二幕 難題に臨む

 警察署での聴取を終えた圭司は精も魂も尽き果てていた。

 満身創痍の体を引きずり、横浜行きの電車へ乗り込む。

 座席に座り、疲れが押し寄せる中でこれまでのことを整理する。

 ──六原十和子がバラバラ死体となって発見された。

 彼女の死体は、竹の籠に詰め込まれていた。

 最初、圭司自身も犯人として疑われていた。

 彼女の生前、最後に接触した外部の人間だからだ。

 ただ、実行犯としての疑いはすぐに晴れた。十和子が死亡したと思しき時間に、圭司にはアリバイがあったからだ。

 そのため、今の圭司にとっての懸案は、自身への疑いでは無い。

 問題は、葵のことだった。

 取り調べの中で、十和子が生前親しかった人物として葵の名前が挙がっていた。

 彼女の行方を、圭司は何度も問われたのだ。

 葵が十和子殺害に関与しているのではないか。もっと言えば、葵が十和子を殺害したのではないか。警察はそれを疑っているのだ。

 その事実を否定したい。

 しかし、彼自身が葵の潔白を証明することはできない。

 今どこで何をしているのか。それすら知らないのだ。

 警察の捜査方針を覆すだけの何かを提示することができない。

 自分にはどうすることもできない。

 そんな無力さを、圭司は痛感していた。

 ──夜子さんのところへ行こう。

 夜子はバラバラ事件の捜査にも関与していたはずだ。

 葵の件も依頼している。

 警察へのパイプもあったはずだ。彼女ならどうにかしてくれるかもしれない。そんな藁にも縋る思いだった。

 ただ、葵を探していただけだった。

 それが、今やこんな事件に巻き込まれている。

 夜子の元へ急ぐ。

 足取りは自然と早くなっている。

 横浜駅を降り、鶴屋町の方へ急ぐ。一度しか訪れたことはなかったが、体が事務所の場所を覚えていた。

 明野探偵事務所。その扉を開けると、夜子と康介が圭司を出迎えた。

「や、随分顔色が悪いね。大丈夫?」

「夜子さん」

「バラバラ事件のことについて話をしにきたんでしょう? 葵さんが疑われているからね」

 夜子が、圭司の言葉を遮る。この探偵にはお見通しというわけだ。

「随分混乱しているね。衣笠葵を探していたら、彼女の関係者が殺された。そして、今や探しているはずの恋人が殺人者として疑われている」

 その通りだ。

「一つ私が確認したいのは、君はまだ、本気で衣笠葵を見つけたいと思っているのかってこと。事態がこうなった以上、一度関わったらもう戻れない。犯人の目的も分からないまま、君自身にも危害が及ぶかもしれない。今なら無関係のままでいることだって出来る」

「それは……」

 自分とは無関係かもしれない殺人事件に関わっていく。

 その覚悟はあるのか、と夜子は問うている。

 十和子が殺された。

 しかし、圭司自身は十和子を殺していない。これは自明のことだ。

 少なくとも、十和子殺害は、圭司個人にとって無関係な事件なのだ。

 葵の捜索は変わらずに続ければ良い。

 犯人が誰であれ、圭司がやることは変わらない。

 事件を無視して、圭司は圭司で、葵を探せば良いのだ。

 しかし、もし仮に、葵が十和子を殺害していたならば。

 自分が事件と無関係を貫いたとして──本当に葵が十和子を殺していたのだとしたら。

 自分は何も知らないまま、葵が殺人犯として検挙されて、事件が終わったとしたら。

 後悔に苛まれることは間違いない。

 何も知らないまま事態が終わったことを嘆き、過去を振り返り、あの時何もしなかった自分を恨むに違いない。

 どんな結末であれ、選んだ先で必ず悔いは残る。

 一市民としては、警察に捜査を任せるべきなのだろう。

 しかし、それでも、今、後悔しない決断を下さなければならない。

 そうでなければ、葵の真実を知ることは出来ない予感がした。

 ──傍観者でいることは、できない。

「夜子さん、教えてください。事件の話を聞かせてください」

 圭司は夜子を真っすぐ見つめて、そう言った。

 十和子の事件を追う。

 犯人が葵ではないというのなら、それで構わない。

 もし、葵が犯人だとしたならば。

 ──私が人を殺したら、どうする?

 圭司は葵の言葉を思い出す。

 最悪の事態だったとしても、何故そうなったのかを知らなければならない。

 その後は──。

「良いね。難題に臨む覚悟はバッチリってわけだ」

 夜子がにやりと笑いながら、圭司を見つめる。

「じゃあ、始めようか」

 まず、と夜子が続ける。

「遺体の発見は十一月八日の午前九時ごろ。横浜市内の公園で、遺棄されているのが発見された。発見者は近所に住む男性」

 夜子はそこで言葉を区切り、

「十和子さんは十一月六日の午前中に死亡したとみられる」と続ける。

「発見時の死体はバラバラにされていた。死亡後に解体されたと考えられる」

「詳しいですね」

 圭司は率直な感想を述べた。

「私のことをとっても好きな人がいてね。その人から教えてもらったんだ」

 そう言いながら、夜子は康介の方を見る。

 康介は咳払いしながら、

「夜子さんへの情報提供は上層部公認のものです。夜子さんの洞察力、推理力は県警も認めています。何度も助けられていますから」

「仁君、あんなに若かったのに、偉くなったよね」と夜子が懐かしそうに目を細める。

「というか、無理に初城さんに協力して貰わなくても、夜子さんが仁さんに詳細を聞けば良いでしょう」

「多分無理じゃないかな。仁君、捜査は依頼するし必要な権限も寄こすけど、肝心なことは教えてくれないからね。もし、先に葵さんが犯人として捕まっちゃったら、どれだけ話が聞けるか分かったものじゃないよ」

「……言い分は分かりました。話を戻しましょう」

 康介はそう言うと、夜子は手帳を取り出しながら続ける。

「十和子さんの死体発見は十一月八日の午前九時ごろ。その二日前──十一月六日は既に死んでいたと考えられる。初城さんが十和子さんと会ったのは十一月五日。つまり、圭司さんと十和子さんが会った翌日には十和子さんは殺されていたということになる。十和子さんはナイフの様なもので刺殺された後に死体が解体されたんじゃないかと考えています」

「殺された後に解体されたんだよね」

「ええ。ナイフで胸元を刺されたような傷があった様です」

 なるほど、と夜子が相槌を打つ。

「六原家の皆さんは何と言っているんですか? 十和子さんが殺された時、何をしていたんですか?」

 圭司は二人へ疑問をぶつける。

「これから説明するけど、彼らにはアリバイがある」

 夜子はそう言った。 

「それぞれの話に入る前に、登場人物を先に整理しておこうか」

 夜子は立ち上がると、事務所の奥からホワイトボードを持ってくる。水性ペンを取り出すと、大学の講師の様に圭司と康介を見渡す。

「まず、六原十和子。彼女は六原家の一人娘で、今回の事件の被害者でもあるね。それと、六原三代子。彼女は十和子さんの母親。そして、六原信一郎。ご存じの通り、十和子さんの父親であり、六原家の現当主でもある」

 圭司は、信一郎の虚ろな眼を思い出す。

「そして、次に三坂家の皆さん」

「三坂……使用人のですか?」

「そうです。六原家に代々仕えている使用人の一家。今は住み込みでのハウスキーパー的な仕事が大半ですが、三坂家のご当主は六原家の事業を手伝っていたりしてますね」

 圭司の疑問には、康介が答えた。

「家族構成は現当主の三坂直幸、その妻の三坂幸子、一人息子の三坂幸弘の三人だね。今でこそ山手の六原家に住んでいるけど、実家は小田原にあるらしいよ」

 六原家の関係者は六人いることになる。

 まず、六原家の三人。

 次に使用人一家である三坂家の三人。

 このうち、六原家の一人娘である、六原十和子が殺されている。

 六原家と三坂家の人間は両方とも完璧なアリバイがあった、と康介は言う。

「時系列で整理しようか。まず、生きている六原十和子が最後に目撃されたのは十一月六日の午前七時ごろ。三坂家の人たちと朝食を摂っている」

 問題はそこから、と夜子が言う。

「まず六原信一郎。彼は朝七時半には屋敷を出ている。三坂直幸に送られて、八時半には品川に到着しているね。九時は取引先と商談を始めている。これは警察も裏を取っているね。その後、目黒にある六原家が経営している会社に戻り、午後四時半ごろまで仕事をしていたそうだ。午後五時半には帰宅した──この時点で十和子さんは屋敷にはおらず、不思議に思ったが、その日は特に何もしなかったそうだね。何か用事でもあったのだろうと。家族で夕食を摂り、午後十一時には就寝している」

 夜子はホワイトボードに信一郎の行動を書き記していく。

「他の人も似た様なものだよ」と言いながら「信一郎の妻の六原三代子氏。彼女は朝食を終えた後、午前九時に家を出ている。みなとみらいで友人と合流し、買い物を終え、ランチ。とまあ、主婦の一日を満喫していたわけだね」

 六原三代子。

 彼女はどんな人なのだろうかと圭司は想像する。

 そこへ、康介が三代子の写真を圭司へ渡した。

 上品な人だ、というのが圭司の第一印象だ。

 実業家で名家の妻。葵の件がなければ、彼女の顔を見ることはおろか、名前を知ることすらなかっただろうと圭司は思った。

「午後は横浜美術館で美術鑑賞。その後、友人とカフェに行き、午後四時半ごろには解散している。常に友人と行動していたし、一人になる時間もトイレの離席くらい。その間に十和子さんを殺すことは不可能だろうと警察も判断しているね」

 六原夫妻が十和子を誘拐した、というシナリオは難しいということだ。

「三坂家の三人は、この日は基本的に一緒に行動しているね」

 夜子はそう言うと、三坂直幸、三坂幸子、三坂幸弘の名前をホワイトボードに書いた。

「彼らは午前五時には起床し、各々家の仕事をこなした後、午前六時から午前七時の間に朝食を摂っている。その後、三坂直幸は品川へ、六原信一郎を送っている」

「残る二人は、三坂家の人ですか?」

「そう。三坂幸子と三坂幸弘の二人は、三坂家の実家がある小田原へ向かっている。朝食を終え、午前九時ごろに二人は屋敷を出発しているそうだよ」

「なぜ、小田原まで?」と、圭司が尋ねる。

「法事だってさ。正午には三人が小田原に集まって法事。午後四時半ごろには小田原から横浜への帰路へ着いている。現地での親戚の証言もあるから、彼らの行動に間違いはない」

 六原家とその関係者は十和子が殺害されたと思しき時間にはアリバイがあったというのだ。

「十一日の午前中には、十和子さんが死亡していたとすると、朝食の後すぐに殺されたということですか?」

「そうなるね」

 三坂幸子と三坂幸弘が怪しいと、圭司は直感した。

 二人は午前中の大半を移動に費やしており、お互いが口裏合わせをしてしまえば、アリバイ工作は造作もないはずだ。

「三坂幸子と三坂幸弘が怪しいって顔しているね?」

 夜子は圭司を見ながらそう言った。

 夜子の見透かしたような眼差しに、圭司は恥ずかしい気持ちになる。

「でも、二人にもアリバイがあった。二人は電車で移動したそうだよ。電子決済の記録が確認されてね。彼らが午前中は移動していたことは間違いなく確認が取れている。二人は横浜駅から小田原行の電車へ乗ったらしくてね。グリーン車を使ったらしいんだけど、駅員は二人が座席にいたことを目撃している」

 圭司の疑念は砕かれた。

 六原家と三坂家の人間は、十和子を殺害することは不可能だった。

「関係者のアリバイはハッキリしてる。だから、警察が今考えているシナリオは、関係ない第三者の犯行というもの。つまり、十和子さんは朝食の後に外出し、運悪く、通りすがりの殺人者に殺されてしまったというシナリオだね」

 加えて、と夜子が付け加える。

「家族が出払ってから帰るまでの間に、六原家の屋敷の正門は一回しか開閉されていない」

 圭司には夜子の言っている意味が理解できなかった。

「どういうことですか?」

「六原家の正門は開閉の履歴が記録されているんだ。事件当日、十和子さんが殺されたと思しき時間に正門が開閉された記録は一回だけ」

「六原家の人々は屋敷に戻ってはいないです。なので、十和子さんが出入りしたものだと考えています」

 屋敷の開閉記録は、十和子が外出していたことを示すものだった。

「六原家の関係者に犯行が難しい以上、六原家外部の人間が殺したのだと考える方が妥当です」

「康介君の言うことを補足すると、外部犯として候補に挙がっているのは──まず、衣笠葵。彼女は六原十和子と親しかったと聞く。今は行方をくらましているけれど、逆に言えば誰も彼女の犯行を否定できない」

