一幕 竹より出ずる

「死体をバラバラにする理由って何だと思う?」

 夕食の席で、衣笠葵は、初城圭司へ向けてそう言った。

 圭司は何のことだと首をかしげる。

「何の話?」

「あれ」

 葵はリビングにあるテレビを指さす。

 夜のニュースが流れていた。

 アナウンサーが事件の概要を読み上げている。

 去年──二〇一六年九月に、本山啓介という若手社長が殺害された。彼の遺体はバラバラとなって発見された。

 特徴的なのは、バラバラにされた死体が古びた竹の籠に詰め込まれていたことだ。

 遺体の発見現場に犯人の痕跡はなく、一年経った今でも犯人は見つかっていない。

 物騒な話だ、と圭司は思った。

 近頃、圭司の自宅の周囲でも不審者の目撃情報が出ていた。

 マンションの中に押し入ろうとした、という話も聞いている。

 ニュースや小説の中だけだった殺人事件の話が、身近に迫っている。圭司はそう感じていた。

「ああ……というか、折角の恋人との夕食で、そんなことを話題にするかね」

「良いじゃん。こういう話題は好きでしょ?」

 否定はできない、と圭司は思った。

 葵は早くしろと言わんばかりに、前髪をいじる。彼女のショートカットの黒髪は活動的でさわやかな印象を与える。

 圭司は食事の手を止め、葵の問いを考える。

 すぐに思いつくのは怨恨の線だ。

「それは、やっぱり、恨まれていたんじゃないか。この本山啓介って人は社長だったんだろ? 社長をやるほどだから、大なり小なりさ」

「なるほどね……でも、違うってさ」

 アナウンサーは、圭司に答えるように、啓介が人間関係のトラブルを抱えていなかったことを告げた。

 ゆえに、捜査が難航しているのだと。

 警察は通り魔的な犯行も疑っている、とアナウンサーは言っている。

「それなら、隠蔽が目的だったとか。例えば、被害者の体に犯人を特定できるような何かが付着して、それを隠すため、とか」

「それは推理小説の読み過ぎじゃない?」

「まあ……それもそうか」

 仮に隠蔽したかったとしても、その目的は果たされていない。

 死体は見つかっており、大々的な捜査網が敷かれている。本末転倒である。

「……分からないな」

「そうだよね」

 圭司は食事へ戻る。

 テレビのニュースは終わり、天気予報へと変わっていた。

「まあ、でも……私は合理的な理由なんて無い、というか想像できないと思う」

「どういうこと?」

「人殺しの考えなんて分からないってこと」

 人なんて殺したことが無いんだから。

 葵はそう続けた。

 人を殺したことが無い人間が、人を殺す気持ちを──まして、殺した後に死体を解体する動機など分かるはずがないのだ。

 葵の常識の中で、人は殺さないものである。

 ましてや、死体は丁重に弔うものだ。

 ゆえに、そうではない人間の常識など分からない。

 自分が、そういう世界しか知らないから。

 自分はそれしか知らないのだから。

 これが、葵の話だった。

「……分かるような、分からないような」

「うーん、例えば! 圭司君は、身内のお葬式の時、火葬にする? 土葬にする? 法律も何も考えなくて良い。どちらでも選ぶことが出来る。そんな時に、今の圭司君はどっちを選ぶ?」

 圭司は自問する。

「そりゃあ……火葬じゃないか」

「それは何で?」

 何故、と圭司は自問する。

 土葬は衛生上の懸念がある。

 埋葬のスペースが無い。

 そうした、合理的な理由が真っ先に思いつく。

 だが。

 仮にそうした条件がクリアされたとして、自分は土葬を選ぶだろうか。

 答えは、否、だ。

「言葉にするのは難しいけど、何となく、抵抗がある。ずっと火葬で弔ってきた死体を、何もしないまま土に埋めるのは、違う気がするな」

「そうだね。まさに、私が言いたかったのはそういうことなんだよ。私たちは火葬で弔う世界しか知らない。土葬で弔う世界を知らない。だから、土葬に抵抗がある。だから、仮に合理的な制約がクリアされたとしても──私も、死者を弔う時には火葬を選ぶと思う」

「まだ、何を言っているのかよく分からないぞ」

「うーん……じゃあさ、北センチネル島の話は知っている?」

 インド洋に浮かぶ未開の島のことだ。

 島の住民は排他的で、外部から接触しようとした人間が殺害される事件も起きている。

「彼らにとって、実態がどうあれ、島に近づくものは外敵に他ならない。自らの生活を守るために、島に近づく部外の人間を殺す。島外の人間にとってはただの好奇心に過ぎないとしても、島の住民にとっては関係の無い話だよね」

 圭司は、葵の言わんとすることをようやく理解できた。

 法律などを無視すれば、人間は何でもすることが出来る。極端なことを言えば、殺人は法律で禁止されていない。殺人を行えば、罰せられるという法律が存在するだけだ。

 禁止されていないとはいえ、普通、人を殺すことをしない。

 それは、その人の中で、殺人という選択肢が存在しないからだ。

 生きていく過程で形成される常識の中に、殺人を行うという選択肢が存在しないのだ。

 常識の材料には、友人や両親、学校や職場といった様々な要素があるだろう。

 外部の影響を受けながら、内省し、殺人が良くないことだと認識する。

 だから、人は人を殺さない。

 人を殺さない世界しか知らないから。

 逆ならばどうだ。

 人を殺す世界しか知らない人がいたならば──。

 ──それこそ、考えるだけ無駄だろう。

 人殺しの気持ちは分からない。

「なるほどね、葵が言いたいこと、分かった気がする」

「本当?」

「本当だよ」

 圭司の疑問は氷解した。

 情報技術の発展によって、自分たちの世界は広がった。今後も、どんどん広がりを見せていくだろう。

 しかし、それでも人は、人の持つ常識以上のものを知り得ない。

 自分達は結局、己が紡いできた常識に縛られて生きている。

 葵の解答に対する、圭司の所感がそれだった。

「葵のそういうところが好きだ」

 葵との突拍子もない会話が、圭司は好きだった。

「何、いきなり?」

「いや、何となく」 

「浮気でもした?」

「してないって」

「知ってた。圭司君、私のこと、大好きだもんね」

「うるさい」

「はいはい。照れるなって。それより、ご飯早く食べちゃってね。今日は私が片付けの当番だから」

 圭司は葵の皿を見る。夕食に作った麻婆豆腐は綺麗に無くなっていた。

 自分の更には、麻婆豆腐がまだ半分以上も残っていた。

 圭司は慌てて、麻婆豆腐をかき込んだ。

「ご馳走様」

 圭司はシンクへ食器を持っていく。葵は既に、自身の食器を洗い始めていた。

「ありがとう」

「いーえー。当番だからね」

「……あのさ」

「うん?」

「あの件、考えてくれた?」

「あー……」

 圭司は二週間ほど前に葵へプロポーズしていた。

 葵は、その返事を保留にしていたのだ。

 その理由を、圭司には告げていなかった。

「嫌ってわけじゃない。嬉しかったよ。本当に。……でも、もう少し考えさせてほしい、というか、待っていてほしい……かな」

「……分かった」

 圭司は頷く。

 葵が何に引っかかりを覚えているのか、彼には分からなかった。

 嫌われた覚えはない──と思う。

 嫌われていたのならば、そもそも別れ話を切り出されるはずだ。

 彼女の懸念が何なのか。

 収入か、家族か、あるいは他の何かだろうか。

 ただ、それもはっきりと言ってくれれば良いのにと思っていた。

 そうすれば、どうするべきかを相談できる。話し合うことができる。

 まるで、何が問題なのか分からないまま、解答を求められている気分になっていた。

 かぐや姫の難題以上だ、と圭司はそう考えていた。

「それじゃあ、明日、早いから、私は先に寝るね」

「ああ、おやすみ」

「おやすみ」

 洗い物を終えた葵は、部屋へ戻ろうとする。

「圭司君」

「ん?」

「──もし、私が人を殺したら、どうする?」

 唐突な葵の質問に、圭司は何も答えられずにいた。

 目の前にいる最愛の女性が人を殺した時。

 自分はどうするだろうか。

「……馬鹿なこと言ってないで、寝なよ」

「……それもそうだね」

 葵はそう言いながら部屋の扉を閉める。

「圭司君、いつもありがとう、大好きだよ」

 その言葉を最後に、彼らの日常は終わりを告げた。



  * 

 


 翌朝、葵から届いたメッセージを見て、圭司は飛び起きた。

 

『家を出て行きます。やるべきことがあるからです。』

『今まで楽しかったです。』

『ありがとう、そして、ごめんなさい。』

 

