セイちゃん論 破壊の先に創造あり ――セイキン

「親愛なるあなたへ

 きっとこの手紙があなたに届いていることを願っていますが、つまりあなたがこの手紙を読んでいるということは、僕が死んだということなのでしょう。死んだということは、人間としての僕が死んだということになります。

 しかし僕のただ一人の友人であるあなたを残して死ぬというのは、あなたに今まで僕の為に取らせたお時間に対して不誠実なのではと思いました。ですからそれに代わるようなものを差し上げられたらと思いますが、いかがでしょうか。

 とりあえず、僕の家とコレクションは全てあなたに差し上げようと思います。家は片付いていますし、家具もそのままになっています。売っていただいても構いません。コレクションに関しても同じです。

 それらの鍵を同封致しました。僕の家の鍵、家の金庫の鍵、僕の博物館の鍵、収納庫の鍵、そして開かずの間の鍵です。開かずの間という響きはいいですね。心が躍ります。ですが、開かずの間の扉を、開けても開けなくても結構です。開けられない開かずの間の扉というのも心が躍るから。

 あなたを困らせることになったら申し訳ありません。もし不要でしたら実家の電話番号も書いておきますので、そちらにかけて下さい。しかるべき処分が下るはずですから。……」

 その下には私と会えてよかったことや、私への感謝が述べられていた。そうして最後に「僕は、僕の望む姿になれました。」と掠れたボールペンの文字が走っていた。

 雲雀さんは、天使になることを諦めておらず、そして私との問答をなかったことにはしないつもりだった。

 雲雀さんは、死してなお、私と信仰を語る気でいる。そう確信した私は封筒の中から鍵を取り出し、ポケットに入れると、雲雀さんの家に向かった。その最中、私は雲雀さんと一緒にいた時間のことを走馬灯の様に思い出し続けた。

 あなたと過ごしたあの日々が、今もこの身を焦がしている。今もあなたから見れば幼い私は何もできず、泣きたい気持ちのままあなたの決意だけを眺めていて、胸から湧き上がる激情が、悪魔の形を取って私の頬を殴り続ける。その間もカチカチと時限爆弾が頭の中でカウントしている。次第に私の頬を殴るタイミングと、カウントの音が合わさって一つの大きい音になって響いていた。

 開かずの間とやらは、雲雀さんの博物館の三階にあった。三階にあった……というより、三階そのものらしい。初めて見た開かずの扉の上の金属プレートに明朝体で「天使の標本」と刻まれている。まさかこの先で、「また」雲雀さんの好きな人の「うんこ」を見なくてはならないのか?少し萎えた気持ちがしたものの、開かずの間を開けないのは心が踊るからであって、気持ちが萎えるからであってはならない。覚悟を決めて鍵を開ける。重厚な扉は誰の侵入も拒んでいる様で、しかしそれが、その先に重大な秘密があることを雄弁に語っていた。

 その秘密を、暴く。古いドアは初めて開けられた様な気不味い音をさせて開けられた。扉の先には、大きな窓とはるかな透明なドームの天井。そのせいで照明がついていないというのに、自然の白い光がそこにあるただ一つの展示品と床を平等に明らかにしていた。変色した大理石の床に落ちているコピー用紙には『オルガス伯の埋葬』がプリントアウトされている。……ああ、そうか。他に何もない開かずの間の中央に置かれた玉座。天使が座る玉座は、電動車椅子で――。

 天使がいたのだ。

 雲雀さんの死因は病気による衰弱ではなく、自殺だった。

 車椅子の上で、だらんと腕を下ろして座っている。雲雀さんの瞼にはナイフの血筋が残されており、このひとが自分で自分の視力を害したことを語っていた。視線に耐えられないのなら、耐えられるようにすればいい。私と視線が交わることは、もう絶対にないだろう。

 腹部からはセラフィムの赤い翼の様に中身が開かれて出ていた。乾いた血液がこびりついている。普通こういうものは「腐っていくんじゃないのか?」……いいや、これは天使だ。普遍の醜さを持つ天使は腐らない。腐るのは、生きているからだ。

 はっきり言って、グロテスクだ。人間の雲雀さんは、死んだ。それまでぼんやりとしていた雲雀さんの死が急に身体を覆う。耐えられずにへたり込む。それから喉奥から空気が迫上げてきて、吐くものは何もなかったけれど、大きく肩が震えた。