 夜子はそう言った。

 改めて言葉にされると、重いものがあった。圭司は、恋人が人殺しかもしれないという事実を受け止めきれないでいる。

「そして、もう一人。最も疑いが強いのは、関東地方連続バラバラ殺人事件の犯人だね」

 ニュースやSNSを騒がせた連続殺人事件だ。

 一九八十年代のことである。埼玉県秩父市を皮切りに、神奈川県川崎市、東京都多摩市と相次いでバラバラ遺体が発見された。

 発見された遺体は全て、死後解体され遺棄されていた。

 バラバラ以外に特徴的な点が一つあった。

 その死体を竹製の籠の中に詰め込まれていた。

 こうした、犯人の猟奇的な行動は、センセーショナルに報道された。

 一時期、テレビや新聞のメディアは、来る日も来る日もこの事件を取り扱っていたことを覚えている。

 そこまで大きく取り扱われていながら、事件の犯人はまだ見つかっていない。

 まず、遺体の発見現場に犯人を示す有力な手掛かりが残っていなかった。目撃者もおらず、遺体から犯人を示す情報も見つかっていない。

 被害者にも共通点らしきものは無かった。性別、年代、職業、趣味など、そのどれもが異なっている。

 被害者の概要は次の通りだ。

 去年、秩父で発見されたのは、本山啓介である。彼は三十代の経営者である。都内の有名大学を卒業後コンサルに努めた後、二十代後半で六原家の会社を任された。

 三年前に川崎市で発見されたのは、森下博美。彼女は三十代の新聞記者である。経済関連に強みを持つ、大手新聞社に勤めていた。

 そして、三十年前、多摩市では、金井哲雄が遺体となって発見された。彼は当時、四十代のフリーターで、運送系の仕事に従事していた。

 このように、事件発生の年代にも一貫性が無かったのである。

 被害者の遺体が関東近郊で発見されたこと、その死体がバラバラにされていたこと。

 それ以外に目立った共通項を見出すことは出来なかった。被害者の社会階層も属性も何もかもが異なっている。

 そうした理由から、通り魔的な快楽殺人的な動機だと言うものがいた。最初の事件に似せた、模倣犯の仕業だと言う声も挙がっていたが、確かなことは分かっていない。

 今明確なのは、十和子の遺体も同様に、バラバラにされ、死体が竹の籠に詰め込まれていたということだ。

「そもそもなんですが、そこまで時間が経って、真相が分かっていないものなんですか?」

「捜査に横やりが入ってね。体制変更やら何やらで、いずれも、ほぼ打ち切りに等しい状況になっているんだ」

「何でそんなことに?」

「最近、仁君から聞いた話なんだけどね、ある代議士から圧力があったらしい。それで、捜査を思うように進めることが出来ていないらしいの。何年もそんな状況なんだってさ」

「でも、最近になって──ここ、特に半年くらいですかね。横やりが減って来たそうです」

「だから、仁君は私に捜査の依頼をしているってわけ。弱まったとはいえ、代議士の影響力はまだあるから動員人数は限られている。けれど、仁君は、今度こそ事件を解決させたいと思って、なりふり構わず私に依頼をしてきたの。私なら比較的自由に動けるしね」

「一時期は、一挙一動を監視されていたらしいですよ、仁さん。最近はマシになったそうですが」

「でも、なぜそんな妨害工作を?」

「それは現時点では分からない。ただ、事件が明るみになると、不都合がある人もいたんだろう」

 康介はそう言った。

「ちなみに、分からないなりに、分かっていることはあるんだよ」

「どんなことですか?」

「被害者は、皆、六原家に関係している」

 夜子はそう答える。

「まずは、本山啓介。六原系列の会社──確か、データセンター関連の事業をやっていたはずだけど、その社長だね」

 夜子の話は続く。

「森下博美は経済ジャーリストとして、六原家のインタビュー記事を執筆したことがある。当然その過程で取材も行っていて、六原家の人間と関りを持っていたはずだ。金井哲雄に関しては、彼が六原信一郎と同門だった。その意味で、この三人は六原家と何かしらの関係を持っていた」

 そこに、六原十和子の名前が続く。

「怨恨の線とか……六原家に恨みがあって、その関係者を殺した、とか」

 六原家自体は方々から恨みを買っている。

 彼らに殺意を抱く人間がいても、おかしくはないはずだ。

「六原家へ恨みなら関係者や血縁者を直接殺せば良いでしょ? 十和子さんと啓介さんはまだ分かる。けれど、博美さんと哲雄さんを殺す理由が無いじゃない?」 

 夜子は両手を上げる。お手上げ、というジェスチャーをしている。

「ま、その辺りも含めて、改めて捜査するんだよ」

「……話を戻しましょうか。まずは、十和子さんの事件について、改めて検討しましょう」

 康介はそう言った。

「通り魔的な犯行だった場合、朝食後、六原家の人間全員が出払った後、何者かが十和子さんを誘拐し殺したということになりますか?」

「初城さんの言う通り、一番あり得るのはその線です」

 そのシナリオが事実なら、ひどく不運な話だと思う。

 同時に、違和感を抱く。圭司は眉間に皺を寄せる。夜子はそれを見逃さなかった。

「でも、おかしいところならいくらでもあるよ。まず一つ、女性とはいえ、大人一人を誘拐するのは難儀な仕事だ。抵抗だってするだろう。だから、スムーズに事を運ぶなら二人以上が合理的だろうが……。しかし、事件当日、六原家周辺で何かを聞いた、目撃したという証言が一つも出ていない」

 それは、つまり──。

「十和子さんが屋敷を出る。街へ出たところで、見ず知らずの人間が十和子さんを誘拐しようとしたとする。当然、十和子さんは抵抗するだろうね。大声も出すだろう。誘拐に使うような車もあるだろうね。──でも、そうした不審者や不審な車を目撃したという情報、あるいは女性の大声を聞いたという情報は出ていない。道路に、それに、争ったような跡も無かった」

 圭司は山手の町並みを思い出す。

 車通りはなく、街中で人とすれ違うことも無かった。

 直接の目撃情報は無いのだろう。

「仮に知らない人だったとしても、手際よく、十和子さんが声を発する間もなく拉致したという可能性はないですか? 一気に、車に押し込めるとかして……」

「あの場所は静かですが、それゆえに車が通る音や話し声は目立ちます。ただ、そうした音は、事件が起きた時間には聞こえなかったそうです」

「それなら、防犯カメラとかはありますよね。それで誰が拉致したかは分かるんじゃ……」

「あの地域には無いんだよ」

「六原家への嫌がらせ、初城さんも見たでしょう。あれは、山手の周辺住民の仕業なんですよ。六原家への嫌がらせが誰の仕業か分かってしまう。それは避けたい。だから、プライバシーを理由にして防犯カメラの設置に反対しているんです。あの辺りは元々治安も良いですからね。結果として、あの地域──少なくとも六原家の周囲には、防犯カメラは無いんです」

 六原家を離れ、山手駅近くの防犯カメラには、十和子や、怪しい車の姿などは写っていなかったという。

 そして、山手駅の方でも、十和子の目撃情報は無かった。

「それなら、やっぱり屋敷の中で殺されたんじゃ……」

「初城さん、残念ですが、その線も考え難いです。六原内部の人間に犯行が出来なかったことを考えると、外部犯が六原家の屋敷に侵入したことが考えられます。強盗等ですね。しかしながら、これは難しいです。当然ながら、屋敷に入るには、屋敷の鍵か、屋敷の内部から開けてもらうという必要があるからです」

 康介は一度言葉を区切る。

「まず鍵は屋敷の人間しか持っていません。スペアが屋敷内にありますが厳重に管理されていて、外に持ち出されたことはないと聞いています」

「正門で出入りした記録はあるんですよね」

「一度だけです。犯人が十和子さんを殺害し外に出るためには、最低でも二回の開閉が必要になります。屋敷に入った時、そして屋敷を出る時ですね」

「外から侵入したとかは考えられませんか」

「あの屋敷は、他の一軒家とは違って屋敷の扉を無理矢理に壊して侵入したということもあり得ない。そうした痕跡は無いし、奥庭から入ってきたような様子も無かった。そもそも、それが出来るような場所に屋敷は無いからね」

 六原の屋敷は山手の高台に建っていて、正門以外の道は整備されていない。

 正門以外から屋敷に入ることは難しい位置に建っている、と圭司は思った。

「それなら、屋敷の人の鍵を使ったとか……」

「屋敷の鍵は誰も紛失していない。彼らは一人一つずつ屋敷の鍵持っていて、それを厳重に管理しているそうだよ。だけど、十和子さんの物も含めて一本も紛失していないってさ。しっかり、屋敷の中に、鍵は全部保管されていた」

 犯人が強盗や通り魔では無いとしたならば──。

「十和子さんが犯人と約束があり、殺されたという可能性が残ります」

 外部から屋敷への侵入は不可能。

 つまり、外部の人間が屋敷に入り込み、屋敷の中で十和子を殺したことも不可能だ。

 屋敷の外で誘拐された、あるいは争ったような形跡もない。それは、無理矢理、誘拐や殺害が成されたわけではないということを示す。

 十和子が外に出て同行する際、何の警戒もしない人間が犯人ということになる。

 この条件を満たす犯人像は──十和子の家族ではないとしたら──彼女の友人以外にはあり得ない。

 だからこそ、葵の名前が捜査線上に登場しているのだ。

 十和子が心の底から友人と呼べる人間は、葵しかいない。

 もしそうではないのならば、神隠しにあったように、誰にも見られることなく、忽然と姿を消したことになってしまう。

 そこまで考え、圭司はふと、屋敷のことを思い出した。

「町にカメラが無くても、屋敷の防犯カメラの映像が残っているのではないですか?」

 圭司は、六原の屋敷は強固なセキュリティが施されていたことを思い出す。

 正門と屋敷の電子施錠の仕組みがその筆頭だ。先に話したように、正門の出入りが記録されている。

 加えて、正門にはカメラがある。映像が残っていると考えた方が自然だろう、と圭司は思った。

 圭司の言葉を聞き、康介と夜子は視線を合わせる。

 すぐに圭司の方へ顔を向け、二人は首を振った。

「残念ながら、カメラの映像等は残っていませんでした」

 丁度、故障していたそうです、と康介は言った。

 これ以上のない証拠が望めると考えたが、残っていなかった。

 もしかしたら葵が殺していないことを証明できるかもしれないと。

 そうした圭司の思惑は外れ、内心落胆していた。

「仮に、仮に……葵が十和子さんを殺していた場合、バラバラ事件の他の被害者も、葵が殺していたことになるんですか?」

「それは分からないです」と康介が言う。

「ただ、少なくとも金井哲雄は殺していないでしょう」

 三十年前、まだ葵は生まれてすらいない。

 年代だけを見た場合、森下博美と本山啓介殺害については、可能性としてはあり得る。

 その場合、金井哲雄の事件だけが別の事件になるのだろう。

 ただし、なぜ、犯人は死体をバラバラにしたのかという疑問は依然として残る。

 動機についても分からない。

 葵の交友関係を思い出す。

 彼女が被害者と知り合いだったというのだろうか。

 圭司の思考を断ち切るように、夜子が話し始める。

「ここまでが、起きたことの整理。ここからは、どのような動きをすべきかを考えなきゃいけない」

 夜子は更に続ける。

「当座の間、明らかにすべきは、バラバラ事件の犯人だね」と夜子が言った。

「葵さんの行方は良いんですか?」

「圭司君の立場だと、葵さんを見つけることが一番手っ取り早い。彼女を見つけて話を聞けば、今回の事件に関係しているか、あるいはしてないのか一発で分かるからね。ただ、彼女の足取りを直接追うっていうのは難しい。何せ、手がかりがないからね」

 私も康介君もそっちは手詰まりになりつつあってね、と夜子が続けた。

 確かに、葵の手がかりは何もない。

 地道に話を聞き続けなければならない以上、時間はかかる。

「だから、バラバラ事件の犯人を追う。直近で事件があった以上、犯人についての何かしらの手がかりが見つかる可能性が高い。それに、犯人が葵さんではないことが分かれば、それはそれで万々歳だ。その後ゆっくりと、葵さんを探せば良い。もし犯人が葵さんだったとしたら──なぜこんなことをしたのか、真実を質せば良い。それも、圭司君にとっては望むところでしょう?」