 圭司は何かの冗談だと思いながら、自分の部屋を出る。

 葵と圭司は2LDKの部屋を借りていた。

 南側に圭司の部屋があり、リビングを挟んで北側に葵の部屋がある。

 リビングに葵はいなかった。彼女の部屋へ行くが、そこにもいなかった。

「なんで……」

 圭司は二週間前、十月二十二日に葵へプロポーズをしていた。

 二人は、三年前──二〇一四年夏の同人誌即売会の会場で出会った。

 圭司はオカルト関連のライターを生業としている。

 本業の傍ら、怪異や陰謀論等を蒐集し、同人誌にまとめていた。

 数は少ないが、根強いファンが付いていたのだ。

 新規読者が頻繁に増える界隈ではなかった。そのため、圭司は、読者の顔は皆覚えていた。

 だから、その日も、見覚えのある顔が来ると思っていたし、事実そうだった。

 葵だけは違っていた。

 最初、圭司は見間違いかと思った。

 そもそも女性が買うことが稀であった。大半が男性客であったため、リピートするような女性客であれば忘れるはずがない。

 先に声をかけたのは葵の方だった。

「この、異星人に関する考察、面白いです」

「あ、ありがとう……。君、初めてだよね?」

「はい! 先生、『密室手帖』にも寄稿していましたよね? それから、ずっとファンなんです。先生、良かったら今度お茶でもしませんか?」

 圭司が、葵に惹かれるまで時間はかからなかった。

 ただ、交際に踏み切るまでは一年ほどの時間がかかった。

 葵は圭司の告白を何度か断っている。

 しかし、圭司も諦めることはしなかった。

 三度目の告白で、葵は根負けしたのか、圭司との交際を了承したのだ。

 二年前の四月のことである。

 それから、更に三ヶ月ほどの交際を経て、同棲に踏み切った。

 東急東横線白楽駅最寄りのマンションを選んだ。

 白楽駅から六角橋の方へ十五分ほど歩かなければならなかったが、立地や部屋内の設備を加味すると破格と言える条件だった。

 更に一年ほど交際し、圭司は葵へプロポーズした。

 場所は、みなとみらいの赤レンガ倉庫の前だった。家の近所でもあり、二人にとって行き慣れた、思い出の場所であった。

 しかし、葵は圭司のプロポーズを断った。

 ──今はそのタイミングじゃない。

 葵はそう言った。

 ほんの、二週間前のことだ。

 葵の真意は分からなかった。

 ただ、彼女の中で、結婚というものに対して何か折り合いがついていなかったのだろう。

 価値観の違いは出たが、順風満帆な交際を続けている。

 そう考えていた。

 だからこそ、圭司は葵からのメッセージに驚愕した。

 メッセージアプリから葵へ通話を試みる。しかし、葵はスマホの電源を切っていた。

 葵が、姿を消した。

 動揺と驚愕は、徐々に疑問へ変わっていく。

 なぜ、葵はこんなメッセージを送ったのだろうか。

 昨日までは、何も変わっていなかった──様に思う。

 愛想を尽かした、ということでもないのだろう。

 もし本当に愛想を尽かしたということなら、こんなメッセージは寄こさないはずだ。もっと簡素で、あるいは何も残さずに荷物だけをまとめて、消えればいい。

 葵の意図は何だ。

 そこまで考えて、圭司はふと我に返る。

 やるべきこと、とは何だろうか。

 仕事ではないのだろう。

 葵はメーカーで総務関係の職に就いていると言っていた。

 ただ、熱心に働いている様子は無かった。

 よくある、ワークライフバランスを重視しているように見えた。彼女が遅くまで残業をしている姿を、圭司は数えるほどしか見ていない。

 あるいは、自分が認識していないだけで、熱中していた仕事だったと考えることもできる。

 しかし、それは、家を出て行ってやるほどのことなのだろうか。

 秘密が、目の前にある。

 圭司は元々、気になった秘密を放っておけない質だった。

 学校で気になったことがあれば、先生にとことんまで話を聞いた。それでも分からなければ、翌日早朝から図書館に行った。そして、閉館まで出てくることはなかった。

 生まれ育った環境がそうさせたのだろう。

 研究者として働いている父親の姿を思い出す。

 圭司は、自身の好奇心が高じて、人間関係を壊すこともあった。これまでは、自分の性質を抑制していた。

 ともあれ、今はそれが仕事や趣味に活きていることも事実である。

 決して裕福な生活は出来ていない。

 それでも、圭司は今の仕事に満足していた。

 圭司がやっていることは昔から変わらない。気になった謎を追う。秘密を明らかにする。

 ──今回も、同じだ。

 気になるなら、調べれば良い。

 分かるまで追っていけば良い。

 なぜ、葵がこんなことをしたのか。こんなメッセージを送ってきたのか。そのためには、葵のことを知らなければならない。

「ごめん」

 圭司はそう呟いて、棚の引き出しを順番に開けていく。化粧品、薬、小物、ぬいぐるみ。不自然なものはない。

 更に、並んでいる手帳、雑誌、小説──端から一つ一つ開いていく。

 雑然と置かれたクリアファイルの中身も見ていく。

 不自然なものは何も見つからない。

 次に目についたのはクローゼットだった。

 ハンガーにかかった服装は代り映えの無いものだった。圭司の目についたのは、ハンガーの下に置かれている衣装棚だった。

 一つ一つ開けていく。

 棚の中に手帳が入っていた。

 やや古ぼけているが、どこにでも売っているような小さな手帳である。

 めくってみるが、最初のページには何も書かれていない。

 次も、その次のページにも何も書かれていなかった。

 そのまま、最後のページまでめくっていく。

 一枚の写真が、圭司の足元に落ちた。

 日記の写真だった。

 筆跡は葵のものではない。葵ではない、誰かの日記を撮影した写真だった。

 その日記には、『また異星人を殺すことが出来た』と書かれていた。



  *



 葵の部屋で写真を見つけた後、圭司は衣笠京子──葵の母親へ連絡を取ることにした。

 同棲前に挨拶をしたことがあり、その後も葵を交えて何度か会ったことがある。

 今回の件で、実家に何か連絡がなかったか。

 京子自身は葵の行方を知らないか。

 ──あの日記は何なのか。

 スマホを取り出し、連絡先の一覧から京子へ電話をかけた。

「ご無沙汰しています、初城です。今、お時間よろしいですか?」

「あら、圭司さん。どうしたの?」と、京子が答える。

 日記の件は京子には伏せ、葵が姿を消したことを話した。

「ああ、葵なら今朝私にも電話があったわよ」

「どんな内容でした?」

「しばらく仕事で連絡が取れないけど心配しないで、って」

 葵は、連絡が取れる状況にはあったと言うことか。

 誘拐や拉致の線も疑ったが──その線は薄くなった。

 少なくとも葵は自分であのメッセージを送り、母親に対しても似た様な連絡をしていたということだ。

 彼女自身が無事ならばひとまず安心ではある。

 しかし、謎が解けたわけではない。

「京子さん、今から実家へ伺っても大丈夫ですか?」

「え? ええ、それは大丈夫だけど……どうして?」

「……説明が難しいので、詳しくは伺ってから」

 分かったと、京子が言った。

 電話を切ると、圭司は家を出る準備を始めた。


 葵の実家は埼玉県の栗橋駅の最寄りにある。

 白楽駅から横浜駅へ向かい、JRへ乗り換える。上野東京ラインに乗り込み、一時間半のところに栗橋駅はある。

 圭司は栗橋駅を降りると、東口へ向かった。

 途中、左手に巴御前縁の地というポスターが大きく貼ってある。

 しかし、どこの何が縁なのか、圭司には全く分からなかった。

 葵の実家は栗橋駅から徒歩で五分ほどの所にあった。

 二階建ての一軒家で、庭も広い。横浜の狭い敷地に慣れた圭司にとって、衣笠家の広い庭は新鮮だった。周囲を見てみると、マンションも少なく、建物も全体的に背が低い。

 ──将来、葵と住むなら、こういう所も良かったのかもしれないな。

 そう思いながら、インターホンを鳴らす。

 数秒して、京子が圭司を出迎えた。

「お久しぶりです」

「久しぶりね、いらっしゃい」

 上がって上がってと、京子が言う。

 圭司はリビングへ通された。京子に促され、圭司はテーブルに着く。京子はそのままキッチンの方へ向かった。

 少し経つと、京子はお茶とクッキーを持ってリビングへ戻ってきた。

「簡単なものでごめんなさいね」

「ああ、いえ、お構いなく」

「それで、今日は突然どうしたの?」

「これを」と言いながら、圭司は写真を見せた。葵の部屋で見つけた写真である。

 

