幕間 後
夜子が夜子という名を名乗り始めてから、百年余りが経った。
街も様変わりしていった。
当時、黒船の来航と開国、維新によって、夜子にとって馴染み深い光景は遥か過去のものとなった。
その様子に、夜子は驚嘆した。
夜子の故郷における一年は、地上の十年に相当する。
夜子の時間間隔も同様であり、同じように年を取った。
ゆえに、夜子を元にした物語で、彼女が一年余りで成人したという描写は全くのでたらめだった。
ともあれ、つい百年前まで髷を結い和装を纏っていた人々が、髪を下し、洋装に身をやつしていった。
人々の文化が変容した速度は、夜子にとっては正に瞬きの間であった。
そうした変化の速さに驚きつつも楽しんでいた、ある日のことである。
夜子は故郷の友人に会った。
友人は──地上における通名として、沙月と名乗っていた。
沙月は地上に降りてから、百年ほど経っていた。
その間は、京都にある寺で世話になっていたという。
長らく俗世から離れていたが、ふとした時に時代や国の変化を目の当たりにした。
そして、夜子のいる東京へとやってきたのだ。
沙月の姿は、故郷にいるころから変わっていなかった。
ただ、地上の装いには馴染んでいた。藤色の着物を身に着けている。
高貴な家の娘という出で立ちだった。
夜子と沙月は久方ぶりの再会に歓喜した。
二人は、故郷においても親友と呼べる間柄だった。
千年以上前、二人がまだ子供の頃だった。
夜子と沙月は故郷の変わらない世界に退屈していた。
夜子たちは生まれた後、十年に一歳ほど年を取る。
その後、成人を境に成長が止まる。彼女たちは不死では無いが、不老ではあった。
だから、周囲の大人、子供も、景色も──何もかもが不変だった。
故郷の人々は、その在り方を肯定した。
しかし、夜子と沙月はそうではなかった。
いつか故郷を抜け、地上に降りようと誓い合った。
夜子は早くに行動に移し、千年以上後に、沙月も地上へ降りたのだ。
二人は異国の地で再会することは叶わないと思っていた。
しかし、それが叶ったのだ。
彼女達は喜び、気が付けば三日三晩と語らい合った。
夜子は再会を祝し、沙月に藤の花がしつらえた髪飾りを渡した。
永い時の中での再会を──そんな願いを込めた髪飾りだった。
二人は今後の望みについて話した。
故郷にいた時、夜子も沙月も自身の夢について考えることは無かった。
強いて言えば地上に降りることが彼女達の夢であった。
故郷にいる者は皆、不変であることを尊んでいた。
即ち、自ら望み何かを叶える、あるいは何かを変えようという試みは穢れとして忌避されていたのだ。
地上の人々は違った。
何かを望み、何かを変える、何かを叶える。
そうした営みを是として、人々は歩んできた。
──自分達も夢を持とう。
夜子と沙月は、そう考えたのだ。
夜子は人助けを望んだ──即ち、地上で夜子を育てた夫婦のように生きたいと考えた。
一方の沙月は、夜子の話を聞き、家族に憧れた。
自ら夫を、子供を持ちたいと考えたのだ。
沙月の行動は早かった。
町人達と交流を持ち、友人を作った。
その中で親密になり、恋人と呼べるものも作った。
しかし、夫婦の契りを交わすには至らなかった。
沙月の望みは中々叶わなかった。
それでも、夜子と沙月にとって、東京の街で過ごす時間は幸福であった。
夜子にとって特に印象深いのは商人の男の一件であった。
当時、夜子と沙月は中野に住んでいた。様々な祭や集まりに顔を出し、人脈を作っていった。男ともその一環で知り合った。
男も中野に住んでおり、夜子と沙月の家とごく近い所に居を構えていた。
男は夜子と沙月と次第に仲良くなり、男の方が沙月を好いたのだ。沙月も憎からず思い、二人は徐々に親密になっていった。
しかし、男には一つだけ不審な点があった。
男は、決して正門から己の家に入ろうとしなかった。
どれだけ時間がかかろうと、家の裏手に回り、勝手口から家に入った。
男の家は大通りに面していた。
街のどこへ行くにしても、家の前の大通りを歩くことが効率的だった。
勝手口に回るには、坂を上がり、未舗装の砂利道を歩く必要があった。
しかし、男は頑なに正門を使おうとしなかった。
男は普段、効率と時間を何よりも大事にしていた。
それゆえに、男の矛盾した行動を、夜子と沙月は訝しんだのだ。
──ある日、男を交え、沙月と夜子が料理屋で酒席を囲んでいた。
