あなたは死んで汚れてはいけません。――セイキン自動生成字幕(後)

 数年前、私がまだ十代の頃。私は大学生で、雲雀さんは同じ大学の大学院生だった。学部生と院生の学舎は隣接していて、その境界線にあるテラスと大学図書館といった施設は共同だった。

 カフェテラスのガーデンベンチに、雲雀さんは座っていた。私は入学したばかりだったので雲雀さんを知らなかったけれど、できたばかりの友達が雲雀さんの座るガーデンベンチの方をちらほら見ていたので、それに釣られて「雲雀さんを見た」。雲雀さんは綺麗な人だったから、色んな人に鑑賞されていた。あの人には鑑賞する価値のある清廉な美しさがあって、それは冷たい水みたいな、混じりけ一つない純粋さだ。

 はっとして、視線を爪先の向いた方向に戻した瞬間、前を歩いていた人の尻ポケットからパスケースが落ちた。拾ってみると、学生証だった。

「学生証、落としましたよ」

「え、あっ……ありがとうございます」

 イヤホンをしていたので肩を叩いてその手にパスケースを押しつける。そのまま私は校舎に入って授業を受けた。

 その四時間後、夕方になって私が帰ろうとしても、雲雀さんはガーデンベンチに座っていた。深く座って、手を膝の上で組んでいた。茜色の空をぼんやりと眺めている姿は、私にとっては途方に暮れているように見えた。私は思わず雲雀さんに声をかけていた。

「ずっとここにいますよね。誰か待っているんですか」

 雲雀さんは音が出た方を探る様に、ゆっくりとこちらを向いた。私の姿を捉えると、やはりゆっくりと声を出した。雲雀さんの流麗な喉から出る音は、男性の声と女性の声のちょうど中間にある音域にあった。

「待っているように見えましたか」

「すみません、聞いてみただけなんです。お昼頃からここにいましたよね」

 雲雀さんは思案する様に膝の上で組んでいた手の位置を変えた。この人は指が長い。

「……なんで、僕にそれを聞いてみようと思ったんですか?」

「なんでって、その、困っているのかなって、思ったからです……?」

 私の方が困った顔をしているのに気付いた雲雀さんは、再び空に視線を向けた。激烈な朱ではなく、淡い赤だった。

 しばらく私たちはこの空を眺めていた。

「あなたを待っていたことにしてくれませんか」

「私を?」

「助けて欲しいんです」

 助けて欲しい?そう聞き返すと雲雀さんは眉尻を下げて微笑んだ。この人の笑い方、好きだな。

 本当のことを言うと私は四時間前、初めて雲雀さんを見たときからこの人のことを好きだと思っていた。衝動ではなく、じわじわと温度を上げる身体によって気付く毒。結局その感情は「一目惚れ」という言葉に集約されるのだが、抱いた感情の理由を探そうと私は雲雀さんの表情や所作をまじまじと見ていた。

「学生部に行って、車椅子を借りてきて欲しいんです。古森雲雀が、って言えば伝わるので」

「足が悪いんですか?」

「悪いんです」

「学生部でいいんですね?」

「いいんです」

「わかりました」

 やっぱりこの人、好きだな。笑ったときに眉間がちょっと寄るのが。会話のテンポが。指が長くて、左手の甲にだけ骨と一緒に血管が見えるのが(雲雀さん自身は、生涯自分のその素敵さを気持ち悪いと思っていたけれど)。

 事務棟にある学生部窓口で「古森雲雀さんが車椅子を貸して欲しいって言っています」と言うと、訳知り顔の職員が事務所の奥から大きな車椅子を持ってきた。

「古森さん、なんか言っていました?」

「特に。車椅子を貸してくれってだけです。あの人、古森さんっていうんですか?」

「知らないで来たの、あなた」

「通りすがりで、ちょっと」

「珍しい。古森さんは隣の敷地の院生なんだけどさ、お昼を食べるときは学部の敷地まで来るの。学食はこっちにしかないからね。古森さんってば綺麗だから学部生のアイドルなんだよねえ。でも古森さんったら人付き合いが悪いんだから」