「この写真の内容と、僕に届いたメッセージ……僕は葵さんが何か秘密にしていることがあって、それによって今回姿を消したんじゃないかと思っています」

 京子は黙って圭司のことを見つめている。

「僕は葵さんがなぜそんなことをしたのか分かりません。だから……」

「だから、葵の実家を訪ねてみれば、何か分かるかもしれないってことかしら」

「そうです。不躾なお願いだとは思ってます。でも、僕は、僕の恋人がなぜこんなことをしたのかを知りたいんです。だから、どうかお願いします」

 京子は眼を瞑り、しばし考えた後、こう言った。

「正直、今回の件については、私も思い当たる節は何もないの」

「それでも、何か分かりませんか?」

「……私もあの子のことを全部知っているわけではないのよ。でも、あの子の部屋を見れば何か分かるかもしれないわ」

 京子は立ち上がり、リビングを出る。促され、圭司も後に続いた。

「あの子の部屋は二階にあるの。部屋に入ろうとすると、いつもすごく怒るのよ」

 階段を上りながら京子が語りかける。

「最初はね、子供なんて親が部屋に入ったら怒るものだと思ってたわ。私もそうだったしね。でも、こんなことになるなら、もしかしたら──」

 ──あの部屋に、何かを隠しているのかもしれないわね。

 京子はそう言った。

 階段を上り切り、突き当り右手の部屋の前に立つ。

 扉には竹のリースが飾ってある。

「この部屋が葵の部屋よ」

 葵の部屋はそれほど広くはなく、何か目立った特徴のある部屋では無かった。

 ベッドがあり、本棚があり、学習机があり、クローゼットがある。

 棚や机に置かれた小物は、圭司が知っている葵の好みとは異なっていた。

 葵が住んでいた頃のまま、この部屋の時は止まっている。

「失礼します」

 圭司はまず本棚を見た。

 宇宙関連の本や、異星人関連のオカルト雑誌──そうした好みは圭司と出会ったところから変わらないように思えた。

「葵さん、『かぐや姫』が好きだったんですか?」

 本棚の中で異質だったのは『かぐや姫』の絵本だった。

 他に『竹取物語』の解説書が並んでいる。

「ああ、懐かしいわ。あの子、絵本の中でかぐや姫が一番好きだったの。小さい頃、読み聞かせすると、とても喜んでいたのよ」

 圭司はその事実を知らなかった。

 可愛らしいなとも思う。

 それは、圭司が知らない葵の一面だった。

 京子に断りを入れ、クローゼットを開ける。

「懐かしい、この服も買ってあげたわ」と京子が言った。

 中に衣装棚の様なものは無く、ハンガーにかけられた服以外には見つからなかった。

 圭司は次に机の引き出しを開けた。

 そこに、竹製の小さな箱があった。

 箱の中には何も入っていない。

「これ、何が入っていたか分かります? 何か他に関係ありそうなことでも……」

「いや、どうかしらね……うーん、あ、そうだ」

「どうしました?」

「ちょっと前に葵が家に帰って来たのよ。すぐに出て行ったけど。それでどうしたのって聞いたら、忘れ物を取りに来たって」

「忘れ物?」

「ええ。鍵を忘れたって言っていたの」

 同棲しているマンションの鍵では無いだろう。

 葵は一体何の鍵を取りに来たというのだろうか。

 また、箱自体にも奇妙な点がある。

 表面に彫られた文様である。

 笹あるいは、竹の紋様に思えた。

「これ、預かって良いですか?」

 京子は頷く。

 その後、葵の部屋から変わったものは見つからなかった。

「すみません、今日はありがとうございました」

「いいえ、大丈夫よ。……あ、そうだ、これ。何かの役に立つかもしれないから」

 京子はそう言いながら、圭司へ名刺を渡す。

「私の友達に紹介してもらったの。変わった方らしいけど、人探しなら、役に立つかなと思って。勘が良い人らしいのよ」

「ありがとうございます」

 明野夜子という女性の名刺だった。

 その職業は──探偵、と書いてあった。



  *



 圭司は栗橋駅から上野東京ラインに乗り込み、横浜へと向かった。

 鞄に入れた写真を取り出す。

 葵の部屋で見つけた写真である。そこに書かれた文章を見つめる。

 筆跡は葵のものではない。彼女が、どこかで見つけた誰かの日記のように見える。

 異星人を殺した。

 どこかの誰かが、それを遂行した。そして、少なくとも書き手本人はそう思い、日記に残したのだ。

 ──異星人。

 圭司は、オカルト界隈に精通している方だ。だから、異星人という名前を目にする機会も多いし、人よりも造詣が深い。

 その発端は五十年前に遡る。

 当時、アメリカ合衆国のカリフォルニア州で異星人の死体が発見された。

 NASAが大々的に発表したのである。

 カリフォルニア州で農作業をしていた男性が、隕石の落着を目撃した。落着地点と自宅が近かったので見に行ったところ、そこには異星人の輸送船と思しき物体があったという。

 男性は警察を呼んだが、それは彼らの手に負えるものではなかった。

 騒動は、政府や軍までを巻き込んだ事態へと発展していく。

 最終的には、NASAが『異星人の輸送船であり、異星人が地球に飛来した証左である』という結論を発表した

 それが、熱狂を引き起こした。

 彼らが発表した資料に対して、各国から問い合わせが相次いだ。異星の技術による、人類の発展を、一般市民を含めた誰しもが望んだのだ。

 だが、NASAは機密事項として、輸送船や異星人の遺体──それらの実物を決して公開しようとはしなかった。

 異星人の情報を独占することによって、自国の優位性を確保しようとした。

 しかし、異星起源の技術は、その解析に難航した。

 結局、アメリカは異星人の技術を解析できなかった。少なくとも、異星起源の何かによるブレイクスルーは起きなかった。

 彼らは、技術解析のために更なるサンプルを望んだ。

 しかし、その日以来、異星人が地球へやってくることは無かった。

 やがて、人々は異星人のことを忘れていった。

 この異星人騒動は、今となってはアメリカによる各国へのけん制、という線が通説だった。

 一九六〇年代といえば、冷戦の真只中でもあった。

 そして気が付けば、異星人の話題は、一部の人間の娯楽へと変わっていった。

 好事家に向けた陰謀論の類。

 そのはずだった。

 ──また異星人を殺すことが出来た。

 殺した、とは何だろうか。

 異星人を見つけた、異星人に出会った、という文章ならば、まだ理解できた。

 殺した、というのは飛躍が過ぎる。

 仮にこの日記の書き手が陰謀論者だったとして、邂逅した異星人を殺害するものだろうか。

 まずはコミュニケーションを図り、仲間内へ喧伝するのではないか。

 死体ならばどうとでもでっち上げることが出来る。信ぴょう性が無い。

 だからこそ、異星人の生体が重要ではないのだろうか。

 生きた異星人を確保し、異星人は実在したのだと堂々と宣言すれば良いはずだ。

 あるいは。

 どうしても殺さなければならない理由があったのだろうか。

 また、という文言も気になる。

 書き手は複数の異星人を殺したのだろうか。

 彼、あるいは彼女が、そうまでして異星人を殺さなければならない理由とは何だったのだろうか。

「間もなく、横浜」

 アナウンスが流れる。

 圭司は財布から明野夜子の名刺を取り出した。

 名刺には横浜市の住所が書いてある。 

 時計を見ると、時刻は午後三時を回ろうとしている。

 栗橋を出て一時間近く経っていた。

 鍵の紋様が何を指しているのか、手元のスマホで調べた範囲では分からなかった。

 この名刺に希望を託すしかない。

『明野探偵事務所 所長 明野夜子』

 京子の友人はこの探偵に助けられたと言っていた。

 探偵はどんな人物だろうか。

 そんなことに思いを馳せていると、電車は横浜駅に着いた。


 夜子の事務所は鶴屋町にあった。

 JRの改札を抜け、横浜駅の西口へ向かう。

 人ごみを避けながら、駅の外へ出た。

 モアーズを脇に見て、鶴屋橋を渡る。進んでいくと、環状一号線に突き当たる。その手前で右手に進む。しばらく歩いたところの雑居ビルの二階に、探偵事務所は入居していた。

 インターホンの様なものはなかった。

 階段を上り、ドアをノックする。

 返事は無かった。

 意を決してドアノブを回す。

 鍵はかかっていなかったようで、ドアは開いた。

 事務所は十八畳程度の広さで、部屋の奥には横長のデスクと書棚があり、その手前には応接用のソファとテーブルがあった。

 ソファには少女が座っていた。

「いらっしゃい。明野探偵事務所へようこそ。私は所長の明野夜子」

 圭司が想像していた夜子は、壮年の婦人だった。

 京子が頼れる人だというくらいだから、ある程度は年を重ねているだろう──と、そんな人物を想像していた。

 実際に目の前に現れた探偵はどうだろうか。

 声には落ち着きがある。高くもなく低くもない声で、相手に安心感を与える。

 抑揚はやや平坦で明るさには乏しい。

 しかし、それは相手へ落ち着いた印象を与えることの裏返しでもあった。

 圭司が面食らったのは、探偵の出で立ちが少女のそれだったことである。

 年齢は十六程度で、中学生から高校生程度に見える。特徴的なのは非常に長く、そして綺麗な黒髪だった。肩を越え、腰に届くほどの長さだった。

 少女の顔立ちは整っている。それどころか、目を引く程の美女であることに間違いはない。

 着物を着崩しながら膝を立ててソファに座っている。

 その様は危うく、目のやり場に困るものだった。

「あ、あの……」

「初めまして。君の名前は?」

「初城圭司、です」

「初城圭司ね。それなら、圭司君かな。私は夜子で良いよ」

 夜子は、初城が考えていたよりもフランクに接してきた。

「さて、今日はどんな用件かな? 人探しだったりして。──それも、恋人かな?」

「……確かに、そうですけど……。なぜ分かったんですか?」

「まず、ここは基本的に依頼人の紹介でしか場所を知ることはない。私も人の紹介でしか仕事を請けないしね。それにホームページも無いし、広告も打ってないからね」

 確かに、インターネットで明野探偵事務所と検索してもヒットはしなかった。

「私への依頼は人探しが多いんだよ。最近もそんな仕事ばかりだったしね。お客さんが私を紹介する時、人探しの実績と一緒に、私のことを紹介するはずだ。君もそうなんじゃないかと踏んだわけだよ。それと、もう一つ」