 夜子は圭司に眼を向ける。

 圭司はゆっくりと頷く。

 結末がどうあれ、状況に置き去りにされることだけは絶対に避けたかった。

「今回の、十和子さんを殺害した犯人は警察も追っている。けれど、依頼人である圭司君の意向を踏まえたら指を咥えて捜査の進展を待っているわけにもいかない。もし葵さんが犯人だったとしたら、私たちは皆蚊帳の外になってしまうからね」

「そこは夜子さんのコネで何とか出来ないんですか?」と康介が問う。

「保証はできないってさっき言ったでしょ。だから──」

 競争だね、と夜子は言った。

「良いね?」

 夜子は康介に目配せする。

「バラバラ事件については、仁君にも手伝いを頼まれていたし、一石二鳥でしょ?」

「被害者の共通点を明らかにして、犯人の手がかりを見つけるところまででお願いしますよ……。犯人逮捕は警察の仕事ですから」

「警察も手間が省けて良かったね?」

 康介はため息を吐きながら、

「夜子さん──くれぐれも変な騒ぎは起こさないでくださいよ」と言った。

 康介は何を言っても夜子は止まらないと考えたのだろう。

「もちろん」

 夜子はそう言った。

 更に、圭司の方を向き「今から六原家の屋敷へ行こう」と言った。

 圭司の返答は、既に決まっていた。



 *



「それじゃあ、準備してね」

 夜子はそう言いながら立ち上がる。

 話すべきことは話したと、夜子の行動は早い。

「私はここでお別れです」

 そう言うと康介は先に事務所を出た。

 随分と大事になった、と圭司はどこか他人事に振り返る。

 葵が失踪し、その捜索を夜子に依頼した。

 並行して、葵を知る人物──十和子にコンタクトを取ろうとした。

 その矢先に十和子自身が殺害された。

 葵は、十和子殺害の容疑者として名前が挙がっている。

 しかし、圭司のやることは変わらない。自身の手で葵を見つける。その決意は一層固くなる。

 仮に葵が殺していたとしたならば──。

 何があったのか、何を考え何故こんなことをしたのかを、葵自身の口から聞かなければならない。

 ──そのために、事件を追うのだ。

「なぜ六原家に行くんですか?」

「事件を追うなら、当事者である六原家へ訪ねる方が効率は良いと思ってね」

 夜子はそう言った。

 自分が一緒なら差し障りがあるだろうと圭司は思った。

 六原家に行ったところで、自分には何が出来るのかと。

「行ってみなきゃ分からないよ」

 そう言いながら、夜子は事務所を出る。

 圭司の方を向きながら、早くしろと言わんばかりに手招きをする。動作に合わせて、彼女が纏う、真紅の羽織が揺れる。

 二人は、事務所を出て横浜駅へ向かった。

 JRの改札を抜け、山手行きの電車に乗った。

 座席に着いた所で、夜子はA3サイズの紙を圭司へ渡した。

「康介君に共有してもらったんだ」

 六原家の屋敷の図面だった。こんなものを自分に渡して良いのかと圭司は言う。

「君は依頼人ではあるけど、同時に、もう私の助手なんだから、大丈夫」

 夜子はそう答えた。

 夜子には半ば呆れながら、圭司は図面に目を落とす。

 道路に面する形で石段があり、それを登った先に正門がある。固く閉ざされた門は記憶に新しい。その門を開けると、細い道が続いていく。両脇に竹林があり、道の先に屋敷があった。

 道路から正門に入った先、屋敷の向こうには、奥庭が広がっている。

 六原家の敷地の中央を分かつような形で屋敷が建っているのだ。

 奥庭の中央には小さな池があり、それを横断する形で橋が架かっていた。橋の先には小さな丸い建物がある。

 それ以外にも、屋敷側に建物が一つあるようだった。

 奥庭は竹林で囲まれているという記載もある。

「こうなっていたのか……」

 圭司は数日前の記憶を思い出す。

 屋敷の玄関の向こう側。

 あの、竹細工の扉の向こうには、大きな庭が広がっていたのだ。

「中々面白い屋敷じゃない?」

 面白いと言われれば、そうかもしれないなと圭司は思う。

 圭司には面白い、といよりも不自然という印象が先に来た。

「屋敷、というか、生活空間が随分と狭いですね」

「分かった?」

 六原家は莫大な資産を持っているはずだ。山手という街にあれほどの広い土地や立派な屋敷を持っているのがその証拠である。

 しかし。

 敷地全体に対して人が住む空間が小さい、と圭司は感じた。

 家屋をもっと豪華に、もっと大きくするはずだ。

 六原の家は、家屋の面積は、敷地全体の三分の一ほどだった。残りを、前庭と奥庭が占めている。

 何より異様なのは、奥庭にある丸い建物だった。

「これは一体……」

「分からない。けれど、奥庭に何かがあるのは間違いないね」

 そんな話をしているうちに、夜子と圭司は山手駅へ着いた。

 夜子は、こっちだよと言いながら圭司を先導する。

 圭司としては二度目の道行だった。

 十五分ほど歩き、六原の屋敷が見えてくる。

 屋敷には、以前とは異なる景色が広がっていた。

 六原家の正門の前に人だかりができている。

 屋敷に続く石段の途中。そこに四、五人の男が集まっている。

 少し離れて女性も一人いた。

 彼らは若い男を囲んでいる。

 若い男は六原の関係者に見えた。

 圭司に見覚えが無かった。六原信一郎でも、三坂直幸でもない。

「行ってみようか」

 夜子と圭司は石段のすぐ下で様子を伺うことにした。

 声が聞こえる程度の距離である。

 石段にいる人々は、夜子と圭司には気づいていない。

「ですから、お引き取りください」

「六原信一郎を出せ!」

「ですから」

「良いから、出せ!」

 人だかりの中で声を荒げているのは二人だ。六原家の青年も臆した様子は無い。

 青年は──三坂幸弘だろうか。

 六原家の男性は信一郎と直幸、そしてもう一人が三坂幸弘のはずだ。

「お前と話したいわけじゃない」

「良いから、六原信一郎を出せ。話がある」

「旦那様には話すことはございません。お引き取りください」

 幸弘は声のトーンを落として、男達を睨む。しかし、今一つ効果は無さそうだった。

 男達のボルテージは上がっていく。

「嫌われていますね」

「まあ……色々やってそうだよね。大っぴらにアウトなことはやっていないんだろうけど。グレーなことはいくらでも、って感じだ」

 六原家は古くから官僚や政治家と付き合いがある家だ、と夜子は話す。

 そうした繋がりが、六原家を成長させた要因の一つである。公的な後ろ盾を背景に、清濁問わず、様々な手段を採ってきたのだろう。

 その過程で割を食うものも多かったはずだ。

 今、石段の上で声を荒げている彼らも、そうした人間に違いない。

 男達は幸弘に掴みかかりかねない勢いだ。いつ乱闘が始まってもおかしくない。

 圭司はいつでも止めにいけるように男たちを注視する。

「まずい」

 夜子が言う。

 男は幸弘のシャツを掴んでいた。

 圭司は駆け上がろうとする。

 同時に、正門の開く音がした。

 誰かが、石段を下りてくる。

「幸弘、何をしている」

 六原信一郎が──現れた。

 こけた頬。白髪交じりの髪に、隈の濃い両目。以前会った時よりも、やつれ、疲れ切った様子だった。

 その中で、彼の眼光は衰えず、は真っすぐに男たちを見下ろしている。

 何も信じない。

 誰の言葉も聞き入れない。

 彼の視線は、冷たく、鋭く、男たちを刺している。

「六原……信一郎……!」

「お引き取り願いましょう。既に警察にも連絡を入れてある」

 男が石段を上がるより早く、信一郎は言葉を返した。

 信一郎の言葉を聞き、男たちは固まる。

 男達は何か言いたげに信一郎を睨みつけていた。

「聞こえませんでしたか? お引き取りを」

 男達は渋々といった様子で石段を下りていった。

「すごい。さすが、ただ者じゃないね」

 信一郎の言葉には重さがあった。

 貫禄やカリスマと言い換えて良いのかもしれない。

 圭司と夜子の脇を通り、男たちが帰っていく。

 石段に残されたのは、幸弘と信一郎、そして圭司と夜子の四人だ。

 信一郎は夜子と圭司に気づき、声をかける。

「そちらの方は、まだ何か御用が?」

 冷たい視線が向けられる。

 圭司は言葉に詰まるが、夜子は臆した様子は無かった。

「初めまして、六原信一郎さん。私は明野夜子と申します。探偵を生業としています」

 接した時間は短いが、圭司は夜子の人となりを何となく知っているつもりだった。

 信一郎と相対する彼女は、今まで、圭司が見たことの無い顔を見せている。

 夜子の言葉は重く、その場にいる誰に対しても聞かせる力を持つ。

 それは信一郎のような重く冷たいものではない。

 溶けるような柔らかさを持ちながら、それでいて芯と気品を持っている。

 夜子は真っすぐに信一郎を見つめている。

 風が吹き、夜子の髪と真紅の羽織が揺れる。

 黒と赤が相対している。

「探偵が、どんな御用で?」

「六原十和子さんの事件について、少しお尋ねしたいことがありまして」

「語ることはありませんよ。全て警察に話しています。大体、あなたは無関係でしょう。探偵なぞに、話すことはありません」

「警察の許可は貰っていますよ。ねえ、信一郎さん。是非、お屋敷の中を見せてくださいませんか。十和子さんを殺害した犯人を捜す手助けになると思います」

「いきなり無礼ですね。あなたに見せるものは何もありませんよ。それに捜査なら警察がやっているでしょう」

「その警察の捜査を更に進展させられると言っているんですよ。未だ犯人の手がかりは見つかっていない。信一郎さん──あなたも、さぞ無念でしょう」

「信用できないな。あなたの言っていることは聞くに値しない。馬鹿馬鹿しい」

 信一郎は踵を返す。傍らにいる幸弘に声をかけ、屋敷へ戻ろうとする。

 正門が開いた。

 夜子は石段を上がる。

 靴音が、やけによく聞こえる。

「信一郎さん」

「まだ何か」

「あなたは──この屋敷に、何を隠しているのですか?」

 夜子の言葉を聞き、信一郎の眼が見開く。

 信一郎の足が止まる。

 動揺しているのか。

 夜子は隠した、と言った。

 信一郎は、六原家は、何を隠しているというのだ。

 あの竹の中に。

「幸弘、帰るぞ」

 信一郎と幸弘はそのまま石段を登り切り、屋敷へと戻っていく。

 正門が閉じ、夜子と圭司だけが取り残された。

「振られちゃったね」と言いながら夜子は石段を下りてきた。

 先ほどまでの気品に満ちた雰囲気とは異なり、普段の夜子と変わらない様子だった。

「夜子さん、すごいですね」

「ああ、結構偉い人と会話する機会も多くてね。自然と身に付いちゃったの。年の功ってやつかな。圭司君も覚えておくと良いよ。ああいう時は舐められたら何も話を聞いて貰えなくなっちゃうから」

「はあ」

 圭司は相槌を打つ。しかし、とても真似できるとは思えなかった。

「コツは真っすぐに相手を見て、眼をそらさないこと。後、ハッキリゆっくりと喋ることかな」

 異星人に、人間社会の世渡りをレクチャーされることについて、圭司は違和感を禁じえなかった。

「あの、それよりも、隠しているって言いましたよね」

「まさかと思ってカマかけてみたんだけど、あの様子だと、当たりかもね」

「意味が分からないですよ。一体、どういうことなんですか」

「この屋敷──正門もだけど、多分何かを守るために建てられたんじゃないかな」

 圭司は屋敷の図面を取り出す。

「屋敷は、奥庭への道を阻む、まるで関所に建てられている。折角莫大な土地があるのに、人の生活空間を削ってまで、こんな作りをするなんて考え難い。だから、奥庭か、竹林にある何かを守るためにこの屋敷を建てたんじゃないかなと思ってね」

 圭司も図面に違和感は持っていた。しかし、そんな結論に至ることは出来なかった。自分の力不足に歯がゆい思いをする。

 探偵の基礎だぞ、と夜子は言った。

「……その、何を隠しているって言うんですか?」

「それは分からないよ」

 夜子は首を振る。

「その、隠しているものが、今回の事件と何か関係あるんですか?」

「うーん、そこもまだ分からないな」

 でも、と夜子が言う。

「何かを隠すとしたら、六原家を揺るがすほどのスキャンダルじゃないかな」

「スキャンダル、ですか」

「そう。それこそ──」

 ──人殺しとかね。

 夜子の声に抑揚は無かった。

 圭司は石段を見上げた。

 竹林の正門は、夜子と圭司の前に立ちはだかるように建っていた。

 