「アイドルなんですか」

「こんな地方の小さい大学じゃあ、知らない学部生の方がモグリ扱いだよ。だってあんな綺麗な顔で、お金持ちでしょう、それだけでもう大人気よ。しかも誰にでも丁寧にしゃべるから院生よりも学部生にウケがいいんだよね」

 あの人は古森雲雀さんで、隣の敷地の院生で、足が悪くて、お金持ちで優しくて顔がいいから人気者らしいけど人付き合いは嫌いらしい。基本データを入手できた私は浮かれていた。このときの私の中で雲雀さんはまだポップでカジュアルな偶像だ。

 ガラガラと車椅子を押しながら戻ると、雲雀さんはさっきと同じ様に遠い目を夕焼け空に向けていた。

「遅くなってすみません」

 私が声をかけると、また同じようにゆっくりと視線の向きを変える。

「どうも。助かりました。車輪の横のレバーを下げて下さい」

 言われた通りにすると、車椅子の車輪は動かなくなった。それを確認してから雲雀さんは車椅子に座る。これだけでも結構気力を使うらしく、ゆっくりと呼吸を繰り返していた。疲れた顔をしているのが気にかかり、思わず声をかける。

「その……押した方がいいですか?」

「えっ、押してくれるんですか」

「押さない方がいいですか?」

「初めての人に、そんなことをさせるわけにはいきませんので」

「あ……そうですよね!うっかり転ばしたりとかしたら、危ないですよね!」

 慌ててすみませんと謝る私を、雲雀さんは腕で制した。

「ありがたいのですが、そこまで親切にしてもらう理由がないって意味です」

「で、でも、助けて欲しいって言っていたじゃないですか」

「それはそうですけど、それは車椅子を借りてきて欲しいってことです」

「ここまできて『はいさよなら』はちょっと難しいです。私が助けを求められていたので、助けさせてください」

 自分でも馬鹿なことを言っていると自覚しても、私は自分の発言を「やっぱりなしで」と言う気にはなれなかった。雲雀さんに好意を抱いていたのも理由の一つだったが、この人ともっと一緒にいたかった。欲を出したのである。

 そして、私はこの人に助けを求められていた以上、その役目を果たしたかった。祖父の死によって受けた報いから、当然の親切を当然に行う誠実さを私は全うしたかった。この行為によってのしかかり続ける罪の償いが少しでもされることを望んでいた。

 私の罪を、勿論雲雀さんは知らない。

 雲雀さんは私が必死に訴える様子にあっけにとられた様子でしばらくぽかんとしていたものの、笑って了承した。

「そうでしたね。僕があなたに助けて欲しかったんです。さっき言ったかもしれませんが、古森雲雀といいます。隣の敷地の門まで押してもらえませんか」

 隣の敷地の門とは、院生の学舎の方にある北門を指していた。

「わかりました。今更ですが、学部一年の高原です」

「高原さん」

 なだらかに私の名前を呼ぶ。

「下の名前はなんですか?」

「……その、千っていいます」

「千さん」

 私は自分の名前が嫌いだった(私の名前を知った人は大抵ジブリ映画を思い出す)。それなのに噛み締める様に私の名前を「さん」付けで呼ぶ雲雀さんを見ると、自分の名前が聖書の一節にでもなった様でふわふわした気持ちがした。

「高原さん……僕はね。すごく記憶力がいいんです。生まれたときのことを今でも覚えています。だからね、僕はあなたがお昼の一時前に僕を見ていたことを知っているんです。あなたはお友達と一緒に歩いて、それから前を歩いていた人が落とした学生証を拾っていましたね」

「なんで知っているんですか!」

 思わず車椅子のグリップから手を離してしまう。急に心臓が激しくなる。私が雲雀さんを見ていた様に、雲雀さんも私を見ていた?