 夜子は更に言葉を続ける。

「圭司君、年は大体二十代半ばから後半くらいかな? それで、服装も持っている鞄も流行のもの。高くはないけど、しっかりしたブランドのものを身に着けている。統一感もある。ただ、ヘアセットまでは行き届いていないように見えるね。」

 夜子の見立ては正しい。

 装いのちぐはぐさは、圭司も自覚している。

「お洒落に気を遣うタイプなら、身に着けるものだけじゃなくて、自分自身にも気を配るはずだ。そこで、圭司君自身はお洒落に無頓着な方なのかなと思ったわけ。だね。だから、君が身に着けている服は恋人か友人か、はたまた家族に選んで貰ったもの、あるいはプレゼントして貰ったものなんじゃないかなと考えた」

 確かに、と圭司は内心頷く。

「けど、なぜ恋人を探していると分かったんですが?」

「んー、勘、かな」

 ──勘が良い人らしいのよ。

 圭司は、京子の言葉を思い出す。

「私、生まれの関係で、第六感が冴えているんだよね。だから、君は人探しでここにきている。だから、あなたには恋人がいる。だから、あなたはいなくなった恋人を探しにここに来ている。そう思ったんだよ」

 夜子はそう言いながら、初城を真っすぐに見つめた。

「直感だけどね──間違っているとは思えない。どうかな?」

「……合ってます」

 夜子は笑っている。

「じゃあ、ほら、座ってよ」

 夜子に手招きされ、圭司は黒のソファへ座る。

「改めて。ようこそ、明野探偵事務所へ。君の依頼について、詳細を教えてもらえるかな?」

「その、受けてくれる依頼に制限はあるんですか?」

「別にないよ。依頼人の望むままに、依頼を完遂するよ。──ただ、一つだけ条件がある」

「条件?」

「困りごとを何としても解決したいという、依頼人の強い気持ちだよ」

「強い、気持ちですか」

「そう。規則や文化に囚われず、手段を選ばず。なりふり構わずに事態を解決させたいという強い意志だよ。私は、そういう人間こそ、全力で日常に返してやりたいと思う」

 夜子は更に続ける。

「難題を解くために必要なのは、己の強い想いに他ならないからね」

 強い想い。

 ──それならば、問題はない。

 圭司は夜子の言葉に力強く頷き、葵が残した写真を夜子へ渡しながら、これまでのことを話した。

「ふーん、異星人を殺した、ね」

「写真の詳細はまだ何とも難しいけど、葵さんが持っていた竹の箱。その紋様を特定するのはそこまで大変な作業じゃないよ。気になるのは──」

 この写真の日記だと夜子は言う。

「異星人を殺したっていうのが、どうもねえ」

「何かあるんですか?」

「いや、まあ、なんていうのかな」

 先ほどまでの様子とは打って変わって、夜子は随分と歯切れが悪かった。

 圭司は不審に思う。

 彼女は何かを隠しているように見える。

「夜子さん、教えてください。何が気になるんですか?」

 夜子を更に問い詰めようとしたところ、事務所のドアが開く。

 圭司が振り向くと、男性が立っていた。

「失礼、来客でしたか」

「ああ、いいよ。上がって」

 夜子は入り口に向かって手招きをした。

 男性が事務所の中へ入る。圭司と目が合うと軽い会釈をする。

「康介君、お疲れ」

 男性は最上です、と圭司に名乗った。

 ベージュのトレンチコートに、スーツを着ている。黒の短髪で、筋肉質。パッと見は若々しく、いかにも運動部という風体だ。

「彼は最上康介。警察の人なんだ」と夜子が紹介する。

「こっちは初城圭司君。私の依頼人ね」

「初めまして、初城さん。取り込み中のところ失礼。すぐに帰るので」

 もう少しゆっくりしていきなよと、夜子が言う。

 康介はため息を吐きながら、夜子の隣に座った。

「康介君、あの件、協力してもらっても良いよね。涼ちゃんだけだと人手が足らないんだ」

「涼?」

「乃木涼ちゃん。私の手伝いをして貰ってるんだよ。──ね、康介君、良いよね?」

「……構わないですが、あなたが働きたくないだけでは?」

「そんなことないよ。適材適所ってやつ。それに……彼自身も手がかりになりそうなものを持っていたし」

 夜子は圭司のことを指さす。

「はあ……初城さん、あなたも不幸ですね。それと、夜子さん、くれぐれも迂闊なことをしないように」

「はいはい」

 何やら気安い関係だと、初城は思った。

 ただ、話も見えてきた。

 つまり、夜子は圭司の恋人探しに協力する代わりに、自分の手伝いをしろと言いたいのだ。

 康介と夜子はまだ言い合いを続けている。

 気安い、という圭司の印象は間違いでは無かった。

 恋人みたいだ、と圭司は思う。

「康介君は別に恋人じゃないよ。こんな子供の相手はしないって」

 圭司の思考に応えるように、夜子が言った。

 顔色に出ていただろうか。

 あるいは、これも夜子の言う勘が良い部分なのかもしれない。圭司はそう思った。

「僕の祖父が世話になったんですよ。それ以来、夜子さんとは腐れ縁なんです」

「この子がまだ赤ん坊の頃から知っているよ。何なら、おしめを変えてあげたこともあるよ」

 夜子はそう言った。

 それを聞いて、圭司の中でますます謎が深まった。

 一体、目の前の少女は何者なのか。

「さて、と。話を戻そうか。まず、君の依頼は請け負う。依頼料はいらない。ただ、代わりに、手伝って欲しいことがある」

「手伝って欲しいことですか?」

「そう。人手が足りてないんだ」

「何を手伝えば良いんです?」

「枯れた死体。その死体が誰のものなのかを明らかにしたいんだ」

「枯れた死体、ですか」

「そう。昔、大体七十年くらい前かな。ある死体が発見されたんだ。その死体が──」

 ──枯れていた。

 夜子は確かにそう言った。

 初城は聞き間違いだと思った。

「枯れていた……ですか。どういうことですか」

「言葉のままだよ。腐っていたわけではない、枯れていたんだ」

 まるで、竹が枯れた時のように色を失っていた──と、夜子が続けた。

 ──竹。

 圭司は、葵の部屋で見つけた竹製の箱のことを思い出す。

「伝手があったからね、色んな人に頼んで調べてもらったりもした。そういう現象があるかってね。新種の細菌やウイルスという線を疑ったりもしたけれど、全部ハズレだった。ただ、その人が何者かに殺されて、死後その死体が枯れたということしか分かっていない」