 悲しいとか寂しいとか、そういう感情は通り過ぎたのではない。まだ来ていなかっただけなんだ。本当に死んでしまった。本当に――これがあなたの本当だと言うのか。

 あなたを好きになってはいけなかった。いけなくなってしまった。天使になったあなたに、どうやって心を寄せればいい?どうやってもその心は信仰になってしまうのに?私と雲雀さんは友人だったはずなのに、全てが崩れ去る。不誠実だ。

 許してくれ。

 私があなたの為に誠実であろうとすることを許してくれ。

 私があなたを不快にしない為に偽ることを許してくれ。

 私があなたに恋をしていても、それを暴くことを許してくれ。

 どうか、私が望む関係をあなたと築くことができなくても、どうかあなたを好きでいることをお許し下さい――天使様。

 人間は独占できても、天使は独占できないから、どうか、あなたが人間であった時代を私に分け与えて、それを愛おしく思うことをお許し下さい。

 私があなたの望まない私であることが一番の心残りであったが、やはり私ができる天使への抵抗はこれしかなく、天使に刃向かってなお、私は許しを乞い続けた。

「それでも私はあなたが好きなんだ。あなたが誰かに恋をして、あなたがあなたの好きな天使に相応しい姿になろうとしたように、私はあなたに対して誠実であろうとした。誠実が何かわからなかったとしても、下心があるくせにあなたの友人の仮面を被っていたとしても!」

 私の本当と言うのは結局、あなたにナイフを突き刺しながら愛していると叫ぶ身勝手な獣なのだろう。

「好きだ、雲雀さん。私はあなたがどうしても好きなんだ……」


「親愛なるあなたへ

 この手紙を読んでいるということは、上手い具合にあなたのお宅に僕の手紙が届いて、天使になった僕を見てくださっているということだと思います。どうでしたか。僕は、あなたと一緒に見た天使たちの様に、醜く、目を逸らしたい標本になれたでしょうか。そうであったら、僕は死んだかいがあります。元々身体は強くなかったんですが、肺をやられて死にそうだったんです、せっかくなので死ぬ場所も、死ぬタイミングも、僕が決めたかった。そうなるとやはり、僕のお気に入りの場所で死ぬしかありませんよね。

 何年も前のことですが、あなたは僕に『自分と接している古森雲雀は本当の古森雲雀か?』とお聞きになり、僕はそれに対して『本当だ』と返事をしました。今振り返るとひどい嫌味を言ったなと反省しておりますが、僕はあなたに欲望を見せてもいいと思ったくらいには本心で接していました。

 あなたは僕にとっていい友人でした。自覚していたんですが、僕は他人に対して期待をしがちで、失望しがちだったんですが、あなたには何度も期待をして、何度も失望していた気がします――きっとあなたもそうだったと思います。それでもあなたと共にいた時間を僕が裏切りたくなかった。つまるところ、僕はあなたが望む僕を見せていたかった。僕はあなたが思うような人間じゃないとわかっても、あなたが僕を裏切らないでいてくれる天使になりたかったのかもしれない――と、今になって思います。矛盾しているように聞こえますか?言い変えましょうか。あなたが好きな僕を本当の自分にしたかったんです。

 ですが、僕があなたにとって都合のいい僕ではなかったことは、不変の事実です。なぜなら僕は僕の信仰した天使以外に恋をすることはできないからです。

 きっと僕が天使になれば、あなたは無条件に僕に信仰を吐露すると確信しています。しかし、僕が天使になることは、あなたにとっては非常に不都合だということも知っています。

 それでも僕は、言ったでしょう、『それでもそんな僕を見て好きだと言ってくれる心が欲しい』と。これが僕にできる、あなたへの愛の告白なのです。あなたに僕が僕の天使に抱いた気持ちを持てなくても、僕はあなたを愛していることに変わりありません。そのことを、どうか見逃してください。例え許せなかったとしても、僕があなたを愛していることを、どうか見逃してください」


 醜くなりたい。

 もっともっと、剥き出しで、欲望的で、人が見たら眉根を寄せて当たり前の醜さが欲しい。そして、そんな僕を見て好きだと思い、僕の感情の矛先になってもいいと思って欲しい。僕の本当ってやつがそういう身勝手さなら、それを共有してやりたい。

