📖第1章|泣いたら負けだと思ってた

春の終わりに、雨が降った。


中学2年の教室は、湿った空気と、焦げたチョークの匂いが混じっていて、なんとなく落ち着かなくて、でも私はそういう匂いが好きだった。


たぶん、自分の気持ちが曖昧なときほど、周りの温度とか音とか、どうでもいいことばかりに敏感になる。頭の中で音楽が流れていて、先生の声も、友達の笑い声も、ぜんぶ遠くで鳴ってるような気がしていた。


うまくいかないことばかりだった。


成績も、家のことも、自分自身も。


「努力が足りない」って、母は簡単に言うけれど、じゃあ、私は一体どれくらい足りてなかったんだろうって、そういうことばかり考えていた。


誰かにほめられたくて、でもそれを言うのも恥ずかしくて、笑ったふりをして、愛嬌で誤魔化して、でも内側は、ずっと泣いていた。


そのとき、浅井くんは隣にいた。


別にかっこよくもないし、クラスの中でも目立つタイプじゃなかったけど、私のことを見てくれる人だった。


「……なんかあった?」


そう聞かれた日、目の奥がじんわりと熱くなった。泣くのはずるい気がして、瞬きの数を増やした。


泣いたら負け。ずっとそう思っていた。


でも、彼の前では、負けてもいいかなと思った。


名前を呼ぶのが照れくさくて、でも心の中では何度も浅井くんの名前を繰り返していた。その響きが、自分の中にぽつんと灯る感じがした。


彼は、よくノートの端に落書きをしていた。誰にも見せるつもりなんてなさそうな、くしゃっとした絵や、意味のない文字の列。それを偶然覗いたとき、彼は少し照れて笑った。


「変なの書いてるでしょ」


変、なんて思わなかった。むしろそれが、彼のやさしさに見えた。


それからは、なんとなく一緒に帰ることが増えた。放課後の昇降口で、並んで靴を履く時間。話さなくても、歩幅が合っていた。その沈黙が、妙に居心地よかった。


そのころの私は、自分に何か価値があるなんて思っていなかったし、誰かに好かれる資格もないと思っていた。


でも、浅井くんは、そんな私に普通に接してくれた。特別扱いも、無視も、どちらもしなかった。


「それ、今日も持ってきたんだ?」


ある日、私が机の上に置いたドライマンゴーを見て、彼がそう言った。


「うん。なんか、好きで。これだけはずっと」


「俺、まだ食べたことないかも」


ひとつ差し出すと、彼は少しだけ戸惑って、でも素直に「ありがとう」と呟いた。


手の中に、彼のぬくもりが、少しだけ残った。乾いた果実のくせに、私の指先は、しっとりと熱を持っていた。


その日から、ふたりでいる時間が、少しずつ増えていった。


「付き合おう」と言ったのは、どっちだったか、正直覚えていない。明確な言葉があったわけじゃない。気づいたら、誰かが私たちを“そう”呼んでいて、私たち自身も、それを否定しなかった。


その曖昧さが、少しだけうれしくて、少しだけ怖かった。


初めて手をつないだ日のことは、よく覚えている。まだ肌寒い夕方で、私は少し手が冷たくて、でも、浅井くんの手のひらは、思っていたよりずっとあたたかかった。


言葉もなくて、ただ手をつないで、駅前のベンチに座っていた。会話なんてなくても、それで十分だった。そのときの私は、そう思っていた。


でも、本当は、何かを感じていたのかもしれない。彼が静かに私のことを考えてくれている分、私は何も返せていなかったんじゃないかって。


浅井くんは、いつも私を見てくれていた。小さな変化にも気づいてくれて、些細な話もちゃんと聞いてくれた。


でも私は、ただ甘えていた。彼のやさしさに、安心して、何も考えずに、寄りかかっていた。


それが「好き」だと、信じていた。


彼と一緒にいると、自分がちょっとだけ“許された”気がした。何もできない私でも、大丈夫なんだって、そんなふうに思える場所だった。


でも、それは、「自分の足で立てない私」が作った幻想だった。


彼に与えられるものばかりで、私が彼に返せたものは、なんだったんだろう。


その問いは、ずっと心の奥でくすぶっていた。


そして、気づいたときには、私の気持ちはどこか遠くを見ていた。


いつからだったんだろう。


浅井くんの言葉に、返事をするのが面倒になっていったのは。


「このあいだの映画、どうだった?」


「うん、まあまあかな」


ほんとうは話したいことなんて、山ほどあったはずなのに、そのときの私は、もう、彼の声に心を動かされなくなっていた。


理由はなかった。ただ、なんとなく。“もういいかな”って、思ってしまった。


彼が変わったわけじゃない。やさしさも、笑い方も、前と同じだった。でもその“変わらなさ”が、どこか、物足りなくなっていた。


それなのに、別れを切り出したのは、彼だった。


あの日のことは、よく覚えている。帰り道、いつもの歩道橋の下。春なのに、風が冷たかった。


「なんか、最近さ。……無理してない?」


その言葉に、私は何も言えなかった。否定もしなかったし、肯定もできなかった。


沈黙が、彼の中で何かを決定づけていくのがわかった。それが、苦しかった。


「友達に戻ろう」


そう言ったのは、たしか私だった。


それは嘘じゃなかった。でも本音でもなかった。自分を守るための言葉だった。


あとで、友達から聞いた話では、彼はその日、泣いていたらしい。


それを聞いたとき、なぜか私は、ほっとした。


私の“離れていった心”は、彼を傷つけるだけの価値があったのかもしれないって、そんなふうに、思いたかった。


でも、ほんとうはただ、彼のぬくもりが、まだ私のどこかに残っていたからかもしれない。

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ドライマンゴー @kakujk

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