話は大層盛り上がったが、何の前触れもなく男は席を立ち、帰っていった。
沙月は、その一件を気に病んだ。
自分が何か粗相をしたのではないか。
違う生き物だから、相容れないのか。
そんな親友の姿を見て、この事件を解決しようと夜子は決心した。
男は何かとんでもない隠し事をしているに違いない。
親友も男もお互いを想い合っているはずだが、差し障りがあってはならない。
まかり間違っても、親友が不幸になってはならない。
親友のため──夜子は『事件』の調査を始めたのだ。
明らかになったのは、男は朝早く、あるいは夜遅くの時間になると正門から帰っていることだった。
近隣に住む、男の商人仲間が教えてくれた。
──そして、調査を始めて数日経った日のことである。
夜子は、その日も男の家に張り込んでいた。
男は仕事の時間になっても外に出なかった。
勝手口からも表玄関からも男が外へ出た様子は無く、男は家の中で仕事をしている子だった。
すると、魚屋が男の家の戸を叩いた。
呼応し、男が表玄関を開け、魚屋を招き入れる。
瞬間、男は悲鳴を上げ、魚屋を突き飛ばした。
魚屋は尻餅をつき、あたりに魚が散乱した。
男は家の玄関に散らばった魚を大通りへ放り投げていた。男は鬼気迫る形相だった。
ただごとではないと思い、すぐに夜子も駆け付けた。
──後で分かったことだが、男は魚がこの世で最も嫌いだったのだ。
寿司や刺身の類も好まず、臭いを嗅ぐと吐き気を催す。
そんな、重度の魚嫌いだったのだ。
魚屋は出前を頼まれていたが、訪ねる家を誤った。
男は魚を忌み嫌い、一刻も早く家の中から痕跡を消そうとした。
商品だった魚は粗雑に大通りへ放り棄てられてしまった。
男の家は忌避し続けた魚の臭いに満ちてしまい、魚屋は商品を駄目にされ大損を被った。
誰も得をしない、不幸な結果になってしまったというのが、顛末だった。
そうして、男が勝手口から帰宅する謎も解けた。
表玄関に面した大通りには寿司屋が商いをしていた。
店は開け放たれており、漂う魚の香りは客を引き寄せ、いつも賑わっていた。
朝早く、あるいは夜遅くは寿司屋が店を閉めるため、大通りから表玄関に入ることができた。
それ以外は、魚の臭いが届かない勝手口から帰っていたのだ。
親から受け継いだ家であり、仕事の拠点でもあるため引っ越すことも難しい。
商売の都合上、男の家は何かと便が良かったのだ。
そうした事情も相まって、男が編み出した苦肉の策が、勝手口から帰宅するというものだったのだ。
料理屋の一件も同様だった。
三人の卓の隣に座った客が魚の臭いを漂わせていた。男はたまらず、沙月と夜子を置いて店を出たのだ。
──それが、事の真相であり、夜子が初めて解決した『事件』であった。
沙月は安堵した。男への疑念も晴れ、自身に落ち度がないことも確認できた。
二人は男の事情を汲み、街から離れた場所で会うようになった。
夜子は喜ばしかった。
間もなく、男と沙月は夫婦になるだろう。
親友の夢がかなう日も近い。
しかし、その日を待たずに男は亡くなった。
流行り病に罹り、男はあっけなく死んだ。
結局、沙月の夢は叶わなかった。
沙月は男の死を悼むと、東京を離れていった。
夜子はそのまま東京へ残り、関東を転々とした。
そして、また数十年の時間が経った。
沙月からの手紙が夜子の元へ届いた。沙月がどうやって夜子の居所を突き止めたかは分からない。
ただ、手紙には家族を得て、子を設けたと記してあった。
子供の名前も記されていた。夜子は、広く大らかな良い名だと思った。
夜子は沙月の夢が叶ったことを喜んだ。
子供は沙月の性質を色濃く受け継ぐだろう。夜子は、月人と地上人の混血の事例を知っていた。混血の子供は、異星人の性質を強く受け継ぐのだ。
夜子は親友と、その家族に会いたいという気持ちが強く沸いた。
親友は今どうしているのだろう。
どんな人と契りを交わしたのだろう。
一体、どんな子供を育てているのだろう。
同時に、夢を叶えた沙月と再会し、また語らいたいと願った。
それが、夜子の新たな夢となった。
沙月の持っていた、藤の髪飾りを思い出す。
──そして、その再会が永遠に叶わないことを、夜子は数十年の後に知ることになる。
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