 

 *

 

 

 信一郎との邂逅の後、圭司と夜子は六原邸を後にした。

 屋敷を離れ、五分ほど歩いた所で夜子が振り返る。

「ところで君は、どなたかな?」

 夜子の視線の先には女性が立っていた。

 六原の屋敷にいた女性だった。年のころは、十和子と同じくらいに見えた。

 彼女は、石段に集まる男達とは離れた場所にいたはずだ。

 長髪に、白のインナーと黒のワンピース。良い意味で特徴の無い、普通の人。そんな印象だった。

「あの──お二人は、十和子ちゃんの……ああ、いや、六原さんの家にいらっちゃいましたよね?」

「え、ええ。あなたは……?」

「申し遅れました。私は真中愛と申します」

 女性は──愛は会釈する。年齢とは不相応に、品格のある所作だった。

「私たちが六原家を訪ねたことは知っているみたいだけど、何の御用かな?」

「あなた達が最後に話していた、六原家は何かを隠していると言っていましたよね。それはどういうことですか?」

 愛は十和子の友人だといった。大学時代に知り合ったそうだ。

 近々、十和子との食事の約束があったそうだ。しかし、愛はニュースで十和子の死を知った。

 詳細を確認しに十和子の家に向かったそうだ。

 近くにいた警察官に尋ねてみても、捜査の詳細は伏せられたままである。

 せめて十和子の家族から話を聞こうと、日を改めて六原の家を訪ねてみた。

 しかし、屋敷は連日あの様子であった。

 たまに静かな日があったとしても、屋敷の人間は愛に応対しようとはしなかった。

 結局、愛は十和子が死んだ後のことを何も知ることが出来ないままでいた。

 彼女は、自分と同じなのだと圭司は思った。

 何も知らない自分の未来が、目の前に立っている。

「なので、……何でも良いんです。何か、十和子ちゃんについて、事件について知っていることがあれば教えて欲しくて」

「……」

 圭司は沈黙する。

 自分の独断で事件の内容を教えても良いのだろうか。

 圭司の決心を待たずに、夜子が答える。

「良いよ」

 愛の顔が晴れる。

「とはいっても、私たちも知っていることは限られるけれど」

「いえ、何でも、お話を聞けるだけでも嬉しいです。ありがとうございます」

 三人は山手駅近くの喫茶店に入った。

 夜子は、十和子殺害の事件について簡潔に話した。

 十和子は出かけたまま失踪したこと。

 家族の中でアリバイが無いこと。

 遺体はバラバラで焼却された状態で見つかったこと。

 愛は、詳細を聞くにつれ、険しい顔を見せていった。

「私達が知っているのはこんなところかな」

「ありがとうございます。ところで、さっき屋敷で話していた隠しごとっていうのは……」

「それについては何も分かっていないよ。ただ、何かを隠しているだろうっていうのが分かっただけ」

「なるほど……」

「私達からも、いくつか聞いて良いかな?」

「はい、分かる範囲でお答えします」

 愛は頷く。

「ありがとう。──例えば、十和子さんは実家と険悪だった様なことはあったかな?」

「……分かりませんが、それは無いと思います。特段仲が良いという印象はありませんでしたが、ただ恨みを買うほどのことは無かったと思います。それこそ、殺されるほど不仲だったことなんて……聞いたことありません」

 愛は、十和子が休日に母親と出かけたという話も聞いたことがあった。

 使用人である三坂家の手伝いをすることもあったという。

 今もなお山手の実家に住んでおり、家族関係は決して険悪なものでは無いことが伺える。

「六原家の人が、十和子ちゃんを殺す動機は無いと思います」

「そうだね。私もそう思う」

「父親はどうですか? 十和子さんと信一郎さんが喋っているところを見たことはありますけど、険悪に見えた様な……」

「険悪というより、無関心に近いんじゃないでしょうか。信一郎さんはご多忙なので、ほとんど話さないと、十和子ちゃんから聞いたことがあります」

「殺すほどの動機は無いってことだね」

 そもそも、事件当時、信一郎のアリバイは成立している。

 それに、六原の事業は、ひとえに信一郎の手腕にかかっているといっても過言ではない状況だった。

 彼には守るべき人が、従業員と取引先を含めて何千人もいる。

 いくら娘が憎いと仮定しても、信一郎が殺人を犯したとなれば、彼が築き上げてきたものは水の泡と消える。

 信一郎そのリスクとリターンが分からない人間ではない。それが夜子の見立てだった。

「外部の交友関係だとどう?」

「うーん……それも考え難いんですよね。社交的だったので、顔見知りや知人は何人もいたんですが……仲が良いと呼べる友人はあまりいませんでした。それこそ、恨まれるほど深い付き合いの相手はいないと思います」

 圭司は葵の顔が浮かぶ。

 十和子は葵のことを親友と言った。

 葵からどう見えていたかは分からないが、少なくとも十和子にとって葵は深い仲の友人だったはずだ。

 それならば、やはり、葵が殺したということも──あり得るのか。

「人間関係で怪しいところはない……となると、通り魔とか、ストーカーでしょうか」

「無いとは言い切れないけど……うーん、悩ましいね」

 圭司の問いに夜子はそう答える。

 見ず知らずの他人の犯行であれば、十和子も抵抗するだろう。

 ただ、そうした目撃証言は無い。

「他に何か、十和子さんの知っていることで怪しいこととか、気になることってあるかな?」

「気になることと……」

 愛はしばし考え、何かを思い出した様子だった。

「十和子ちゃん、五年前に家出していたらしいです」

「家出?」

 意外、というのが圭司の素直な感想だった。

 圭司から見た十和子の印象は正に深層の令嬢というものだった。

 反抗期など無く、自身の立場を理解し、粛々とやるべきことをやる。そんな人物だと思っていた。

 たまらず、圭司は愛へ問いかける。

「なぜ家出を?」

「十和子ちゃん曰く、遅れてきた反抗期だったらしいです。大学に入ってすぐ、三年ほど家出していたそうですよ。私は、彼女が復学した後に知り合ったんですよね」

「真中さんは、その時のことを詳しく知ってらっしゃるんですか?」

「うーん……十和子ちゃんは家出した後、すぐに体調を崩してしまったそうで、長い間入院していたことは言ってましたが……詳しくは分からないです」

 意外な事実だった。

 既に完治していたのかもしれないが、十和子は圭司の前でそんな素振りは見せなかった。葵もこの事実を知っていたのだろうか。

「他に怨恨の線があるとすれば、家出していた期間に知り合った誰かですかね」

「愛さん、十和子さんがどこで暮らしていたか分かる?」

「いや、そこまでは……」

 愛は首を横に振る。

 沈黙が下りる。

「──分かった、ありがとう。あなたのお話は、とても参考になったよ」

「いえ、お役に立てたなら何よりです」

 圭司は会計を済ませようと店員を呼ぶ。「待って」と夜子が制する。

「愛さんは十和子さんの家に行ったことはある?」

「十和子ちゃんの家ですか?」

「そう、山手の実家へ行ったことあるかな?」

 言いながら、夜子は六原邸の図面を取り出した。

 彼女が指を指したのは、奥庭だった。 

「彼女の家に奥庭があるんだけど、この奥庭にある建物らしきものが何なのかを知りたいんだ。もしかしたら、これが何なのか、知っているかなと思って」

 夜子は、図面に書き込まれた丸い建物を指さす。

「これ、話は聞いたことあります。十和子ちゃんの家にはお墓があるそうです」

「墓?」

 愛はちょっと待ってください、と言いながらスマホを取り出す。

 程なくして、彼女はブラウザに表示された画像を夜子と圭司へ見せてきた。

 北原白秋の墓の画像であった。

 直方体の台座の上には、丸いドーム状の葺石が載せられている。

「珍しい形ですよね? こういう形状のお墓があるそうです。多分そのことだと思います」

「十和子さんは家の庭にお墓があったんだね……」

「そう言っていました。親族の誰かが亡くなった時に、そのお墓を開けて、その時の当主がお骨を納めるそうです。最後に納めたのは十和子ちゃんのお祖父さんが亡くなった時らしいですよ。大体、十五年くらい前だったと聞いてます」

 圭司は、尋常では無い、という印象を抱いた。

 六原家自身が普通の家庭ではないということは重々承知している。

 資産家ゆえの価値観もあるだろう。

 しかし、それを差し引いても、自分の生活空間に墓を置くという感覚は、圭司には到底理解し得なかった。

「あと、そうだ。十和子ちゃんが言っていたことで気になったことがあって」

「どんなことです?」

「十和子ちゃんが墓に近づいた時、お父さん──信一郎さんにひどく怒られたそうです。普段とは全然違う様子で」

「それはいつの話ですか?」

「確か、十和子ちゃんのお祖父さんが亡くなられてすぐのことです」

 普段とは全然違う様子、という言葉に引っかかりを覚える。

「お墓は神聖なものだから、とか?」

「そうですね。ただ、怒っているというよりは、十和子ちゃんのことを心配している様子だったらしいですよ」

 墓が神聖なものゆえに、みだりに近づいた十和子を怒っていることは分かる。

 心配するとはどういうことだろうか。

 ──奥庭に幽霊が出る。

 十和子はそう言っていたことを思い出す。

「なるほど、ありがとう。参考になったよ」

 夜子は席を立とうとする。

「それじゃあ、そろそろお暇しようかな」

「会計しておきますよ。真中さんはそのままで大丈夫です」

 圭司は会計を済ませる。三人は喫茶店の外へ出た。

「本当にありがとうございました。何とお礼を言ったらいいか……」

「いや、気にしなくて良いよ。──あ、そうだ」

 夜子は葵の写真を取り出し、愛に見せる。

「この人を探しているんだ。見覚えあるかな?」

「……いえ、すみません、無いです」

「そっか。ありがとう。もしどこかで見つけたら連絡欲しいな」

「分かりました」

 夜子は愛に連絡先と葵の写真を渡した。

 三人で駅へ歩く。日は落ちかけている。

 既に黄昏時と言って良い時分で、辺りは薄暗くなっていた。

 警察の聴取を受け、夜子の事務所へ行き、六原家を訪ね、そして今──十和子の友人と話している。激動だったなと、圭司は思う。

 そう思うと、一気に疲労が押し寄せてきた。

 気が付けば三人は山手駅に着いていた。

「すみません」と愛が言う。

「一つだけ、言い忘れたことがあって」

「どうしたの?」

「参考になるか分からないですけど──七十年前に、私の地元で今回と同じような事件があったんです」

「同じような、事件?」

「今回と同じように、二人分のバラバラ死体が竹の籠に詰め込まれて発見された事件です。時期が離れていたので、偶然かと思っていたんですが、どうしても気になって」

 七十年前──。

 その時に、今と同じようにバラバラ事件が起きていた。被害者の死体は竹の籠に詰め込まれていた。しかも、被害者は二人いた。

 時期的にも、今の事件と犯人は異なるだろう。

 しかし、個々の要素は符合する。

 それは、偶然の一致だとは、圭司には思えなかった。

「真中さんの地元はどこですか?」

「群馬です」

「ありがとうございます。帰って詳しく調べてみます」

「あ、あともう一つ」

 愛が引き留める。

「その、片方のバラバラ死体は少し変わっていたらしいんです」

「どういうことです?」

 圭司が答える。

「その、見つかった死体は枯れていたらしいです」

 

 

