」
「なぜ雲雀さんがその人の排泄物を持っているんですか」
あなたはその相手の性別を聞かないところが素敵ですね、と雲雀さんは骨と一緒に血管が浮き出る左手を顎に添えた。違う。相手の性別を聞くとか、聞かないとか、そういう話じゃない。私は今、あなたが恋ができる人間だったことを受け止めることができず、決壊しそうなのを必死に「規範」で堰止めているだけなのだ。
「無理をしてお願いしたんです。ここで排泄をして下さいって」
顎に添えられていた左手を動かし、二番目に長い指を床に向ける。自然と私もそこに視線を向けていた。つるつるとした大理石だ。
「嫌がられませんか」
「嫌がられましたね。困惑していたし、僕をよくわからないものを見る目で見ていました」
「でも、してくれたんだ」
「してくれました。あの方は僕に何もしてくれはしなかったけれど、排泄だけはしてくれたんです」
声に懐かしさと陶酔が浮かんでいる。春の風のような轟々と鳴っているのに優しい温かみのある感情を、この人は隠しもしない!
私は自分の声が震えない様にするのが精いっぱいだった。
「恋は……叶ったんですか?」
「叶いませんよ。天使に恋はできても、天使との恋を成就することは不可能でしょう」
「お相手は、天使だったんですか」
「はい。僕は人間だから。だから僕は天使になりたいんです」
恥ずかしそうにはにかんだ雲雀さんを見る。笑ったときに少し眉が寄るくせはいつも通りで、私は泣きたくなってしまった。いつも通りの顔をして、恋を語って、好きな人に適う人になりたいとあなたが言うのか。
「天使というのは、一般的なイメージである優しげで中性的な、有翼の人型だけでなく、およそ怪物としか言えない様な姿形をしているものもいます」
指で示された壁にA2サイズのコピー用紙がセロテープで留められていた。雲雀さんの立場では手に入れることが難しそうな絵画がプリントアウトされている。
「『オルガス伯の埋葬』という十六世紀の絵画です。左上のイエスの近くに、顔だけの天使がいるでしょう」
いかんせん書き込みの多い絵なのでイエス自体を探すのに苦労した。
「いますね。本当に顔だけだ。翼はありますね」
「もう一枚見ますか」
次に見せてもらったのは反対側の壁のA2プリントアウトで、こちらはわかりやすくグロテスクだった。有翼の、顔だけの天使に囲まれた赤ん坊を抱く女性。
「目がたくさんあって、車輪の形をした天使もいますよ。これは見るのに精神力が必要なのでやめておきましょう」
「グロいんですね」
「まったく、向けられる視線が多いのは、負担になります」
「お前もその視線の一つだ」と、しっかり釘を刺された気分になって、吐き気がした。多分この人は何も考えずに言ったのだろうけど。
「しかしこれらの異形は天使の中でもかなり上位なんです。醜くても、その価値が揺るがない。僕もこうなりたいのですが、傲慢でしょうね」
「『醜くなりたい』?」
「そうだ」
雲雀さんは急に立ち上がった。立ち上がるとそれまで私よりも大分下に会った頭がはるか高いところにあった。
「醜くなりたい。もっともっと、剥き出しで、欲望的で、他人が見たら眉根を寄せて当然の、そういう醜さが欲しい。それが僕の本当ならきっとあなたも僕から目を背ける。それでもそんな僕を見て好きだと言ってくれる心が欲しい。
僕はあの方の排泄物を見て、眉根を寄せるはずだった。糞尿の臭いが部屋に漂って、そこから逃げ出せないことに絶望するはずだった。それでも僕はあの方の尻から汚いものがひり出されるとき、嫌悪なんてなかった。正しいものを見て、安寧を得た気分だった」
私は演説する雲雀さんに圧倒されながら、追い詰められた小悪党が最後の抵抗をするかの様に抗弁していた。
「……私とおしゃべりをしているあなたは、本当のあなたではない?」
雲雀さんは目を見開いて、すとんとまた車椅子に身体を預けた。
「本当ですよ。僕はあなたに誠実だったはず。百パーセントの自信があるとまでは言いませんがね。あなたは違うんですか?」
私はその問いに答えられなかった。雲雀さんの言う誠実とは何か、私にはわからなかった。このときの私も、今まで自身に課してきた「誠実」の定義が崩れていく様な気がした。
自分の質問に満足のいく答えが得られなかった雲雀さんは、言い聞かせるように語りかけた。
「天使というのはこれくらいの醜さを持って初めて上位存在として認知されるのです。あの姿形で我々人間の尊敬を集めているのです。僕はね、身体がなくても、足がなくてもあれらの様に自由になりたいんです。そうすれば、僕は何も思われても、何を言われても――」
「わ、私は……」
(そのままのあなたが好きだと、言ってはいけないのだ)
何か訴えようとして、その口をつぐむ。雲雀さんが座る玉座は、車輪のついた椅子だった。
美しいと、綺麗だと言われ慣れて、鑑賞され慣れて、それで目に入るものに折り合いがつけられず苦しみ続けた雲雀さんは、天使に恋をして、その恋の為に人間であることをやめたいと叫んでいた。天使になって、醜くなって、誰からもおぞましいと思われ、他の天使との恋を成就したいと願う雲雀さんに、どうやってそのままのあなたでいて欲しいと言えるだろうか。あのひとは不自由で、孤独だ。私と友人関係を築いているのも不思議なくらい、他人との距離を置いているひとが、認められたいと願っている。
天使になれば、あなたは本当のあなたになれるのか?天使になれば、あなたは自由になれるのか?
天使になった雲雀さんに、私はどんな顔をして、どんな規範を制定して信仰すればいいのか?
「ねえ、千さん」
噛みしめるように、聖書の一節のように、私の名前が呼ばれてもふわふわした気持ちにはもうなれなかった。きっと天使の名前だったら、この人は自分のできる一番綺麗な発音で呼ぶだろうから。
「あなたは、違ったんですか?」
今日に限って、雲雀さんの唇は血色のいい赤で、目を逸らすことができなかった。
この日がなかったかの様に、それからも私たちは何度も会い、何度も会話をした。会う度に雲雀さんのことを好きになれる。そういう素晴らしさが雲雀さんにはあって、なおかつこのひとが天使になったら嫌だなとも思った。しかし数年のうちに元々身体が不自由な雲雀さんは病気を悪化させ、入院することになり、会うことはなくなった。
結局、先週、雲雀さんは死んだ。
それなのに私は「そうなんだ」としか思えなかった。
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