 夜子の捜査はすぐに暗礁に乗り上げた。

 まず、彼女の話によれば、枯れた死体が見つかったのは七十年前のことだという。

 戦争のゴタゴタの中で、記録も残っていない。

 北関東も広く、地域も絞り切れていない。

 夜子は当時、関西にいた。その時に風の噂で聞いた話に過ぎないのだ。

 当然ながら、事件の目撃者もいない。

「当時、警察にもそうした事件の記録は無かったんですよ」

 康介はそう答えた。

 圭司は、理解が追い付かない。

「何かの圧力があったのかもしれないけれどね。それに、警察の商売相手は、あくまで人間だからね」

「その枯れた死体が、異星人の死体だというんですか?」

「そういうこと」

 異星人の殺人が、警察の管轄ではないという理由は分かる。

 異星人を殺したことを裁く法律はない。逆も然りだ。よって、警察が異星人の関わる殺人事件について動くこともできない。

 夜子はそういうことが言いたいのだろう。

「……いや、そもそも」

 夜子は何を言っているのか、圭司はまだ理解できていない。

 なぜ、異星人なのか。

 異星人は実在しない存在だ。

「異星人は実在するんだよ」

 夜子はそう言った。

 彼女の言葉が本当だと仮定した場合、夜子が、葵の残した写真を気にする理由は分かる。

 あの日記の書き手は、夜子にとっても何かの手がかりなのだ。

 異星人を殺したと書いている以上、その人間が異星人に関わったことは間違いないだろう。

 ゆえに、夜子は葵の捜索と通じて、日記の書き手へ近づきたいと考えているのだ。

 その関係者である圭司自身にも、協力をして欲しいという意図があるのだろう。

 ──本当に、異星人が実在するならば、だ。

「でも、なぜ、夜子さんはそこまで、枯れた死体に拘るんですか?」

「それは簡単だよ」

 夜子は続けて、こう言った。

「私が異星人だからだよ。同胞の死──その真相を解き明かすのは、当たり前のことでしょう?」



  *



 自分は異星人である。

 夜子の告白に圭司は絶句していた。

「ま、いっか。康介君さ、包丁持ってきてくれない?」

 康介はしぶしぶとした様子で立ち上がり、キッチンへと向かった。

「一体、何を?」

「私が異星人であることを証明しようと思ってね。圭司君、信じてないでしょ?」

 無理からぬ話ではある。

 唐突に自身が異星人であると告白されても、はいそうですかと信じることは難しい。

 そもそも、何を以て彼女が異星人であることを信じれば良いのか。圭司にはそれが分からなかった。

「本当に良いんですか?」

 包丁を持った康介が、ソファに戻ってきた。

「良いよ。やって」

 まさか。

 圭司はこれから起こることを察した。

 待って、と止めようとしたが遅かった。

 康介は、手に持った包丁を、夜子の心臓目掛けて振り下ろした。

「な、にを……」

 圭司は目の前の光景に絶句する。

 夜子も抵抗せずに刃を受け入れた。

 彼女の着物は、赤く染まっていく。

「は、はやく、救急車を」

 初城はスマホを取り出し、ダイヤルを表示する。

 呼び出しがうまくいかない。

 三回のタップで済むところ、都合六回はタップしていたように思う。

 その時、「落ち着いて」と圭司を制止する声がした。

 目の前で殺されたはずの、夜子の声だった。

 圭司は手に持ったスマホを落とした。

 救急隊へ繋がったままだ。隊員の声が聞こえるが、彼の耳には入らない。

「私はね、死なないんだよ。そういう生き物なんだ」

 夜子はあっけらかんとそう言った。

「死なない、というか、普通の方法で殺すことは出来ない、といった方が正しいかな。勿論、私たちも生物である以上、死という概念は存在する。実際に死ぬ。アメリカで発見された異星人は死んでいたでしょう?」

 異星人を殺す方法は必ず存在する、と夜子が言う。

「死体が枯れていた、というのは?」

「そこまで大きく話題にはなっていませんが、アメリカで発見された異星人の死体は長期間経った後、腐敗したのではなく枯れたといいます。その旨の論文をNASAが発表していて、夜子さんが追っている枯れた死体も、この事象と一致している」

 そう言って、康介は論文のホームページを見せてきた。

 確かに、異星人の死体は枯れていた、と発表している。

 更に、異星人の輸送船が落着した衝撃で、異星人の死体は原型を留めないほど損壊したということが分かった。

 死体は押しつぶされ、骨は粉々になり、四肢は引き裂かれていたという。

「それに私もね、故郷にいた時に仲間から聞いたことがある。私たちは死ぬと、枯れて、やがて土に還っていくってね」

 とにかく、と夜子が更に続ける。

「私は、君たちとは異なる生き物──君たちのいう、異星人だってこと。この体を構成する成分や物質、見た目は一見同じだ。だけど、私は君たちのように死ぬことは出来ないし、君たちと同じ速さで老いることも出来ない」

「そ……んな……」

「水と食べ物が無くても、数十年は生きていられるかな。他には、例えば、そうだね……私達は赤ん坊の頃の記憶が鮮明に残っている。周りが何を話しているかも、理解できたりするよ。後、面白いのは、私達の遺伝子はとても強くてね。例え、混血になったとしても、私達の性質が損なわれることは無いんだ」

「老いる速さが違うっていうのは……」

「君たちにとっての一年は私達にとっての十年なんだ。つまり、私達は十年経ってようやく、君たちでいうところの一年分の歳を取る。そして、肉体的には、君たちでいうところの、十代後半から二十代前半で成長が止まり、それからは不死に近い一生を過ごすわけだね」

 夜子の言葉を、圭司は信じ切れずにいた。

 しかし、彼は先ほどの光景を思い出す。

 異なる生き物。

 その言葉を実感する。

 夜子の胸元の傷は既に塞がっている。

 夜子は、心臓を突かれてなお、平然としている。

 疑いようのない事実が──目の前に広がっている。

「ただね、どうすれば私は私を殺すことが出来るのかが分からない。自分で試すわけにもいかないしね。北関東の事件についてもそうなんだ。どうやって殺したのか皆目見当もつかない。だから、誰が誰を殺害したのかを追っていたのだけど、その手掛かりもない。今度はどうやって殺害したのか、という点が追っていこうと思ったけど、これも判然としない。地球外から落着させれば死ぬのだろうけど、そんなことするわけにはいかないし、出来ない」

 夜子が言葉を区切る。

 ようやく話が見えてきた。

「そこへ、君が、その写真を持って現れた」

 また異星人を殺すことが出来た。

 写真の日記にはそう書かれていた。

 本当に殺したというならば、誰が、どうやって殺したのか。

 枯れた死体の主は、誰なのか。

「さっきも言ったけどね、圭司君。私は君の依頼は受けたいと思う。無償でね。ただ代わりと言っては何だけれど、君も、私の捜査に協力して欲しい。君は、私にとっては重要な手掛かりには違いないから」

 圭司の答えは決まっていた。

 葵を見つけることが出来るなら。

 ──そのために必要ならば、手を組む相手が人間でなくとも構わない。

「大丈夫です、よろしくお願いします」

 夜子は「分かった、ありがう」と答え、圭司に握手を求めた。

 握った夜子の手の温度や質感は人間のそれと変わらなかった。

「ところで……」

「何?」

「答え難かったら良いんですが……夜子さんっておいくつなんですか?」

 初城は知りたがりの性質を持つとはいえ、人並みのデリカシーを備えているつもりだった。初対面の人間に年を尋ねることが、一般的にタブーであることなど承知していた。

 それでも、デリカシーと好奇心を天秤にかけた時、圭司の中では好奇心の方が重かった。

「ああ……しっかりとは覚えてないけど、千は越えてるかな」

 昔は沢山の人に言い寄られたんだよね、と夜子は言った。

 ふふん、と夜子は胸を張っている。

「私に惚れるのは良いけれど、君はもう五十年は男を磨いた方が良いよ」

「夜子さん、初城さんには恋人がいます」

 夜子は康介を睨むが、康介はどこ吹く風といった様子である。

「あの、僕はそろそろ……」

「時間かな? それじゃあ、数日以内に連絡するよ」

 はい、と言って事務所を出ようとする。

 玄関のドアノブに手をかけたところで、初城さん、と康介に声かけられた。

「どうしました?」

「一つ伝え忘れていました」

 これを、と言い康介は新聞の切り抜きを渡してきた。

 見出しには、関東地方連続バラバラ殺人事件、と書いてある。

 その事件のことは圭司も知っていた。神奈川県川崎市、埼玉県秩父市と相次いでバラバラ死体が発見された事件である。

 特徴的なのは、バラバラにされた死体が、竹の籠に詰め込まれていることだった。

 圭司は、どこかで聞き覚えがあると思った。

「本山啓介さん、というお名前はご存じですかね?」

 その名前は──最後に、葵と夕食を摂った日に聞いた。

 つい昨日のことだった。

「私はこの事件を担当してまして。先ほどの枯れた死体の件とは別に、夜子さんにも手伝って貰っているんですよ」

「仁君がどうしてもって言うからねー」

「誰ですか?」

「私の祖父です」と康介が答える。

「仁君、とても出世しててね。今、県警のトップじゃなかった?」

 夜子がそう付け加える。

 康介は夜子を無視するように続ける。

「もし何か分かったことがあれば最寄りの警察署か、夜子さんに連絡をください」

 分かりました、と答えて事務所の玄関を開ける。

「初城さん」

 康介が呼びかける。

「帰り道、気を付けてくださいね。誰が被害者になるか分からない事件ですから」

 彼の声は、圭司には届かなかった。



  *



 夜子の事務所を訪れた二日後の十一月五日。

 圭司の元へ夜子から電話があった。

 朝食を摂っている最中だった。

「もしもし、夜子だよ。今、時間大丈夫かな?」

「はい、何か分かりました?」

「あの、竹の紋様、あれは家紋だったんだ。その家紋の持ち主について伝えようと思って」

 圭司は慌ててメモを取り出す。

「誰ですか?」

「六原家の家紋だよ」

 圭司には聞いたことない名前だった。

「六原家って……どこにあるんですか?」

 夜子は六原家の住所を告げる。

「行くのかな?」

「はい、訪ねてみます」

「分かった。私は今日は同行できないけれど……色々と悪い噂もあるから、一人で行くなら気を付けてね」

 そう言って、夜子は電話を切った。 

 夜子が告げた住所は、横浜市内のものだった。近場なのは好都合だった。

「行くか」

 ベッドから起き上がり、クローゼットを開ける。

 準備を済ませると、戦場に赴くような心持で家を後にした。


 六原家の屋敷の最寄は山手駅にあった。

 圭司は、白楽駅から横浜駅へ向かい、京浜東北線に乗り換えて山手駅へ向かった。

 ──六原家は不動産と建設を営んでいる。

 関東一円を拠点として、開発から仲介まで手広く商売を行っている。

 家自体の歴史も古いようだった。

 官界や政界にコネクションを持っていると聞く。

 不動産という商売の関係上、公権力と繋がりがあることは何かと有利に働くのだろう。

 高度経済成長期から徐々に業績を伸ばし、バブル期にはその全盛を迎えたという。

 しかし、その全盛も長くは続かなかった。

 バブル崩壊により業績悪化が顕著になり、リーマンショックによって止めを刺された。リーマンショックの影響で、子会社の一つであったマンション分譲会社が破綻したのである。