  *



 愛と別れた後、夜子は乃木涼へ電話かけた。

 何となく気まずいと思い、圭司は会話の内容を聞かないようにしていた。

 電話を終えると、夜子はこのまま品川に行こうと言い、電車に乗り込んだ。

 涼が品川にいるというので、合流するそうだ。

 圭司は涼と初対面になる。

 どんな人物かと夜子に尋ねたら、彼女は自分の助手だと言った。

 横浜駅から何駅か進んだところで、座席が空いた。夜子と圭司の二人は座席に着く。

 隣り合わせのまま、無言の時間が続いていく。

 圭司は、愛との会話を思い出していた。

 七十年前にバラバラ殺人事件が発生した。

 その事件では、竹の籠が二つ発見された。

 片方の籠に詰め込まれた死体は枯れていたという。

 枯れた死体は夜子が追っている事件だ。

 夜子は北関東で枯れた遺体が見つかったと言っていた。

 その発見場所は群馬県だったのだ。

 愛の言葉を聞いた時、夜子は微かに眼を見開いていたことを思い出す。

 圭司と夜子は、愛に返すべき言葉は見つからず、お礼を言い別々のホームへと進んでいった。

 事件が奇妙に符合する。

 それだけではない。

 夜子が追う、枯れた死体も見つかっている。その出どころについて、ようやく手がかりが見つかった。

 しかし。

 一つ一つの要素は関連していても、何がそれらを繋げているのかが分からない。

 考えても出ない結論を、いつまでも考えてしまうのが圭司の悪い癖だった。

 思考の袋小路に迷い込んでいることを自覚し、圭司は夜子を見る。

 彼女は何を思っているのか。

 自らの思考を切り替えるため、夜子へ話しかける。

「涼さんとは何を話すんですか?」

「ん? これからの作戦会議だよ」

 それ以上話すことも思い浮ばず、圭司は沈黙する。

「そういえば」

 圭司は再び口を開く。

「夜子さんは何でこの仕事を?」

「何で? んー……時間の融通が利く、フリーの仕事が良かったから、かな」

「そうですけど、そうじゃなくて──何で、人助けをしてるのかなって」

「ああ、そういうこと」

 夜子は異星人と呼ばれる生き物だが、外見は普通の人間と変わらない。

 意思疎通も問題はない。

 しかし、人類とは決定的に異なる生き物であることもまた事実だ。長命ゆえに、人間とは価値観だって違うだろう。

 だというのに、なぜ、夜子はこうして人助けをしているのか。

 今、自分のことを助けてくれているのか。

「難しいことじゃないよ。それしか知らなかった、私には人助けをするっていう選択肢しか無かったってだけ」

「どういうことですか?」

「そのままの意味だよ。多分、両親の教育が良かったんだろうね。人は助けるものだって価値観を持つことができた。だから、こうやって今も人助けをしているの。本当にそれだけ。そうすることが当たり前だった。だって、それしか知らなかったんだから」

「何か……ありがたいですけど、変な感じがしますね」

「変じゃないよ。君だってそうじゃない? 君は何で人殺しをしないの? 人に優しくしてあげられるの?」

 なぜ。

 当たり前のことだから。

 法律で決まっているから。

 そう教わってきたから。

 圭司は夜子の質問に対する回答はいくつも思い浮かべる。そのどれもが正しいと感じるし、そのどれもがしっくりと来ないように思える。

「多分、圭司君の考えてることはどれも正しい。だけど、私は、ただ、そういう世界で育ってきたからじゃないかなと思うんだよ」

 夜子の言わんとしていることを、圭司は何となく理解できた。

 彼女も、葵と同じことを言う。

「刑法の第何条の条文を知ってから、初めて人を殺してはいけないことだと知る人間はいないでしょう。法律を知るよりも早く、人を殺してはいけないということを知るんだ。それは親から教わるのかもしれないし、兄弟から教わるのかもしれない。それはつまり、その人にとっては、人殺しをしてはいけないと教えてくれる人がいたから、そういう世界で育ったから、殺人は良くないことだと理解できたわけだよ」

 私も同じだよ、と夜子が言う。

「君はどう?」

 自分は──どうだろうか。

 圭司は逡巡する。秘密を追う。謎を明らかにする。今、葵のことを追っているのもそうだ。放っておけないという気持ちは、自身が見てきた世界に根差している。

 放ってはおけない。

 放っておくという選択肢が──圭司には存在しない。

「自分もそうかもしれないですね」

「でしょう?」と夜子はにやりと笑う。

 気が付けば、電車は品川駅に到着していた。


 涼とは、品川駅近くの個室の居酒屋で集合することに決めていた。

 夕飯を兼ねる予定であるのだ。

 改札を出て、港南口へ向かう。

 港南口から広場へ降りる。道路を渡れば居酒屋が軒を連ねていた。

 駅から歩いてすぐ、雑居ビルの二階に入る。

 圭司は品川に縁が無い生活を送っていた。圭司が座っていた席は丁度窓に面しており、眼下には仕事終わりのサラリーマンが増え始めていた。

 夜子はビールを、圭司はソフトドリンクと軽食を注文し、涼を待つことにした。

「到着したみたいだ」

 夜子がスマホを見ながらそう言った。

「すみません、お待たせしました!」

 大きなリュックを背負った女性が現れた。

 肩で息をしており、走って来た様子だった。

 短髪でパンツ姿。目元は鋭く、利発で活動的な女性という印象を与える。

「初めまして、乃木涼です。あなたが、初城さん?」

「あ、はい、初城圭司です」

「……」

 涼は圭司のことをジッと見つめる。

「夜子さんの助手の座は渡しませんからね」

 それだけ言うと、涼は、大きなリュックを席に下し、中からノートPCを取り出した。

 店員が涼の注文を取りに来る。涼もソフトドリンクを注文した。

「今日はどうしました?」

「作戦会議だよ」

 夜子は、圭司が事務所を訪ねた後のことを共有する。

 六原家の屋敷に訪ねたこと。

 真中愛に会ったこと。

 そして、七十年前にも同様の事件があったこと。

「色々話したいんだけれど……まず七十年前の事件について知りたいんだ」

 夜子がそう言ったところで、三人分の注文が運ばれてきた。

「今回の事件に無関係なのかどうかを、判断したい」

 夜子の言葉に涼は「電話で連絡貰った件ですよね」と答えながら机に資料を出す。

 七十年前の新聞のコピーだった。

 仕事がずば抜けて早いと圭司は思う。自分とは大違いだった。

「これが当時の事件の記事ですね。被害者は二人いたらしいですが、身元が明らかになっているのは一人だけです。その方の名前は、永塚雛さんというそうです」

 永塚雛──当時四十代の女性だった。

 彼女の遺体は四月三十日に発覚している。

 新聞によれば、四月二十五日までは生きて仕事をしていることが確認されている。彼女は突如失踪し、五日後に死体となって発見されている。

 死体は竹の籠に入れられていたという。

 枯れた死体に関する記述は無く、結局、犯人も見つかっていない様子だった。新聞によれば、そもそも警察は真面目に捜査を行っておらず、組織が腐敗していると批判している。

「これだけの事件を捜査していない、というのも気になるね」

 代議士による圧力。その言葉が、圭司の脳裏をかすめる。

「ちなみに、被害者はどんな方なんですか」

「刻条家で使用人をされていたそうです」

「刻条家?」

 圭司には耳慣れない言葉だった。

「どうも──北関東に端を発する華族、らしいです。事業も順調で、当時はそれなりの資産を持っていたとか」

 圭司はスマホを取り出して刻条打ち込み、調べてみる。ヒットは数件だった。高級軍人を輩出した、帝国議会の議員を輩出したなどが書かれているが詳細までは分からない。

「当時の政界にコネクションが有った様子なんですよね。どれほどの影響力があったかは分かりませんが。この刻条家がそれらのパイプを駆使して商売をしていたのは確実でしょうね」

「政商ってやつですかね」

「商人が政治とコネクションを持っていたというより、政治家や官僚が片手間で事業をやっていたという感じでしょうか。今でいう三井や三菱ほどの成功は出来なかった様です。例えば、ほら、刻条運輸という会社があるでしょう。これは刻条家の中核事業だったらしいですが、この会社は残っていません。名前を変えているわけでもなく、他財閥の運輸事業に負けてしまったのでしょう」

「弥太郎君のところの海運会社はすごかったよねえ」

 夜子が口を挟む。ビールをもう一杯と店員を呼んでいた。

「ただ、現在には残っていないんだね」

「そうですね、名前も聞かないですね」

 確かに涼の言う通りだ。

 圭司は身の回りで刻条の名前を持つ企業を探すが、思い当たらなかった。

 そこまで発展した企業の名前が残っていないのは、珍しい。

「人間関係で恨まれていたりとかはしていないですか?」

「そういう記述は見つかりませんでしたね。永塚さん、ご近所さんとも関係が良く、雇い主である刻条家にも気に入られていた様です」

 新聞のコメントにもそうした記述があった。

 十和子と同じだと、圭司は思った。目立った怨恨もなく、不意に命が奪われた。しかもバラバラにされた上で死体が焼かれている。

「あの、七十年前と、今回の十和子さんの件……それと、他の事件って、同じ事件だと思いますか?」

 圭司は涼と夜子を見ながらそう言った。

「同一犯という意味では、違うと思う」と夜子は答える。

「七十年前の事件の犯人は、当時十歳でも今はもう八十歳を超えている。だから、同じ人物の犯行というのは考え難い」

 でも──と夜子は続ける。

「私はこの雛さんの事件と今回の事件──それどころか、哲雄さんから続く一連の事件は関連しているのは間違いないと思っているよ」

 夜子はテーブルに広げてある資料を手に取った。

「死体をバラバラにして、それを竹の籠に入れるっていうのは、ちょっと尋常じゃない。被害者の出自以外の部分で明確に共通点があるからね」

 夜子は続ける。

「関連の仕方も色々あるけど……一つ考えられるのは模倣犯の可能性。雛さんの事件を知っている犯人が、それを真似したケース。もう一つは、刻条家の事件が起点となって、一連のバラバラ事件が起きたケース」

「七十年前の事件が、起点、ですか?」

「そう。例えば、分かりやすいのは、復讐、とか」

 表舞台から名前こそ消えているが、刻条家の関係者がまだ生きている。そして、その人物が復讐として一連のバラバラ殺人を企てた。

 筋は分かりやすい、と圭司は思った。

「でも、七十年前の事件ですよ? 恨みがあったとして、今になって、ですか? しかも、金井さんから十和子さんの四つの事件に、少なくとも、怨恨の観点では被害者の共通点は無いはずです」

 圭司はそう言った。

 死体をバラバラにする。それを竹の籠に入れる。

 確かに、そのような共通項は存在する。

 また、金井哲雄から十和子までの被害者は、六原家の人間と関りを持っていたことは間違いない。

 ただ、永塚雛だけは無関係だ。

 彼女の事件を模倣した犯人が、金井哲雄から続く一連の事件を起こしたのか。

 圭司にとっては、あまりに現実離れした結論だった。

「そうですね。でもそれは、今のところは、ですよね」

 涼は圭司の問いにそう答えた。

 涼の言う通りでもある。

 あくまで、現状開示されている情報の範囲においては、だ。

「確証はないけどね。──でも、もしそうだとしたら、また誰かが死ぬかもしれない」

 事件の真実を看破しない限り、誰かが誰かを殺し続ける。

 圭司にとって、その推論はあまりに現実離れしていた。

 七十年以上にも渡って、誰かが誰かを殺す。

 それほどの怨恨を圭司は想像でいなかった。

 犯人が七十年前の事件を模倣したという筋書きの方が納得できる。

「ま、何が真実かは、まだ私も分からないよ。こればっかりは。だから地道に調べて行かなきゃ。今の話も全然間違いかもしれないし。ただ、着実に進展はしているから、いずれ辿り着くとは思うよ」

「でもまだ何も分かってないですよ」

「そうでもないよ。七十年前の事件が関係しているかもしれない、という事実が分かった。前提条件が増えるのは良いことだよ。そうすれば、誰に何を聞くべきかが変わってくるからさ」

 初歩の初歩だよ──と夜子は、圭司と涼を交互に見つめた。

 おずおずと手を挙げたのは、涼だった。

「そもそも、なんですけど」

「どうしたの?」

「なぜ、竹の籠に死体を入れるんでしょうね」

「どういうこと?」

「隠蔽の意図があるなら、竹の籠に入れるよりももっと良い方法があると思うんです。だとすれば、籠に入れるのは他の意図があったはず。けど、その意図が分からないんですよ」

 涼の言う通りだ。

「籠自体を隠すわけでもない。けど、一連の事件の犯人は頑なに死体を籠に入れています」

「そうだね。……ただ、少なくとも犯人にとっては何かしらの意味があったのだろうね。どの事件も、態々竹の籠を選んでいるから。単に入れ物なら何でも良いってわけでもなさそうだね」

 三人が黙り込む。

 七十年前の事件と、四件のバラバラ事件。

 因果を見いだすことが出来ない各々の事項を前に、告げる言葉が無くなった。

「もう一回洗い直しませんか」

 圭司はそう言った。

「洗い直す?」

「今回、十和子さんの事件が新しく起きました。そして、七十年前の事件も関連していたかもしれないことが分かった。それらを踏まえて、改めて共通点を調べ直すんです。被害者の背景は勿論、趣味や行動、過去の様子まで全て。キリが無いかもしれないですけど」

「良いね」

 夜子はそう断言した。

「というか、今日はそれをやろうと思ってたんだよ。流石」

 圭司の目論見は夜子と一致していた。

 夜子の言葉に、圭司はこそばゆい気持ちになる。

 事象は関連するが、事件の輪郭は判然としない。

 ──まるで、竹林に迷い込んだようだ。

「涼ちゃん、これまでの事件の資料を見せて」

 竹の中、その最奥に迷い込んだ婚約者を見つけるため。

 圭司は決意したように、手元のグラスを空にした。

 