「はい。あなたと僕は今日が初対面なのでそれくらいしかあなたのことを知りませんけど。あなたのお友達は先週の火曜日、学食でお目にかかりました。先々週の火曜日もだな。誰のことでも、なんでも覚えているんです。お陰でいつも頭痛がするんですが」

 特に自慢でも苦労話でもないただの事実という様に淡々とした口調である。

「それって、すごい。授業の内容を暗記しちゃえばテストでいい点取れそう」

 私がはしゃぐと雲雀さんは苦笑いをした。

「いいことばかりじゃありませんって。頭痛がする。それに人のいいところも、嫌なところも全部覚えている。忘れようとしても無理だ。最悪夢にまで人の顔が出てくる」

「あ……無神経ですみません」

「いえ、今のは僕が悪い。あなたに僕が気を使わせたんだ」

「だから、あまり人付き合いをしないんですか?」

「……僕のことを噂話か何かでお聞きになったんですか?」

「車椅子を借りるときに、職員さんが言っていました。古森さんは人気者なのに、人付き合いが悪いって」

「…………」

 雲雀さんが黙ったので、私も黙った。夕焼けの色がじわじわと夜に浸食されていく。

 そしてそういうとき、静寂を破るのは大抵雲雀さんの方だった。

「大体の人が僕のことが好きで、嫌いです。どちらかですね。高原さんはどうですか」

「どう答えるのが正解なんだろう。嫌いではないことは確実です」

 好きです、とは言えず、雲雀さんの出方を見る。このときの私は雲雀さんのテストにかけられていたのだ。

「嬉しいな。まあつまり……贅沢な話、僕は僕のことを好きでも嫌いでもない人に助けて欲しかったんです。初対面の人なら、僕のこと好きでも嫌いでもないでしょう?精々初対面の人って話すのがだるいなあと思うくらいでしょうね」

「古森さんは、自分のことを好きな人が嫌いなのですか?」

「聞いたんでしょう。人付き合いが苦痛なんです。頭痛がして、目の前の人の言動が忘れられないのなら、どうやって目を瞑るのか、どうやって折り合いをつけていくのか。そればかりを考える。それ以上に僕のことが好きな人は、僕の僕以外の部分が大抵好きだということに、僕は生まれて二十数年、苦々しい気持ちを抱えながら過ごしている」

 よくわからないけど、この人にはこの人なりの不都合があったらしかった。

「院生の学舎って多目的トイレがないんです。だから僕は普通のトイレに行きます。仕方なくね。そうなると車椅子に乗れないから、歩くんです。壁沿いに手をつきながらゆっくり。車椅子はトイレ前の通路に置かないと邪魔になります。でもね、隠されちゃったんですよ。車椅子」

「……ひどい。誰がそんなことをしたんですか?」

「知りませんけど、僕のことが嫌いな人なんじゃないですか」

 ふーっと溜め息をついて、それから車椅子を押す私の方を向く。まつ毛に縁取られた澄んだ瞳が私の表情を探っている。

「孤独は贅沢品です。孤独ではないことも贅沢ですが……孤独を楽しめなくなるときがいつかやってきます。ですから楽しむことができる孤独とは贅沢だと思います。今日の孤独の四時間は非常に苦痛でしたが、あなたに助けてもらえたので、贅沢になりました。今度お礼をさせて下さい」