 六原家の事業には暗雲が立ち込めた。

 一時期は倒産寸前まで業績が落ち込んだという。

 その流れに歯止めをかけたのは、六原家の現当主、六原信一郎の手腕によるところが大きい。

 彼は東京の大学を卒業したあと、外資系金融機関に数年勤めた。

 その後、六原家を継ぎ、事業を立て直した。

 やり手の実業家として、メディアでも人気があるようだ。

 信一郎はクラウドの需要に目を付け、データセンター事業に乗り出した。六原家が神奈川に持っていた土地をデータセンター用途に移転したのだ。

 その目論見は見事に当たった。

 近頃は、北関東にも新たなデータセンターの建築を計画しており、事業の見通しは比較的明るいそうだ。

 しかし、そうした状況でも六原家に関する暗い話題は絶えない。

 信一郎の手腕により、業績が回復の兆候を見せたとはいえ、危険水域であることに変わりはない。

 また、政界や官界へコネクションも弱くなっている。コンプライアンス強化の風潮と、六原の業績が悪化したことが重なった。昔ほどの影響力を発揮できなくなり、官公庁相手の仕事では苦戦していると聞く。

 加えて、反社会的勢力と繋がりを持ち、地上げを行っていたという噂も流れ始めた。

 六原家は否定しており、確固たる証拠も無い。

 しかし、六原ならばやっていても、おかしくない。そう評価する者もいた。

 実際に六原から嫌がらせを受けた、と言い出すものも現れた。

 人の噂は止まらない。

 虚実入り混じった風聞は、ゆっくりと、しかし確実に、六原の事業を蝕んでいる。

 六原は人を殺している。

 そんな噂まで出回っている始末である。

 ──葵がそんなことに巻き込まれていないと良いのだけれど。

 そんなことを考えていると、電車は山手駅に到着した。

 山手といえば、横浜市内有数の高級住宅地である。

 元町と石川町の南側に位置している。急坂が多く、坂の上に建つ家も多い。

 外交官の家などの観光地でも知られ、圭司自身も訪れたことがあった。

 山手駅を出てすぐのところにある、ふぞく坂を上っていく。登りきった突き当りに小学校が見える。小学校の前を右折し、矢口台へ進んでいく。

 駅から離れるにつれて人通りが減っていく。

 遠目に、大きな竹林が見えた。

 あれが六原の屋敷だ、と圭司が思った。

 屋敷の見える頃には、人通りは全く無くなり、車も一台も走らなくなっていた。

 その静けさに、圭司は少々気後れした。

 ──そして、更にしばらく歩くと、一際大きな屋敷が見えた。

 まず目についたのは住宅街の風景に似つかわしくない石段である。

 石段を登った先には、大きな竹林が見えた。その切れ目には大きな門があった。現代的とは言い難いが、貫禄のある木製の門である。

 門の前の標識には、六原と刻まれていた。

 圭司は六原の屋敷に間違いないと思った。

 屋敷の迫力に圧倒されていたが、それ以上に圭司の眼を奪ったのは石段の下に置かれたプラカードや、張り紙であった。

 金返せ、人殺し、六原は犯罪者などと書き立てられている。

 酷いものだな、と思い張り紙を眺める。

 同時に弱ったな、と圭司は思った。

 夜子からの連絡を受けて六原家まで来たまでは良い。しかし、今、圭司は六原家に対して何のアポも持っていなかった。屋敷の外がこんな様子では、アポを持たない自分の様な人間を迎え入れてくれるはずが無いだろう。

 しかも、職業はオカルトライターなんて怪しいものだ。

 屋敷の中に招き入れるはずがない。

 どうしたものかと思案する。

「──いや」

 迷っていても仕方がない、と圭司は考えた。

 そもそも自分には後ろ暗いところはない。

 失踪した恋人の手がかりを探しているのだ。堂々と情報提供を求めれば良い。

 部外者を警戒しているだろうとはいえ、心無い人たちでもないはずだ。

 いきなり取って食われるわけでもないだろう。

 石段を登り、意を決して、門に据え付けられたインターホンを押そうとした。

 すると、背後から声をかけられた。

「あの、どなた様でしょうか?」

 振り返ると、女性が立っていた。

 髪の毛は肩口で切り揃えられており、印象は薄いものの、とても整った顔立ちをしている。白系のワンピースに紺色のカーディガンを着ている。

 どこか物語の登場人物にも見える。

 現実感が無く、儚い、といった言葉がぴったりとはまる。そんな人だった。

「あ、えっと……初城圭司と言います。婚約者が失踪して、その手掛かりを追っているのですが……以前こちらのお屋敷に関係していたと聞いたのです。何か知っていることが無いかと思ってですね……」

