幕間 前
ある女がこの星へ来てから随分と長い時間が経った。
女は人里離れた山奥にいた。
この星で自分を育ててくれた男女──両親死の傷を癒すためだった。
女は──女たちのような生き物は、食べずとも生きていける。
水や空気があれば問題が無かった。
それらがなくとも、数十年は生きるに支障が無かった。
だから、山の中で一人生きていくことは、女にとっては造作の無い話だった。
存外、山の居心地は悪くなく、このまま山の中で朽ちるまで居ても良いとさえ思っていた。
それでも、女は街へ戻らなければならないと思った。
両親の教えに背くことは出来なかった。
女は、両親が亡くなってから数百年ほど山奥にいた。
彼女にとっては瞬き間である。
しかし、ほんの数百年程度だったが、人里の光景は随分と変わっていた。
山では、四季によって風景が変わる。
木々の色の移ろい、外気の変化──それだけで、女が退屈することはなかった。
ただ、人の街は、それ以上の刺激に満ちていた。
関係性、街、娯楽──人が作るもの、その全てが目まぐるしく変化していく。
人が生み出すものは、その存在そのものが覚束ない。
少し目を離せばすぐに消えていく。
永遠の中に生きていた女たちの世界とは全く異なっていた。
だからこそ、故郷の者たちは、この星は愚かで穢れていると言った。
女は、それに賛同することはできなかった。
その儚さこそが美しく、愛おしいものだと思っていたからだ。
ある日のことだ。
街の往来の端に人だかりが出来ていた。
男と女が喋っている。芝居をしている様子だった。
子供や大人がそれを囲み、男の言葉を今か今かと待ち望んでいる様子だった。
皆があまりにも真剣に聞いている。
どんな話をしているのかと気になって、女は足を止めた。
竹の中から拾われた、あるお姫様の話だった。
姫は地上で父と母に拾われて育っていった。
成長し、大人となって、地上の皇子たちから求婚を受ける。姫はあらゆる難題を課してそれらを退け、最後は自らの故郷へと帰っていった。
脚色されている部分も多かったが、それは──女が元になっている物語だと分かった。
ただ、女は、筋書きに関して言いたいことがいくつかあった。
まず、そもそも彼女は故郷へ帰ってはいない。
父と母が亡くなり、隠遁することにした。
表社会から姿を消したことは事実だが、この星へ来て以来、故郷へ戻ったことは無かった。
それに、そもそも求婚を受けた皇子が少なすぎた。
難題を課した女の人格も、問題があるようにも描かれていた。
事実は時間の中で希釈され、人々に受け入れやすいフィクションとなって伝わっていたのだ。
──その時間は、彼女にとってはたかだが数百年程度に過ぎない。
その程度の時間で、人は事実を伝え残すことさえ叶わない。
人の寿命は短い。
だからこそ、過去にあった事実を正しく伝えていく仕組みが必要なはずだ。過去に正しく学び、未来の過ちを絶つ。種族として人間が成すべきことは、一時のフィクションを紡ぐことではない。個体の命に限りがあるからこそ、人は、正しい事実を知るべきなのだ。
ゆえに、女の同郷の仲間たちは、この星の人々を愚かだと言った。
往来で彼らが聞いている女の物語は、元の事実は盛り込まれている箇所もあったが、言ってしまえば整合が取れた嘘に過ぎない。
嘘を聞き、心を躍らせる。
瞬間の快楽に身を任せ、己の感情を隠そうともしていない。
そんなことをしている暇は無いはずなのだ。
愚かで穢れていると、この星の人々を評する気持ちを、一部は理解することが出来た。
しかし、彼女は──それゆえに、この星の人々が愛おしいと思った。
彼女の父と母がそうだった。
両親は、間違いなく人々を愛していた。
困っている者には必ず手を差し延べていた。自らの労力を顧みず、他人を助け続けていた。
救ったものに、裏切られようとも、両親が変わることは無かった。
確かに、ある側面で見れば、その営みは愚かなものだったのだと思う。
ただ、女はその在り方を、気高く美しいと思ってしまった。
報われなくとも、己の決めた思いを遂げようとする。
故郷にはそういうものもいた。
永遠に等しい時間が与えられているからこそ、己の信条に従って生き続けるものもいた。
そうした生き方が功を奏して、技術や社会の発展に寄与するものがいた。
しかし、それらは限りない時間があってこそのものなのだ。
だというのに、父も母も──与えられた時間が限りなく短いはずなのに。
なぜそんなことをするのかと問うたことがある。
父も母も、命が限られているからだと答えた。
──だからこそ、女は人を愛することにした。
父と母と、同じように生きることにした。
この星では、短命さゆえに、彼らが生きてきたことは正確には残らない。
女は、それならば自らが、彼らのやってきたことを遺そうとした。
この星の人を助け、救い、手を差し伸べることにしたのだ。
彼女の両親がそうしてきたように。
女はそれしか知らなかった。
女は両親がそうしたように生きることしかできない。
だから、女は、人々を愛するという形でしか接することが出来ない。
しかし、それが間違っているとは思わなかった。
空に浮かぶどんな星々よりも、その在り方が、美しく気高いものだと確信していたから。
──女は芝居を眺めていると、不意に声かけられた。
「あんた、このあたりでは見ない顔だが名前は何て言うんだ?」
筋書きはほぼ嘘だったが、女の名前は正しく伝わっていた。芝居の題名にもなっている。
それゆえに、彼女は自分の名前をそのまま名乗ることが憚られた。
まさか本当に生きていたとは思われまい。
彼女のような存在はまだ認められていない。
だから、名乗ったところで、何かが暴かれる心配も無かった。
差しさわりがあるとすれば、自分が奇異の眼で見られるくらいのこと。
紙芝居の主役の名前を名乗るなど、気が触れたか、本名を隠しておきたいかのどちらかである。
しかし、後ろ暗いことは何もないとはいえ、女は変に目立つことも避けたかった。
何と名乗ろうか。
どんな名前が良いだろうか。
しばし思案する。
逡巡の末、女は──夜子と名乗ることにした。
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