  *



「まず、金井哲雄の事件です」

 そう言いながら、涼は新たに資料を取り出した。

 金井哲雄。戦後のバラバラ事件において、最初の被害者である。

「小さな運輸会社で働いていたそうだね」

「ええ。ただ、経歴自体は華やかですね」と、涼は答えた。

「群馬県に実家を持ち、大学進学を機に上京。都市銀行に就職したそうですね。退職後、決済系のベンチャー企業を立ち上げています。順風満帆だった様ですが、徐々に業績が悪化し、最終的には倒産しています」

 これを、と涼が記事を取り出す。

 ビジネス誌に掲載された、金井哲雄のインタビュー記事だ。

 ファーストペイの躍進と見出しに大きく書いてある。

 涼が言っていた、一社目のことだ。

 当時は飛ぶ鳥を勢いで事業を伸ばし、一時は国内シェアトップも見えたほどの企業であったそうだ。

 記事の冒頭には本山啓介の写真が大きく掲載されていた。

 黒縁のメガネに、ネイビーのスーツ姿は、短く刈り上げられた髪の毛は、これぞ営業マンといったものである。圭司の苦手なタイプだった。

 社長の経歴、趣味などの素顔、そして成功の秘訣と若者へのメッセージという構成だった。

 よくある、変哲の無いインタビュー記事だ。圭司はそんな印象を持った。

「東大から都市銀行……国内大型支店で営業成績トップ、そこから海外赴任を経て辞職。そして……起業。随分と華やかですね」

「経済界にもパイプは多いようです。ベンチャー界隈は勿論、経団連など重鎮まで。都市銀行時代のパイプでしょうね。ファーストペイが、当時の会社の規模に比較して、巨大な取引先を数多く持つのは、彼の人脈による部分も大きいのでしょうね」

「ただ、時の運には恵まれなかった、と」

「サービスの評判自体は良かったそうです。ただ、粉飾や部下の横領などが立て続けに発覚して、次々と取引を打ち切られたそうですね。それで、事業を継続できなくなり、最終的には倒産に至る、と」

「世知辛いね。私生活はどう?」

「趣味の話は……サーフィンにキャンプ、筋トレですね。他の被害者の方は……」

 圭司の疑問に答えたのは涼だ。

「その繋がりも無さそうでしたよ。他の被害者の、森下さんは映画鑑賞にショッピング、本山さんはスポーツやキャンプのアウトドア系の趣味。対して、金井さんは漫画や小説など読書関連の趣味ですね」

 仕事上の繋がりが無いことは分かっていた。

 趣味の線も共通点は無さそうである。

 そもそも年代が違いすぎる。

 金井哲雄から本山啓介の事件まで、数十年以上の時間がある。

「結構前だけど、哲雄さんの殺害前後の動きとかは分からないかな」

「追える範囲では、こちらですね。当時の新聞記事を参考にまとめたものです」

 涼が鞄から資料を取り出す。

「まず、死体発見は一九八五年の九月十五日です。その前日から彼は姿を消しており、翌日に遺体が発見されました。直前の行動に、不審な点は見当たらないそうです」

 一週間前、は哲雄が卒業した大学のOBによる、同窓パーティが催されていたそうだ。

 財界、官界などのキーマンが集う場だったという。

 哲雄も誘われていたというが、彼は参加しなかった。

 当時、既に事業に失敗しており、哲雄は職を転々とした状態だった。

 同級生の栄光と比べ、全てを失った自分を恥じて参加しなかったのだろうというのが、当時の推論だった。

 その後、姿を消す日までは連日、友人や同僚との飲み会があった。

 哲雄が在籍していた社内の評判によれば、与えられた仕事に対する意識は高かったという。

 成果を追求し、フェアで誠実な態度という評価だった。

 時に厳しい面も見せていたが、殺されるほどの恨みを買うようなことも無かったという。

 飲み会は多かったが、それはいつものことだそうだ。

 事業が失敗した時に、妻子には逃げられている。人との繋がりを求めた結果なのだろう。社員から見れば、殺害まで哲雄はいつもの日常を送っていたことになる。

「痴情のもつれとか、そういう話はどう?」と夜子が言う。

「ありませんね。離婚されてからは、恋愛関係もなく、仕事にまい進されていたそうですよ。女性関係は無かったと、同僚や友人の証言ですね」

「ご家族からの恨みとかは?」

「無さそうですよ」と圭司は言った。

「ここの記事に、娘さんと奥さんのインタビュー記事があります。当時、不自由なく生活できたのは彼のお陰で感謝しています。元々、事業が失敗して離婚したのは金井哲雄自身の意向だったそうで、彼の家族は離れるつもりはなかったそうです。それどころか、離婚後も定期的に交流は持っていた様子です。しかも、警察の発表によれば、二人とも本山啓介が死亡したと思しき時間のアリバイはあります」

「まあ、そうだよね」

「ちなみに、金井哲雄と六原家の繋がりっていうのは何だったんですか?」

「ああ、信一郎さんと哲雄さんが同じ大学のOB同士で、交流があったらしいよ」

 答えたのは夜子だ。

「なるほど、それで……。涼さん、そういえば、同窓パーティへの参加者は分かっているんですか?」

「それは分かってないです。ただ、同年代だけではなく、幅広い年代を対象に開催されたようです」

 東大を卒業しているのであれば、あらゆる分野で活躍していることは想像に難くない。

「六原信一郎も東大を出ているから。もしかしたら、その同窓会に出席していたかもしれない」

 被害者に共通した、六原家との繋がり。

 金井哲雄と六原信一郎は友人の間柄だった。

「でも、当時の年齢を考えたら金井哲雄と六原信一郎は二十近く年が離れていますよね?」

「その同窓会とやらがきっかけだったんじゃないか。年代を問わずに活躍していたOBを集めていたのだとしたら、哲雄さんも信一郎さんも、その集まりに出席していたかもしれない。片や六原の当主、片や新進気鋭のベンチャー経営者。パイプ作りのために参加していた可能性も十分にあり得たんじゃないかな」

 経緯はどうあれ、六原信一郎と金井哲雄は接点を持っていたはずだ。

 この関りが、後の十和子殺害に繋がっているのではないか。圭司はそう考えた。

 何かしら、六原家へ恨みを持つものが、六原家に関係するものを殺害してまわったのだろうか。

「だとしたら、残りの二人も似た様な繋がりが?」

「森下博美は、六原との関係という意味でしたら、わかりやすいですよ」

 彼女は、更に金井哲雄の死から更に十数年後に殺害されている。

「どういうことです?」

「初城さん、この記事を見てください。これは六原家の事業に関する取材記事です」

 涼が取り上げたのは六原信一郎に関する取材記事だ。

 昭和から存在する隠れた名家をどのように立て直すか。六原家は、当時、バブル崩壊の影響を引きずっていた。そうした状況の舵取りをどのように行うか。信一郎の手腕に迫る記事であった。

 この記事を森下博美が執筆した。

 また、森下博美の殺害以前の行動についても不自然な点はなかった。

 記事執筆、取材、記事執筆──休暇を取得した日は映画を見ている。

「当時の捜査範囲では、交友関係も問題なし。殺されるようなことも考えられないですね」

 涼はそう言うと、新たに新聞記事の切り抜きを取り出す。

 本山啓介が六原系列の社長として、辣腕を振るっているという旨の記事だった。

「例に漏れず、彼の死も怨恨などの線は考え難いですね」

「というと?」

 本山啓介は独身であり、仕事仲間こそ多いが、友人は少なかった。

 町田市を拠点にデータセンター関連の事業を営んでいる。

 六原家自体は決して好かれていない。

 しかし、本山啓介個人が恨みを買うような様子はなかったのだ。

「中高、あるいは小学校の友人とか、身の回りの様子とかは……」

「卒業アルバムの情報は出回っていたそうだけれど、繋がりは全く無かったそうだよ。本山啓介の友人と言えるものは、仕事の延長で出来たものだったらしい。だから、その線で殺人の動機が起こるのは薄そうだよ」

 本山啓介が殺害される以前の行動も、彼の日常の延長だった。

 社長という職業柄、多忙なのだろう。土日も無く仕事をしていたという。

 同じく恨まれるようなこともしておらず、通り魔的な模倣犯によるものだというのが、大勢の見方である。

 本山啓介の事件については去年の出来事だ。

 しかし、金井哲雄から数えると数十年のスパンがある。

 永塚雛の事件も含めると七十年だ。

 仮に六原家への復讐だったとした場合はどうだろうか。

 六原家が永塚雛を殺害し、彼女の親族が六原への復讐を誓った場合だ。

 その場合も疑問が残る。

 犯人はなぜ六原家の人間を今まで殺さなかったのか。

 そして、なぜ、今になって六原十和子を殺したのか。

 それらの問いに対する答えを、今、机に並んでいる情報から回答を出すことは出来なかった。

 状況だけで言えば、殺害方法を真似した模倣犯による通り魔的な犯行と考えるのが妥当だろう。

 圭司にとっては、それでも構わない。

 葵の疑いが晴れるのならば──葵以外の誰かが犯人ならば、圭司にとっては誰が犯人であろうが構わない。

 しかし。

 夜子は、納得がいっていない様子だった。

 眉間に皺を寄せながら、彼女は机の資料を見つめている。

 圭司も何気なく金井哲雄の事件記事を手に取った。

 記事の内容は、不幸な通り魔に殺されたというものだった。

 彼の趣味や仕事も涼から聞いたものと変わりない。

 何か新しいものはないか。

 記事を読み流していると、圭司は見覚えのある単語を発見した。

「あれ」

「どうしたの?」

「いや、金井さんが寄稿している同人誌が、知り合いがまとめているものだったので。当時からあったのか……」

 金井哲雄はオカルト趣味を持っていた。

 圭司は親近感を覚えたが、更に驚愕したのは、金井哲雄が持っている同人誌の名前だった。

 それは『密室手帖』という同人誌だ。『密室手帖』は圭司の知り合いが編集している同人誌である。

 プロアマ問わず、様々なジャンルのライターや作家に声をかけ、エッセイや小説、評論を載せている。

 界隈では有名な同人誌であり『密室手帖』に掲載されることは一つのステータスでもあった。

 また、『密室』という名を冠してはいるが、ジャンルはミステリだけに縛られていない。

 大衆文学全般をカバーしている。圭司自身も『密室手帖』へ寄稿したことがあった。

 その歴史は古く、代表者は今も変わっていない。

 金井哲雄が殺されたタイミングは、丁度『密室手帖』の創刊と重なっていた。

 記事には、ミステリ愛好家が、愉快犯的に金井哲雄を殺害したのではないかという考察が書かれていた。

「『密室手帖』の代表者に連絡をとってみます」

「出来るの?」

「はい。代表者は創刊当時から変わっていないはずなので、もしかしたら金井さんのことも何か知っているかもしれないです」

 圭司はスマホを取り出し、『密室手帖』の主宰へと電話をかける。

 金井哲雄の件を伝えると、二つ返事で承諾してもらった。

「明日、十一時に秦野へ行って、そこから木原さんの家へ行きます。そこで、金井さんの件も確認してきます」

 了解、と夜子は返事をする。

 圭司は金井哲雄に対してある種の仲間意識を持つようになった。

 彼の無念を晴らすためにも、彼の足取りを追うことで、事件に繋がる何かを見つけたい、

 圭司はそう思っていた。



  *



 木原譲は神奈川県の秦野市に住んでいる。

 圭司は一度だけ仕事を共にしたことがあった。譲が主宰する『密室手帖』へ寄稿したのだ。

 圭司はミステリについては門外漢だった。

 話題作に眼を通すことはあったが、彼はあくまでオカルト界隈を主戦場としている。

 だから、譲の申し出も最初は断った。

 しかし、譲は引かなかった。

 なぜ圭司でなければならないのか、圭司の作る文章がいかに素晴らしいか。そんなことを、滔々と語ったのだ。

 どういう訳か、譲は圭司を高く買っていた。

 結局、譲の熱意に負けて、圭司は『密室手帖』へ寄稿した。

 後にも先にも、他人にあそこまで仕事を求められたのは、譲だけだった。

 その後も、圭司と譲との親交は続いている。

「秦野、初めて来るな」

 作戦会議の翌日、圭司は、午前十時に秦野駅へ向かった。

 横浜からは一時間以上かかる。横浜線で町田に出る。そこから小田急線で下っていくと、秦野に着くのだ。

 駅前は多少栄えていた。全体としては、閑静な住宅街という雰囲気だった。ベッドタウンという言葉相応しいと、圭司はそんな印象を持った。

 横浜と比べると空が広く、秋風が気持ちよく吹き抜けている。

「遅かったですね」

「え」

 小田急線の改札を抜けたところに、見覚えのある女性が立っていた。

 乃木涼である。

 大きなリュックを背負い、仁王立ちで圭司を睨んでいる。

「あれ、どうしてここへ?」

「記録もあるので、私も行くことにしたんです。こういうインタビューは私の方が経験あると思いますから。後、木原さんの用事が終わった後に、もう一人取材することにしたんです。そこに、初城さんも同行してもらおうかと」