「……その、婚約者のお名前は?」

 怪訝な顔をして、女性が尋ねる。

「衣笠葵です」

 葵の名前を聞いた途端、女性の眼が見開いた。

 圭司のことを見つめた後、小さく頷く。

「葵さんの……」

「どうされました?」

「……いえ、何でもないです。初城さん、ですね」

 分かりました、と女性が頷く。

「どうぞ、お入りください。葵さんについて知っていること、お話します」

 女性は懐から鍵を取り出し、正門にかざす。

 電子音と共に、開錠される音がした。

 どうやら六原家の関係者の様だ。

「あの、あなたは?」

「申し遅れました。私は、六原十和子と言います。この六原家当主、六原信一郎の娘です」

 十和子はそう言いながら、門を開けた。

 圭司と十和子は、屋敷の敷地へと入っていく。

 まず目に飛び込んできたのは、竹林である。

「大きいでしょう?」

 外の生垣から見えた通り、門を開けると舗装された道が続いており、その両脇に大きな竹林が広がっていた。道の先には建物らしきものが見える。

 十和子が先導し、圭司はそれに続いた。

 圭司は呆気に取られていた。

 京都の嵐山を彷彿とさせるような、荘厳な竹林だった。竹林の間には石造りの灯篭のようなものが点在している。よく見れば、灯篭以外にも照明器具がいくつか設置されている。

 荘厳だが──どこか、暗く、そして狭く感じる。

 まるで、竹の中に閉じ込められたような──そんな錯覚を覚える。

「すごいですね」

「六原家では代々、竹は縁起の良いものとして扱われてきたんです。長命、清浄の証です。だから、竹林を作り、屋敷も竹細工をふんだんに取り込んでいるんです」

 竹の繁殖力は旺盛だと聞く。

 一度植えた竹を完全に取り除くことは、とても難儀だ。

 だからこそ、長命を象徴し、縁起が良いものとして扱うものもいるという。

 六原家がそうなのだ。

「着きました、これが母屋です」

 門から一、二分ほど歩くと屋敷に着いた。

 屋敷の伝統的な日本家屋然とした見た目をしていた。

 横に広く、高級和風旅館を思わせる。

 これも、前当主の拘りなのだろうか。竹林の景色に違和感なく溶け込んでいる。

 外装のところどころに竹を誂えていることも特徴的だった。

「すごい。本当に竹を好んでいるのですね」

「そうですね」

 ──巷では竹屋敷と呼ばれているそうですよ、と十和子が言った。

「この屋敷も随分と古いですから。補修を続けながら、使い続けているのですが……それほどまでに、六原家にとっては大事なものらしいですよ」

「大切な屋敷ってことですか」

「ええ。歴史ある屋敷だと、父からは聞いています。戦前からあったとか。それに、こんな古い屋敷だからかは分かりませんが……出る、らしいですよ」

 ──幽霊ですよ

 十和子はそう言った。

 竹林に、古い屋敷。

 あつらえ向きではあるが、予想外の言葉ではあった。

「両親から聞いた話です。私が生まれる前、出たそうです。この屋敷には奥庭があるのですが、そこで、声を聞いたのですって」

「声、ですか」

「ええ。──幽霊の声だと、両親は言っていましたが……私は聞いたことが無いので、何とも」

 風が吹き、竹林が鳴いた。

 葉の擦れる音だった。

 先日は異星人だったが、今日は幽霊だ。

 これまでの圭司なら、その響きに興味を持ちながらも、与太の類いだと笑うだろう。

 だが。

 彼は人外のものが実在することを、その眼で見ている。

 幽霊がいても、おかしくはないのだろう。

 あるいは。

 目の前にいる、この女性こそが──。

「入りましょうか。印象よりは狭く感じると思いますよ」

 十和子は玄関に鍵を差し込んだ。

 彼女が屋敷の扉を開け、中へ招き入れる。

 外観通り、内装も板張りの日本家屋といった趣である。

 玄関から真っすぐに廊下が続いていることが分かった。

 廊下の丁度中腹で左右に分かれており、十字型になっていることが伺える。

 玄関から真っすぐ進んだ先には、扉があった。玄関と同じ作りをしている。

 狭いというのはこういうことか、と圭司は思った。

 屋敷は高台の端を占有するように建っており、その周囲を竹林で覆っている。

 正門から入り屋敷に着くまで、まだ竹林の三分の一ほどしか進んでいないように思えた。

 遠目から見た六原家の竹林は、それ程に大きいものだった。

 ──あの扉を開けるとまた外に出るのか。

 六原家が持つ敷地に対して、この竹屋敷は三分の一ほどしか占有していない。

 門から屋敷までが三分の一だ。廊下の先、あの扉を開けた向こう側に、もう三分の一の光景が広がっているのだろう。

「あの扉の先に庭があるんです。私たちは奥庭と呼んでいますが」

 十和子が扉を指さす。

 背後にある玄関と同じように、廊下の先にある扉にも竹の意匠が施されている。

 この、竹の屋敷の中に、葵の秘密が眠っているのだろうか。

「十和子様、お帰りなさいませ」

 スーツを来た白髪の男性が現れた。

 白髪をぴったりと撫でつけ、オールバックで整えている。

 スーツには皺一つなく、背筋も真っすぐで、筋肉質で精悍な印象を与える。

 男性は、圭司のことを一瞥すると、

「こちらのお方は?」と十和子に言った。

「私の客人です。直幸さん、応接室を整えておいてくださる?」

「承知しました」

 直幸と呼ばれた男はそう答えると、玄関から去っていく。

「彼は?」

「三坂直幸、この家の使用人をして貰っています。彼の父親である、幸太郎さんの代からこの家を手伝って貰っているのです」

 父親──六原信一郎も、その妻、三代子も家事はしないという。

 彼らに変わり、各種家事も含めた、屋敷全体の維持管理に努めているのが三坂直幸だ。

 三坂家は代々六原家の使用人として働いており、直幸は三坂家の現当主である。先代の、三坂幸太郎も六原家に仕えていた。

 直幸には、妻と息子がおり、三人ともこの屋敷に住んでいる。

「十和子様、お部屋の準備が整いました」

 直幸について話を聞いていると、当の本人が戻ってきた。

「こちらです」と言いながら、十和子と圭司を先導する。

 廊下の十字路で右に折れる。

 すると、左右両側にドアが二つずつ見える。廊下の先には二階に続く階段があった。

 直幸は、十字路を曲がった先、右手の一番手前の扉を開けた。

 木製のラウンドテーブルに、椅子が三脚ある、シンプルな部屋だった。部屋は汚れ一つなく清掃されており、テーブルの上にはコップが二つとお茶菓子らしきものが置いてある。

「ごゆるりと」

 十和子と圭司を部屋へ入れると、直幸は一礼をしながらドアを閉めた。

 十和子は廊下に一番近い椅子へ座り、圭司は部屋の奥側の椅子へ座ることを促された。

 圭司は改めて自己紹介をし、十和子に自分の名刺を渡した。

「さて──初城さんは、葵さんの恋人なのですよね」

「ええ。十和子さんも、葵とは親しかったのですか?」

「そうですね。葵さんは、私にとって姉のようで、親友でもありました」

 十和子と葵の交友の始まりは五年ほど前に遡るという。

 十和子は葵の一つ年が下だという。十和子が葵と出会ったのは、彼女の高校卒業を間近に控えた時だった。

 十和子は同年代に、親しい友人を作らなかった。

 処世のため、周囲から見た時に、友人と呼べる関係の人間は何人も作っていた。実際に、十和子は友人と呼べるようなふるまいもしていた。

 その中で、十和子のことを、心から友人と思ってくれている人もいたのだろう。

 ただ、十和子にとっては、そうではなかった。

 彼女は、心から友人と思える人間を作ることが出来なかったのだ。

 十和子自身も、周囲の人間に必要以上に踏み込むことをしなかった。

 六原家の教育方針が特別厳しかったわけではない。

 学業や課外活動の結界に求める水準は高かったが、十和子の趣味や友人関係にまで口出しすることは無かった。むしろ友人関係の構築は奨励さえしていた。

 しかし、十和子は後ろめたかった。

 六原グループのきな臭い話は、当時から変わらなかった。

 恨まれるようなやり方で商売をして、事業を大きくしてきた。

 人を死なせたこともあったはずだ。暴力団との繋がりもあると聞く。

 祖父が──そして父がそんなことをしていると、十和子は知っていたのだ。

 だから、彼女は親しい人を作らなかった。親しくなろうとしなかった。

 万が一、自分の友人が六原に利用されたら?

 そのせいで自分の友人が、あるいはその家族に迷惑をかけてしまったら?

 自分は、どんな責任が取れるというのだろうか。

 十和子は、十和子自身のせいで誰かが不幸になることに、耐えられなかった。

 ──そうした境遇にあって、葵との出会いは運命めいたものだった。

 五年前の四月。

 六原家の食卓で直幸が、新しい使用人が来ると言った。

 その使用人が、葵だった。

「当時、葵さんは高校を卒業されたばかりでした」

 六原家の使用人は住み込みの仕事だ。

 高校を卒業し、実家を出たばかりで、葵の資金は底を尽きかけていたという。

「喧嘩同然にご実家を飛び出したそうです。だから、実家に戻る、あるいはご両親を頼るという選択肢は葵さんの中には無かったのでしょうね。当時、住む場所にも困っていたと聞きました」

 それに、と十和子は言う。

「手前の話で恐縮ですけれど、六原の給料は他よりも良いですから。住み込みの仕事なので、住む場所にも困りません。拘束時間は長いし、直幸さんは厳しいですけど、お金の貯まる仕事ではあったと思いますよ」

「僕が言うのも何ですが、よく採用されましたね」

「葵さんは人を惹きつける魅力がありましたから。要領も良いでしょう? それに、六原の求人には中々人が来ないんですよ」

 十和子は少し居心地が悪い様子だった。

 六原の醜聞を知っていれば、進んで働こうという人もいないだろう。

 いずれにせよ、葵にとっては渡りに船だったというわけだ。

 一人暮らしを始めたばかりで、荷物も少なかったはずだ。

 面接を受け、採用となった葵は、翌日から六原家の仕事に入ったという。

「当時、葵さんが寝泊まりしていた部屋も残っているはずです。今度ご覧になりますか?」

「是非」と圭司は答える。

 葵の知らなかった面を一つ一つ知っていく。

 圭司は、自分がどこか高揚していることに気づく。

「十和子さんは、葵とすぐ仲良くなったんですか?」

「いえ」と十和子は首を振る。

「少し時間がかかりました」

 葵は明るい人間だ。それは圭司がよく知っている。

 十和子の方が壁を作っていた様子だった。

「先ほども申し上げたように、私は友達なんていらないと思っていました。親しくなる必要はないと。臆病だったんですよね」

 当初、葵と十和子はそこまで親しくは無かったという。

 葵は使用人としての距離感を保ちながら、十和子に接していた。

 最低限の日常会話だけ。

 年が近いゆえに、口数こそ多かったものの、上司と部下の立場は出ない。

 十和子は、それを超える必要もないと思っていた。

「きっかけは些細なものでしたね」

 ある日、信一郎は画商から、一枚の絵画を仕入れてきた。

 その絵を、二階へ上がる階段の途中へ飾った。

 かぐや姫をモチーフにした絵画だった。

 竹林が描かれている。空には満月がある。

 その満月を見上げるように、翁と婆が描かれており、彼らの見上げる先には女性がいる。

 女性はおそらくかぐや姫なのだろう。

 かぐや姫は絢爛な装束を纏ったもの共に月へと帰っている。

 絵画としては、凡庸なのだろうとも思った。

 同時に、十和子はこの絵に強く惹かれた。

 それは、葵も同じだった。

「葵さん、古典の竹取物語が好きだったそうです。その絵を見た時に、ひどく感動したそうで。仕事の休憩中も、ずっと絵を眺めていたんです」

「それは──」

 そうなのだろう、と圭司は思った。

 葵は、かぐや姫の物語を好んでいた。

 彼女の実家を訪れた時、葵の部屋には古ぼけたかぐや姫の絵本が残っていた。

 年を重ね、所々黄ばみ、色あせている本だった。

 慣れない環境の中、かつて彼女が愛した物語が、目の前に現れたのだ。

「そこで初めて、葵さんと話し込みました。私もその絵を気に入って、意気投合して。彼女は仕事に戻っていきましたけど、仕事終わりにまた捕まえて──夜遅くまで話して、結局、直幸に怒られました」