 生まれたときには既に孤独の中にいた。父親は金持ちで、母親は美しい以外になんの器量も持たない妾女だった。自分の記憶力がとてつもなくよいことを知ってなお、母親の姿を思い浮かべてもたった一枚の静止画として、彼女は変わらず記憶の中にいた。母が黒いワンピースを着て、縁側に座って、ぼんやりとしている。これ以外の母親の記憶がないのだ。自分の世話をしてくれたお婆さんのことは、何本ものフィルムとして保存されているのに、母についてはこの一枚きり。それについて僕は冷たい気持ちがした。冬の夜の、心臓の周辺に冷たい風が吹いている様な心地で、痛くはないけど苦しい。でも、彼女のことを考えているときだけ、頭痛はなりを潜めた。彼女の僕の脳みそに占める面積が著しく狭かったからだろう。

 父の正妻には同い年の息子がいて、僕が本家の人間から不気味がられるのとは反対によくかわいがられていた。愛情深い家庭に育った子どもが大抵そうである様に、気立てのいい、品のある青年だったと思う。僕が静かに立っているとき、彼は柔らかいソファーに座って、彼と同じように気立てのいい人たちと談笑を交える人だった。

 しかし僕は彼に小さな不満があって、それは彼が僕の母に頑なに挨拶をしないことだった。親戚の集まりなどで、母と僕が彼と顔を合わせたとき、彼は僕には異母きょうだいとして最低限の挨拶をするものの、母と言葉を交わすことはなんとかして避けていた。小さな不満は徐々に僕の心を蝕んでいき、この感情に名前をつけてやりたい気持ちが湧いた。静止画の中にいる黒いワンピースの女性に礼を尽くさない彼が、悪魔に見えてきた。勿論、妾女の母を嫌って彼女に最低限の礼儀を見せることのない人はたくさんいたけれど、そういう人よりも僕は、彼にいらいらしていた。

 その嫌悪がむくむくと膨張し、僕の頭の中では頭痛が一層ひどくなるタイミングと連動して時限爆弾のカウントが行われていた。カチカチと秒針を刻む音が、痛みと共に僕の脳みそをノックしていた。

 正月の集まりで、僕はついに彼を呼びだした。人気の少ない、階段の踊り場で僕は彼に掴みかかっていた。そのころにはカウントダウンはもう終わりに近付いてきて、爆発するのを待っていた。

「なんで君は僕の母に挨拶をしないんですか?」

「する必要があるのかい?」

 彼は僕が初めて剥き出しにした怒りにも動じていなかった。それどころか、少し楽しそうな顔をしていた。まるで僕が爆発するのを待っていたかの様だった。

「君は正妻の息子だし、僕はなんの立場もない、そんな僕の母にちょっとの親切さをくれないのですか?」

「だから、それが間違いなんだよ。母さんはお前の母親がいたく嫌いでね。当たり前だよな、自分の夫が、自分が妊娠した頃と同じ時期に他の女を孕ませていたら、どうにかなっても仕方ないだろう、しかも別邸とはいえ、近所に住まわせて、何もしなくても食事と寝床を与えてさ」

「君とは関係ないですよね」

「俺が、お前の母親を軽蔑しているんだよ」

 カチッ。

 瞬間、僕は彼を階段の方向に突き飛ばした。

 ――と、僕は思っていた。

 実際は、僕の方が彼に突き飛ばされていた。

「雲雀、俺はお前が嫌いだ、お前もお前のママみたいに何もできなければいいのに、そうすればお前なんてどうでもよかったのに――」

 身体が空を舞って、それに向かって放たれた彼の気持ちが矢となって突き刺さる。

 ぐき、と嫌な方向に右足がひねられて、骨がぶつかる音がした。上半身にも痺れがやってきて、それでも僕の頭ははっきりとし続けた。さっきまで風船の様に膨れ上がっていた嫌悪は、いつの間にか消えていた。残されたのは静かな頭痛だけだった。

 目が覚めると、布団の上に寝かされていて、僕の顔を母が覗き込んでいた。

「母さん……」

 喉をかっ開いて、彼女を呼ぶ。しかし母は表情一つ変えず、僕の呼び掛けに答えることもしなかった。それを見て、僕はひどく安心していた。どんなことがあっても母が不動であることが、世界のルールとして存在していることで心の平穏が訪れるのを感じていた。

 彼女の静止画を見て震える冬の夜の心臓の時代は、彼女が僕の姿を捉えたことで、彼女の存在へ絶対的な信頼を預ける不変の信仰心の時代に変容していく。

「母さん、僕のお願いを聞き入れてもらえませんか」

 布団の上で、僕は彼女に懇願した。懇願の言葉を聞いてなお不動の母に喜びを覚える。

「ここで、排泄をして下さい」

 一房、髪が揺れた。

 僕は彼女の存在を信頼している。彼女が僕にとって唯一の天使であることも、何もかも。

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