「なるほど……」

 相変わらず涼は圭司を睨んでいる

 居心地が悪くなり、圭司は涼へ尋ねる。

「どうしました?」

「あなた、夜子さんの何?」

 涼の声のトーンが一段と低くなる。

 明らかに敵意がむき出しとなっており、圭司は面食らう。

「はい?」

「夜子さんとどういう関係なのかを聞いてるの」

「いや……単に、探偵とその依頼人という関係ですよ」

「それだけじゃないでしょう? なぜ、事件の調査に同行しているの?」

「なぜって……調査の対価、ですかね」

「どういうこと?」

 涼は圭司の依頼について、その仔細を知らなかった。

 何かしら力を借りる場面があるかもしれないと思い、圭司は葵の捜索について涼へ共有した。

「そういうことだったんですね……すみません、誤解してました」

「異星人絡みで何かあるかもしれないと思って手伝うように頼まれてるだけですよ」

「ともあれ、それを聞いて安心しました」

「何がです?」

「夜子さんの助手の座は譲らないってこと」

 圭司はようやく合点がいった。

 つまり、涼は夜子の助手の座が脅かされるのではないかと考えていたのだ。

 それゆえに、涼は圭司を敵視していたのだ。

「随分と慕っているんですね」

「憧れだもの。私も、いつかああなりたいと思っているの。それに夜子さんの力にもなりたい」

「事件の調査とか、ですか」

「それもあるけど、それだけじゃない。夜子さんの友人探しも、私が手伝いたいの」

「友人探し?」

 喋りすぎた、と、涼は慌てて口をつぐむ。

「さ、はやく行くよ!」

 涼はそう言うと早歩きで先導し始めた。

 譲の自宅は秦野駅から車で十五分ほどの場所にある。

 駅を出て、ロータリーでタクシーを拾い、譲の家の住所を告げる。

「富士山、綺麗でしょう」

 タクシーの運転手は二人へ声をかけた。

「そうですね。こんなにはっきりと見えるんですね」

「ええ。天気が良いとよく、ね。今日なんか、特に」

 遠くには富士山が見える。

 秦野まで来ると神奈川と静岡の県境も近い。

「夜子さん、よく、あの山はずっと変わらないって言っていたわ」

 

 ──譲は秦野の一軒家で暮らしている。

 ある老夫婦が売りに出した家を、譲が買い取り、リノベーションしたものが彼の現在の住処である。

 インターホンを鳴らすと、程なくして譲が出迎えた。

 黒縁の丸メガネに、セーターとジーンズという格好である。譲の背格好は成人男性にしては低く、体系も小太りで、髪型も特段セットされた様子は無い。不潔というわけではないが、お世辞にも整った容姿とは言い難い。年は六十に差し掛かると聞いたことがあるが、実年齢に反して若々しいことも特徴的であった。

「いらっしゃい、初城くん、久しぶりだね。そちらの方が──」

「こちらは乃木さん。乃木涼さんで、ええと」

「探偵兼ジャーナリストの乃木です。初めまして、本日はよろしくお願いします」

 涼は丁寧にお辞儀をする。

 彼女の来訪は譲に伝えていなかった。ただ、彼としては問題ない様子だった。

 譲に招かれて、涼と圭司は彼の家へと上がった。

「いやあ、片付けていなくて失敬」

 譲はそう言いながら、二人を二階へと案内する。

「そういえば、初城くん、最新作の予定は無いのかい?」

「今のところは無いです。すみません、今色々とバタバタしてて」

「そうなのかい? 勿体ないねえ」

「木原さんこそ、ご自身で何か書かないんですか?」

「ダメダメ。僕にはそっち方面の才能がないからね」

 譲は過去に一度小説を書いたことがあり、新人賞へ応募したことがあるが、一次選考で落選したという。

 それ以来、彼は小説を書いていないそうだ。曰く、才能が無いと。

 圭司は譲の作品を読んだことが無い。

 そのため、譲の小説の才能を推し量ることは出来ない。

 一方で、譲の審美眼は本物である──少なくとも、圭司はそう考えている。

 彼が主宰する『密室手帖』に掲載される作品は、それが小説であれ、評論であれ、何かしらの力を持った作品であることは間違いない。『密室手帖』に掲載された無名の作家の作品が、後に商業デビューし、ベストセラー作家の道を歩む──そうした例は一つではない。

 大手出版社から譲に声がかかっているという噂もある。

 譲自身は、個人活動だから自由に出来ていると言い、そうした声を全て断っていた。

 彼の本業はプログラマーであり、その合間を縫って『密室手帖』を作っている。

 個人が自由に作ることができる、それゆえのクオリティだというのが譲の主張である。

「ほい、ここだよ」

 譲の書斎に通される。

 六畳ほどの部屋に、壁一面を本棚に加工している。こうした部屋は一つではなく、もう一つあるという。彼の蔵書を補完するために、都心のマンションやアパートでは手狭であった。それが、譲が秦野に居を構える最大の理由である。

「金井くんが載せていたのは、これだね。その中に蔵助という名前で寄稿しているよ」

「蔵助……あの、異星人研究の?」

「そう、その蔵助。初城くんも名前くらいは知っているんじゃないか? そのジャンルでは有名だったろう」

 蔵助は在野の異星人研究科と知られ、特に日本における異星人に関する調査・研究を行ってきた。各地に残る異星人の痕跡を辿っていく──そんな活動を中心としていた。

 古い名前ではあるが、その筋では有名なライターだった。

「金井さん──いや、蔵助さんには、何度か会ったことがあるんだ。とても聡明な方だったよ。まさか彼が殺されるとはね……」

「お会いしたことがあるんですね」

「最初は『密室手帖』の創刊前だね。即売会で、彼が本を手に取ってくれたのが最初だった。その後は、ライターと編集者という形で一度だけ」

 哲雄自身の死は勿論、彼が生み出す作品をもう見ることが出来ないことを、譲は嘆いている。

「犯人が許せないよ」と譲が呟く。

「さて、この家の本は好きに読んでくれたまえ。何か分からないことがあれば遠慮なく頼って欲しい」

 一階で仕事をしているから何かあれば呼んでくれ──そう言い残し、譲は部屋を出た。

 圭司は『密室手帖』を手に取り、目次を開いた。蔵助の名前を探す。

「あった、これ」

 涼が指を指す。

 そこには次のように記述されていた。

『消えた財閥刻条家のルーツ ─異星人との関わりについて─』

「刻条家……?」

 予期しなかった名前に、圭司は驚いた。

 刻条といえば、七十年前の事件の被害者──永塚雛が使用人として勤めていた屋敷である。

 圭司は『密室手帖』を手に取り、目次に示されたページを開く。

 