 十和子は懐かしそうに微笑む。

「葵さんに会うまで、私は友人なんていらないと思ってました。友人を作っても悲しくなるだけ。それは私が六原の人間だから。それが、いつだか捻くれて、私は六原──選ばれた人間だから、友人なんて必要ないと。そんな風に変わっていったんですね」

 ──この竹の中にいたまま、私は私のまま死ぬしかなかった。

 十和子はそう続ける。

「人間は生まれ育った環境が全てだと思っていましたし、今もそう思っています。けれど、同時に些細なきっかけで変わることもあると。私は、葵さんと話して変わりました。彼女が、私を変えてくれたんです」

 葵の知らない一面を知ることが出来た。

 自分が見ていたのは、葵の一側面にしか過ぎなかった。

 何が恋人だろうか。圭司は心の中で自嘲する。

「だから、葵さんが仕事を辞めるといった時は、恥ずかしながら、年甲斐もなく大泣きしてしまいました」

「その後、その、葵はどちらへ勤めると言っていましたか?」

「メーカーの事務……確か、総務だったかしら? そう言っていたと思います」

 圭司の認識とも一致する。

 葵は六原家の仕事を辞めた後──というより、自分と交際を始めた頃、メーカーの事務職に就いていた。時系列的にも矛盾は無い。

「あの、これを。何か思い当たることはありますか?」

 言いながら、圭司は葵が残した写真を見せる。

 ──また異星人を殺すことが出来た。

 葵以外の誰かの筆跡で、そう書かれた日記だ。

「これは……」

 十和子は、眼を見開き絶句していた。

 先ほどまでとは明らかに様子が違う。

 ──間違いない。

 彼女は、何かを知っている。

「どうされました?」

「あ、いや……」

「もしかして、何かご存じですか?」

 手を伸ばせば届くところに、葵の手がかりがある。そう思えた。

「教えてください。何か事件に巻き込まれているなら、僕は葵のことを助けたい。それはあなたも同じ気持ちのはずだ」

 圭司は頭を下げる。

「だから、どうか、この日記の写真について──葵について知っていることを教えてください」

 しばしの沈黙のあと「分かりました」と十和子が言った。

 圭司は十和子の顔を見つめ、彼女の二の句を待っていると──。

「十和子」

 部屋の扉が開く。声は直幸のものではなかった。

 圭司は扉の方へ眼を向ける。

 そこには男が立っていた。

「お父様……」

 彼が六原信一郎だ。

 紺のスーツを身にまとい、悠然と立っている。髪は短く切り揃えられており、営業マンといった風情だが、暗さも醸し出している。

 信一郎が圭司と十和子を見下ろす眼は虚ろだった。

「あなたが、十和子の客人かな。申し訳ないが、お引き取り願おうか。十和子はこの後用事があってね」

「お父様……」

「いいね?」

 有無を言わさぬとはこのことだ、と圭司は思った。

 信一郎は十和子を見つめながら、重い声でそう言った。圭司には一瞥をやり「直幸」と呼ぶ。

「はい」

「客人がお帰りだ。丁重に送って差し上げなさい」

 そう言うと、信一郎は部屋を出て行く。「分かりました」と直幸が頷く。

「初城様、こちらへ」

「ですが、まだ」

「時間ですので」

「けれど」と圭司は縋るが、「私どもの話を聞き入れて頂けないということであれば、それなりの手段に出ざるを得ません」

 そう言うと、直幸は圭司をじっと睨みつける。

 老齢の紳士の眼光は鋭く、重い。

 圭司はそれ以上、直幸と相対するための言葉を持っていなかった。

「分かりました」と言いながら、圭司は立ち上がる。

 応接室を出て、廊下を戻る。

 十字路に差し掛かる。

 正面には二階へと続く階段があり、左手には屋敷の玄関が見える。

 右手には、竹の飾りがあしらわれた扉があった。奥庭に続くという扉である。

 その先を見ることは叶わなかった。

 圭司は玄関までの途上を思いだす。

 暗い、竹林が広がっている。

「さあ、こちらへ」

 直幸は圭司へ退出を促す。

 竹林を直幸と共に進む。正門まで圭司を送るつもりのようだ。

「それでは、お気を付けてお帰りください」

 直幸が一礼すると、正門が閉じられた。

 ──竹の外は、空が広く感じられた。

 

 圭司が家に着いた時は、既に夕方の六時を回っていた。

 家の玄関を閉めた途端、全身が徒労感に襲われる。

 手洗いを済ませ、無造作に鞄を放り、ベッドへ倒れ込んだ。

 これから、どうするべきだろうか。

 葵が六原家で働いていたことは分かった。

 その中で、六原十和子とも関係を構築していた。

 それも、十和子にとってかけがえのない存在になっていた。

 ここまでは、十和子の話で分かったことだ。

 もう一つ不可解なのは、葵が遺した日記の写真だ。

 これを十和子に見せた時の反応を思い出す。

 十和子は、明らかに何かを知っている様子だった。

 問いの解答ではなくとも、関連した何かを彼女は知っているはずだ。

 圭司はそう確信していた。

 しかし、それを、十和子へ聞くことは出来なかった。

「全部無駄にしたな」と自嘲する。

 奇跡的な偶然で、六原家のコネクションを作ることが出来た。

 だというのに、六原信一郎の登場により全てが無駄になった。

 ──おそらく、自分はもうあの屋敷へ招かれることは無いのだろう。

 信一郎は口数こそ少なかったが、あの瞳は雄弁に語っていた。

 暗く、重い瞳。

 自分に向けられる信一郎の視線を思い出し、居住まいを正す。

 いっそ、信一郎へ直接聞いてみるのはどうだろうか。

 彼も、何かを知っているのだろうか。

 そんなことを考えていると、圭司のスマホが鳴った。電話がかかってきた。

 ディスプレイを見ると、見慣れない番号からの着信であった。

「はい、初城です」

「六原です。六原十和子です」

 驚愕する。

 同時に疑問が浮かぶ。

 十和子がなぜ、自分の番号を知っているのか。

 そこまで考えて、名刺を渡していたことを思い出す。

 驚きのあまり言葉を紡げずにいると、「先ほどはすみませんでした」と十和子が続けた。こちらの沈黙から内心を察してくれたのだろうと圭司は思った。

「いえ、こちらこそ」とたどたどしく返す。

「その、最後に見せてくださった写真、それと葵さんのことについてなんですが」

「はい」

「私が知っていることについて、お話しようと思います」

 圭司は絶句する。

 何と返すべきか迷い、数秒してから「是非、お願いします」とだけ答えることが出来た。

 諦めかけていた手がかりが目の前にある。

 蜘蛛の糸を、手離すわけにはいかなかった。

「ただ、直接お会いして話したいのです」

 十和子は日時と場所を指定する。丁度、三日後だった。

「分かりました。けど、それは──」

 どういうことだろうか。

 十和子は、何を知っている。

 何を、話そうとしている。

「十和子さん、葵に繋がることなら、今でも」

「初城さん」

「僕は一秒でも早く、少しでも多く葵に関することを知りたい。よければ、今お話できる範囲で、教えてもらえませんか?」

「……分かりました」

 十和子が口を開く。

「先ほどお会いした時は詳しく話せなかったことは申し訳ございません。事情があったのです」

「事情……事情って何ですか?」

「それは直接お会いした時に」

「十和子さん、どうしても話せませんか」

「……分かりました」

「十和子さん……」

「私は、葵さんが失踪した理由を知っています」

「え──?」

 十和子は葵が失踪した理由を知っている?

 それならば、十和子は葵の行方を知っているのではないか。

「葵さんは奴の──」

「十和子!」

 何をしている──と、そう聞く前に信一郎の怒鳴り声がした。

 十和子との電話はそのまま切られてしまった。

 混乱する。

 考えがまとまらない。

 葵の顔が浮かぶ。

 葵が──。

 それに、十和子は奴と言った。

 奴とは一体誰だ。

 やはり、葵は何かしらの事件に巻き込まれているのだろうか。

 ──そうだ、夜子さんにも経過は共有しておかないと。

 現実を逃避するように、夜子へ電話をかける。

 葵のことはまとまらない。

 いずれにせよ、十和子と話さなければ、何も分からない。

 依頼人の立場とはいえ、進展については知っておいて貰っても良いだろう。

 それに、異星人の件は彼女に協力する約束をしているのだ。

 圭司は夜子へ連絡する。

 六原家で十和子と話したことを共有し、三日後に事務所へ訪ねる旨を約束する。

「了解」と夜子は軽やかに返事をして、電話を切った。

 十和子への期待と不安。

 分裂する心を抑えるため、圭司は冷蔵庫にあるウイスキーを開けることにした。

 

 六原家を訪ねた三日後の昼のことである。

 圭司の元へ電話があった。

「神奈川県警のものです。初城圭司さんの電話で間違いないですか?」

 予期しない相手からだった。

「間違いないですが……どうされました?」

「六原十和子さんが何者かに殺害され、バラバラ死体となって発見されました」

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