「いえ、そんな。お礼をされるほどじゃないです!」

「されるほどです。僕から受けるお礼は困りますか?」

「そんなはずないじゃないですか」

 思わず即答して、後悔する。この人は今、自分に向けられる好意に不可解な気持ちを抱いていると話したばかりじゃないか。

 しかし私の焦りは杞憂に終わった。

「じゃあ今度食事に行きましょう!何か好きな食べものはありますか?なんでも奢りますよ」

 お礼で、食事。大学に入ったばかりのまだまだ垢抜けない子どもの私には急に大人の誘いを受けてあたふたしたが、雲雀さんはそれを違う方向に受け取った。

「あ……すみません。いきなり年上の人間と二人で食事はハードル高いですよね。未成年ですし……」

 正直なところ、一目惚れした相手に食事に誘われるのはめちゃくちゃ嬉しかったが、雲雀さんが言う通り私にはハードルの高い話だった。

「じゃあ、こうしましょう。携帯でこれを撮影して下さい」

 見せられたのはメールアドレスの映った携帯電話の液晶画面だった。

「僕のメールアドレスです。あなたが大学に来る日のお昼、学食でなんでも好きなものを奢ります。その日が来たらここにメールを下さい。どうでしょうか?」

「わ……わかりました。ありがとうございます」

「お礼を言うのはこちらの方ですから」

 北門まで来ると、私たちは別れた。臨時のヘルパーさんに車で迎えに来てもらうらしい。

 その日の夜はずっと雲雀さんのことを考えていた。携帯のアルバムを見て、一番新しい写真を見て赤面するのを何度も繰り返した。雲雀さんのメールアドレスを私は知っている。それがどうしようもなく嬉しくて、どうすれば雲雀さんともっと仲良くなれるのかを考えた。綺麗で、丁寧で、指が細長くて、髪がさらさらしていて、会話のテンポが心地よくて、今日知った雲雀さんの、今日知った雲雀さんの素敵さを反芻した。

 人付き合いが嫌いで、目に映り耳に入る他人を忘れられなくて苦痛を覚える雲雀さんと近付きたいと思った。

 これが私と雲雀さんの出会いである。雲雀さんにとっては些細な日常の変化で、私にとってはゴルゴタの丘へと向かう第一歩だった。

 もっとも、私が背負っていた罪は私の罪でしかなかったのだけれども。


 結局、雲雀さんのメールアドレスが使われることはなかった。数日後の昼、学食で私と雲雀さんは偶然顔を合わせた。

「あれ、高原さん。学食では初めましてですね」

「古森さん」

 雲雀さんはカスタムされたもはやロボットみたいな車椅子に乗っていた。それに装着されたミニテーブルの上には窯玉うどんが乗っている。

「何か食べるなら奢りますよ」

「いえ、お弁当あるのでそれを食べます」

「そうですか」

 雲雀さんのいいところの一つに、話を無駄に引き伸ばさないというところがあるが、このときの私は偶然雲雀さんに会えたことでテンションが上がっていた。何しろ大学に行く度に雲雀さんの姿を探している具合だ。これでは他の学部生と同じだが、当時の私はアイドル扱い以外の年上への好意の表し方が思いつかなかったのだ。

「一緒に食べませんか?」

「一緒にですか?」

 つまり、また、欲を出したのである。

 雲雀さんの方は、誘われる理由がわからないといった顔をしていた。私たちの間には顔見知り程度の関係性がなかったので仕方のないことではある。

 しかし雲雀さんは私の誘いを了承した。後に「なぜ私と食事を共にしてくれたのか」と聞いたとき、雲雀さんは「お礼をすべき人に誘われたら了承すべきでしょう」と言っていた。律義な人である。

 ミーハーな私と、律義な雲雀さんは食堂の一番端の、誰も座らないところに陣取ってそれぞれの食事をした。雲雀さんの方は義務感で食卓を共にしているからか、窯玉うどんの方に注力していた。

「車椅子、返ってきたんですか」

「ん、ああ……これはサブです。リクライニング機能があって結構快適なんですよ」

「被害届とか、出さないんですか」

「大学側には出していますよ。車椅子だってタダじゃありませんからね」

「怒っているようには見えなかったから」

「まあね。怒って返ってくるなら怒りますけど、僕の実家に気を使って、大学が勝手にちゃんと探してくれると思いますし」

「実家?」

 ぽかんと聞き返す私に、雲雀さんはしまったなと言いたげな顔をした。

「知っているんだと思った。あの、自慢じゃないんですけど親が金持ちなんですよ。この大学にもいくらか寄付をしたらしいんです。それで」

「すごいですね」

「……あなたが知らないんだったら、知らないままでいて欲しかったな」

 私は雲雀さんの話を聞いてから、先日車椅子を借りに行ったときの職員との会話の内容を思い出していた。『だってあんな綺麗な顔で、お金持ちでしょう』。これが、この人の言う「僕のことが好きな人は、僕の僕以外の部分が大抵好き」ということなのかもしれない。

 つまり、雲雀さんは上辺だけで解釈された「古森雲雀」という存在に不自由を覚えているのだった。そして私も雲雀さんが最も嫌がるであろう「最初に顔に惹かれた」をやり遂げている。

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