『刻条という名前は、現代日本においてほとんど残っていない。

 今となっては、その名を知る者も少ないだろう。

 刻条家とは、戦前から戦後すぐにかけて存在した、当時においては新興の財閥である。

 紡績で事業を起こし、不動産や貿易などへと手を広げていった。

 ただ、新興ゆえに規模は小さく、北関東を拠点とした、一介の地方財閥といえるものだった。

 戦中末期から戦後動乱期において、刻条家の事業は徐々に失速する。

 日本が独立を取り戻す頃には、彼らの役割は完全に終えたと言って良い。

 北関東では力を持っていたが、三菱や三井に比肩するほどの力はなく、教科書に名前が残ることもない。

 刻条の名を冠した事業も既に潰えている。

 では、なぜ、私は今回、彼らを取り上げるのだろうか。

 それは、刻条家が異星人との関わりを持っているからに他ならない。

 周知の通り、日本における異星人研究の成果は全くのゼロと言って過言ではない。

 米国が世界で初めて異星人を発見したと発表した時、JAXAが声明を出したことがある。

 我が国の公的機関における異星人との関わりは、それが最後である。

 私はこれを大変嘆かわしいと考える。

 異星人の存在は、今後加速するだろう宇宙開発において間違いなくアドバンテージになるはずだ。

 我が国は、そうした国際競争に勝たなくてはならない。

 在野の異星人研究家として、一人の国民として、私は異星人探求の志を貫こうと思う。

 本稿では、刻条家の歴史と、彼らの持つ異星人との関わりの記録をまとめている。

 これは、私のような人種にとって希望となるはずである。』


 圭司は、眩暈を覚えた。

「結構、思想は強い人なのね」

「そうですね。それにしても、刻条の名前がこんなところで出てくるなんて……」

「まさか、異星人との関わりがあったなんて」

「夜子さんについても触れられているのかも」

 二人は記事を読み進める。


『刻条家と異星人の関わりを示す資料は決して多くはない。

 しかし、何の因果か、私の実家は刻条家に関連する資料を多く持っていた。

 創業者である刻条弥之助は若くして事業を起こした。

 順風満帆とはいかずとも、北関東の有力財閥として名を連ねるほどに事業を成長させた。

 資産も潤沢ではあったが、彼は所帯を持つことはなかった。

 愛人を何人も作ってはいたが、家庭に納まることはなかったのだ。

 それほどまでに仕事に情熱を注いでいたのだろう。

 家庭に割く時間さえ惜しみ、彼は仕事へ打ち込んだのだ。

 しかし、弥之助のそうした考えも、齢五十に差し掛かる頃に変わってきた。

 彼は沙月という女性を妻に迎えたのだ。

 この、沙月という女性が何者なのかは明らかになっていない。

 出自、齢、職業など個人に関わる情報の一切が不明である。

 ──しかし、私は、この沙月という女性こそが異星人ではないかと考えている。

 自伝の中で、弥之助は沙月のことを快い表現をしていない。

 これこそが、沙月が異星人であることを示す証拠では無いだろうか。

 同時に、弥之助が沙月を歓待していた様子も伺える。

 年を経て、心変わりしたのだろうか。

 弥之助は沙月を嫁に貰った当初は、彼女のことを溺愛していたのだ。

 その弥之助が、何故、晩年に沙月を引き取ったことを後悔したのか。

 そして、本当に沙月は異星人だったのだろうか。

 この結論は、まだ得ることができていない。

 本稿では彼の資料を使い、考察を進めていきたい。』


「乃木さん、この、沙月って人、ご存じですか?」

「……いや、聞いたことないわ」

 愛が言っていた、群馬県で発見された枯れた死体。

 沙月が本当に異星人であるならば、彼女は既に死んでいる可能性が高い。

「この沙月って人が、夜子さんの友達なんですかね……」

 もしそうだとしたならば、夜子には気の毒な話だ。圭司はそう思った。

 ただ、金井哲雄の記録が重要な手掛かりになり得ることは間違いない。

 七十年前に発見された枯れた死体。

 それと同じタイミングで発見された永塚雛の死体。

 彼の記録は、それらの真実に迫ることができるかもしれない。

「見て、これ、永塚雛の手紙じゃない?」

 哲雄の両親は永塚雛と知り合いだった。

 彼女との文通の記録が実家に残っていたと哲雄は記している。


『旦那様の変容はこの頃甚だしい。

 私がこの家で勤め始めた時とは全くの別人と云える。

 正しく滅私奉公の徒であり、君子とは彼のことであった。

 然し、近頃、そうした姿も失せて消えてしまった。

 利己的なこと甚だしく、使用人へ辛く当たる姿が目立つ。

 これが老いの恐ろしさであるかと驚嘆する。

 旦那様は自身の死を嘆いておられる。

 決して老いぬ妻の姿を恨んでさえいる様子である。

 既に十年以上前のことであるが、二人の睦まじい様子は私の記憶にも新しい。

 二人が名前を呼び合い、愛を言祝ぐ様子も微笑ましくいられた。

 烏滸がましくはあるものの、二人は、私にとって子供も同然である。

 ゆえに旦那様の口から発せられる、妻への呪詛の言葉が辛いのである。

 一体、この家はどうなるのであろうか。』


「続きもあるわ」

「老いぬ妻……沙月のことか」

「大分憎まれているわね」


『この家はもう私に居場所は無いのだろう。

 旦那様のみならず、同僚も私を避けている。

 避けているだけならばまだ良い。

 ある使用人が私への陰口を話している場面を見た。

 ある時には仕事上の会話さえ無視される。

 嗚呼、私が一体何をしたというのか。

 こんなことは初めてだ。

 今、この屋敷で言葉を交わすことができるのは奥方だけである。

 そして、どうやら、奥方も同じような目にあっていたという。

 一体、この屋敷に何が起きているというのだ。

 奥方は今朝から姿を見せていない。

 彼女の様子も心配である。』


 沙月は刻条家の中で危うい立場にあったことが推察される。

 永塚雛だけは彼女の味方だったようにも思える。

 彼女は、刻条家の確執の中で殺されたのか。

 圭司達は、彼が記した他の記録を読み進める。

 ──そして、数時間が経過した。

 時刻は既に、午後二時を過ぎている。

「そろそろ、お暇しようか」

 圭司が涼に呼びかける。

「そうね」

 二人は譲に声をかけ、圭司は帰る旨を告げた。

「成果はあったかい?」

「半々、ですね」

「含みがあるね」

「新しい発見はありました」

「良いじゃないか。それがどこかで役に立つさ」

 礼を言い、圭司達は外へ出た。

 譲の計らいで、既に家の前にタクシーが着いていた。

「ちょっと待って」

 涼はどこかへと電話をかけ始めた。口ぶりからして、相手先は夜子の様だった。

 今回の調査結果を共有しているのだ。

 程なくして涼が電話を終えると、二人はタクシーへ乗り込んだ。

 行き先として秦野駅を告げ、タクシーは出発した。

「夜子さん、何か言ってました?」

「何も。そう、って言ってそれっきりだったわ。ただ、刻条家については夜子さんも調べてみるって」

「そうですか。……そういえば、この後はどこへ行くんですか?」

「小田急の新百合ヶ丘で、篠原さんとアポがあるの」

「篠原さん?」

「そう。篠原奈緒子さん。森下博美さんの同僚の方よ」

 

 

  *

 

 

 秦野から新宿方面に四十分ほどの所に新百合ヶ丘駅がある。

 多摩方面のハブとなる駅であり、駅の周辺は住宅街やショッピングモールで栄えている。

 涼と圭司は南口を出て、五分ほど進んだところのカフェに来ていた。

「篠原さんは、一度話を聞いたことがあるの。その時は、森下さんの殺害前後に不審な点は無かったかを聞いたらしいのよ」

「それが改めて、今回、ですか?」

「そう。六原家と博美さんの関りについて聞きたいって言ったら、快諾してくださったわ」

 森下博美は六原家の取材を行っていた。

 奈緒子はその手伝いとして六原家と関りを持っていたそうだ。

 取材に同行することも何度かあり、六原家の人間とも面識があったという。

 待ち合わせは十六時である。圭司と涼は二十分ほど早く到着していた。

「あの、乃木さんと初城さん、ですか?」

「初めまして、初城圭司です」

「篠原奈緒子です」

 そういうと、奈緒子は涼の隣へ座る。

 髪は肩口で切り揃えられており、眼鏡をかけている。スーツを着ており、仕事帰りであることが伺える。

「篠原さん、お久しぶりです」

「乃木さんも。お仕事は順調ですか?」

「ぼちぼちですね。今は、例の事件にかかりきりです」

「博美の、ですね」

「そうですね」

「あの、早速で申し訳ないのですが、今回改めて、というのは」

「そうですね。時間もないので、手短に。既に警察に話している内容と被るところもありますけど……。お力になれる部分があればと思ったので。博美の取材記録を改めて整理したんです」

「そこまでしてくださったんですね」

「博美が殺されてからもう五年が経ちますが、まだ犯人は捕まってないでしょう? 誰でも良いから、彼女の無念を晴らして欲しいんです。彼女がなぜ、誰に殺されたのか。それを明らかにしたい。そして、犯人は然るべき報いを受けてほしいんです」

 奈緒子は圭司の目を見ながら、力強く語った。

 状況こそ異なるが、奈緒子は自身が辿るかもしれない未来の姿に違いない──圭司はそう考えた。

 彼女もまた、真実を知ることが出来ず、蚊帳の外のまま、過去に囚われている。

「改めて気になった点は、取材中の六原家の様子と博美の行動です。当時、私も取材に同行することは多かったのですが、不自然な点はあったのです」

「具体的にはどんなところですか?」

 尋ねたのは圭司だった。

「順を追ってご説明します」

 奈緒子の話はこうだ。

 博美は六原家の記事を企画し、信一郎への取材を始めていた。

 今から六年前──博美が殺害される一年前のことである。

 信一郎は気難しく、多忙であったため、取材の約束を取り付けることは難航した。

 ただ、奈緒子は粘り強く交渉した。

 記事が掲載される雑誌の発行部数を根拠にした広告効果。雑誌が主催する企業経営者が集まるパーティでのコネクション構築。

 それらが、六原家にもたらすメリットなどを繰り返し説明した。

 博美にとっては、初めて、企画から立ち上げる記事だった。

 その情熱が、彼女を突き動かしていたのだろう。

 彼女は、とうとう信一郎との約束を取り付けたのだ。

「取材は信一郎さんの会社で三度行われることになりました。メインは一回目と二回目。予備として三回目の日程を確保しました」

 奈緒子は記者としては博美の先輩にあたる。

 初めての企画記事として、彼女のアシスタントを務めることになったのだ。

 そうした理由で、六原の取材に同行することになった。

「本当はお屋敷にも訪ねたかったのですが、それは叶いませんでしたね」

「打診されていたんですか?」

「そうですね。交渉の中で何度か。ただ、信一郎さんは家で取材することは頑なに拒まれてましたね」

 圭司の脳裏に夜子の言葉がよぎる。

 何かを隠している。

 当時から、そうだったのだろうか。

「見られたら何かまずいものでもあったりしたとか」

「……いえ、むしろ、信一郎さん自身が家に帰りたくない。そんなご様子でした」

「家に帰りたくない、ですか」

「ええ。理由は分かりませんが」

 ──家に招くこと自体は構わないが、私があの屋敷にあまりいたくないのでね。

 信一郎はそう言ったという。

 何かに怯えるような様子だったと、奈緒子は付け加える。

 更に、奈緒子は話を続けていく。

「そうしてはいけないと思いつつも、初めて会う時は二人そろって委縮していましたね。ただ、信一郎さんはとても親切な方でしたね」

 信一郎は博美と奈緒子が緊張をしていることをすぐに察したという。

 緊張が解れるように諸々の気を回してくれたことが印象的だったと奈緒子は言った。

 圭司は、奈緒子が語る信一郎の姿を信じることができないでいた。

 最も、彼は招かれざる客ではあったのだ。いわば外敵に向けた姿である。

 そうした、気さくなビジネスマンの姿が、本来の信一郎の姿なのであろう。

「博美と私と話す時の信一郎さんはとてもリラックスされている様子でしたよ。家より、会社にいる方が落ち着くと」

「そこまで仕事が好きだったんですかね。家族関係に問題があったとか……?」

 圭司は信一郎に二度会っている。奈緒子の言うことは、とてもではないが信じることが出来なかった。

「分かりません。ただ、ご家族の仲は良さそうでしたよ。ご婦人──三代子さんとも一度話したことがありますが、信一郎さんを悪く言うような感じはしなかったです。」

「家に帰りたくない理由、見えてきませんね。取材の様子はどうでした?」

 今度は涼が尋ねる。

「取材自体は滞りなく進みました。詳細は省きますが、記事にしているような内容を中心にお話を伺いましたね。ただ、一つだけ気になったことがありまして。六原家の事業のルーツについて伺っていた時に、信一郎さんがこう言ったんです」

 ──御宗家。

「無意識に口に出てしまった、という感じでしたね。その後訂正されていましたから。眼の隈もひどく、とてもお疲れの様子でした。ただ、その言葉は気になりましたね」

「その、どの点が気になったのですか」

「簡単に家系図の話もお聞きしたのですが、六原家自体がどこかの分家筋ということはないのです。なので、宗家、というのが何を指すのかというのが分からなかったのです。変な話ですが、六原家自体が、本家みたいなものだったので」

「それについて詳しく調べたりなさったのですか?」

 涼が更に尋ねる。

「取材の中で、一度信一郎さんに尋ねましたが、はぐらかされました。そんなことを言ったかな、と。私はそれ以上深追いしませんでしたが、博美はなぜかとても気になったみたいで」

「博美さんが?」

「そうです。それが博美の良い所でもあったんですけどね。色々と調べていた様子でしたけど、結局、答えは分からなかったそうです」

「なるほど……」

 そう言うと、涼はメモを取る。これまでの奈緒子の話を整理している様子だった。

「ただ……博美が頻繁に出張に出るようになったのは、そのころでしたね」

「出張に、ですか。どちらへ?」

「行先は毎回異なっていました。埼玉や、栃木。後、茨城や群馬でしたね」

「関東圏内ですか」

 圭司は怪訝そうに尋ねた。

 奈緒子は頷く。

「ええ。出張の数はとても多かったですね。何かを探しているような様子でしたけど、ある日、ぱたりと止めてしまいました」

「その、六原のルーツを探っていたのでしょうか」

「さあ……関連はあったと思うのですが、結局、何が目的だったのかはよく分からなかったのですよね。出張の成果は、記事にも反映されていませんでしたから」

 何も無かったとは考え難い。

 森下博美は何かに気付き、何かを確かめるために、北関東を巡っていたことは間違いないだろう。

 彼女は何に気づいたのか。

「あ、そうだ。一つ思い出しました」

「何ですか?」

「確か、刻条家について調べると言っていたと思います」

 圭司と涼は顔を見合わせる。

「ねえ」

 涼が圭司に声をかける。

「博美さんが出張で回っていたのって、全部、北関東の県よね。刻条家のルーツも北関東じゃなかった?」

 譲の元で閲覧した『密室手帖』の冊子は借り受けていた。

 圭司は鞄から取り出し、ページをめくる。

「あった、これだ」

 刻条家は北関東にルーツを持つ。

 金井哲雄の原稿にはそう書かれていた。

「奈緒子さん、博美さんは刻条家について何か掴んだ様子はありましたか?」

 奈緒子は首を横に振る。

 涼は森下博美が執筆した記事を取り出した。

 改めて文章を追っていくが、刻条家と六原家について触れている様子はなかった。

「でも、何かしらの関りはありそうね」

 涼の言う通りだと圭司は思った。

 金井哲雄についてもそうだ。彼は刻条家に関する考察記事を出稿していた。

 森下博美についても同様だ。彼女は北関東で何かを調べていた。

 それが、何なのかは分からない。

 しかし、刻条家に関する何かを知ったことで、二人が殺されたとしたならば──。

「そういえば、奈緒子さんは三代子さんともお知り合いなのですか?」

 そう言ったのは涼だ。

「ええ。最近は話せてないけれど、とても気の良い方ですよね。先日、見かけたので、声をかけたかったのだけれど、私が急いでいたのでタイミングを逃してしまったわ」

「いつ頃の話ですか?」

「確か、十一月六日でしたね」

 十和子が殺害された日である。

「なるほど。それなら、三代子さんもその日、みなとみらいにいらっしゃったんですね」

「みなとみらい? いえ、違いますよ」

「え?」

「その日は、私は新宿にいたんです、三代子さんも新宿で見かけましたよ」

「新宿、ですか。……その、失礼ですが、見間違えではなくて?」

「いえ、間違いなく三代子さんでした。その日、彼女を新宿で見ました」

 二人が何度確認しても、奈緒子は、三代子を新宿で見たと言った。

 三代子は傍らに、知らない男がいた。

 そして、その男は信一郎では無かった。

 結局、その後は目新しい情報は得られず、二人は奈緒子と別れた。

 涼は夜子に連絡を入れる。

 涼はスピーカーにする。圭司への配慮だ。

「三代子さんが、新宿に……ね」

「はい。元々、みなとみらいにいたと証言していましたよね。三代子さんのご友人の証言もあったはずです」

「なるほど」

 夜子は暫し沈黙し、

「──恐らく、六原家の関係者は、十和子さんが殺された事件について嘘を吐いている」

 そう言った。

「それは……」

 涼は言葉を失っている。

「どういうことです?」

 圭司は強い口調で夜子に問う。

 ──この屋敷に、何を隠しているのですか。

 圭司は、夜子の言葉を反芻する。

 あの竹の中に、何があるというのだろうか。




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