挑め、蒼き者たちよ
snowdrop
光る芽
液晶モニターの青白い光が、九条楓の頬を淡く照らしている。午後の部屋は静まり返り、外の気配も遠のいていた。画面に並ぶ数行の文字を追う楓のまなざしは、やがて逸れてしまう。同じ言葉が何度もくり返され、指示代名詞が波のように押し寄せてくる。
物語の書き出しは小説の玄関。六行で読者は読むかどうかを決める、と父はよく言っていた。作家の息遣いが一行目から宿るはずなのに、推敲を欠いた初稿の粗さが残っている。
マウスを握る指先が、わずかに震える。会話文の末尾には疑問符や感嘆符がつけられ、三点リーダーやダッシュがリズムを乱していた。漫画のセリフのような違和感が、胸の奥に重く沈む。
誤字や脱字は少ない。けれど語彙は幼く、登場人物たちは単調だ。壊れた時計の針のように、同じ動きや内面の独白がくり返される。スクロールするたびに、ため息がこぼれた。
肯定的な部分だけを慎重に拾い上げて、コメント欄に言葉を綴る。キーボードを叩く指が重い。ノートパソコンの蓋を静かに閉じ、深く息を吐いた。活字の本を読むときには決して感じない、鈍い疲労が肩にのしかかる。
読み終えた作品は、出会って恋仲となるも病に冒され死別、残された主人公は悔恨するが強く生きようとする悲恋の物語。幼馴染、恋人、友人と、相手が違うだけで、どこかで見たような青春小説の型に収まっている。
これまで読んだ作品の中には、親や兄弟、主人公自身が死ぬものもあれば、マグロやパックジュースのレモンティーまで命を落とすものもあった。ミステリーやホラーならともかく、ただ山場を作るためだけに殺されるキャラクターたちが哀れで仕方がない。死を軽々しく書きたがるのはなぜだろう。
楓の父は、ミステリー作家・九条理市。作家の血が流れていても、同じ才能が娘に宿るとは限らない。政治やスポーツの世界でも二世が一世を超える例は稀だ。楓は自分の無力さを静かに受け入れていた。
登校するたび、「作品を読んで感想をください」と頼まれる。クラスメイトだけでなく、名前も知らない先輩からも声をかけられる日々。
父に読んでもらえれば作家になれると信じている者たちが、教室の空気に混じっている。
「なりたければ新人賞に応募して、受賞することだ」
父の言葉を伝えると、理解を示す者もいる。しかし物分かりの良い生徒は少数派だ。「九条さんでもいいから読んでほしい」「作家の娘なら、オレの自信作の凄さがわかるはず」そんな頼みが絶えることはない。
現代文や古文の成績を恥ずかしげに伝えても、「試験と小説は違うから」と、誰も楓の文才のなさを信じようとしない。強引に頼まれ、小説投稿サイトに公開されている作品だけは読むと約束してしまった。
日々作品を読み続けているうちに、善し悪しの輪郭が少しずつ見えてきた。書斎から出てきた父に打ち明けると、父は頬に皺を刻んで笑った。
「人は輝くものより、欠けたものを見つめるのが得意なんだ。良作と駄作を並べてみれば、成功と失敗の理由がはっきりしてくる。駄作は禁じられた道を教えてくれる教師なんだよ」
プロ作家の言葉は重い。冗長な説明や重複、水増し表現、記号の多用、唐突な結末。そうしたものが読者の心を遠ざけるのだと、ようやく分かりかけてきた。
「もう、読まなくていいかな」
階段を降りていく父の背中に、楓はぽつりとつぶやいた。
「お父さんも、駄作は読まないでしょ」
「読むよ。ジャンルを問わず、なんでも」
父は階段脇の洗面所の前で鏡を覗き込み、にやりと笑ってからトイレに入った。
「プロ作家なのに?」
楓は階段の二段目に腰を下ろし、制服の裾を指先でいじりながら、少しだけ声を張る。
「アウトプットするには、インプットが大切だからね」
扉の向こうから返ってきた父の声に、楓は過去の記憶を呼び覚ます。
父が留守のあいだに書斎へ忍び込んだとき、蔵書の多さに息を呑んだ。ミステリーやホラー、SF、恋愛、ファンタジー、ラノベ、ライト文芸、童話、児童書、純文学、エッセイ、紀行文、演劇、専門書。文字で書かれたものなら、ジャンルも国も問わず、本棚にぎっしり詰まっていた。
漫画や絵本、写真集、アニメや映画、ドラマのDVDまで並んでいる。近所の図書館よりも充実していて、楓はただ立ち尽くした。少女漫画を見つけたときは、さすがに父の趣味を疑った。
家族の気付かぬうちに本は静かに増殖し、今や父の書斎も事務所も、コンテンツの背表紙が壁を覆い尽くしている。人気作だけでなく見たことも聞いたこともないタイトルまで。父はそれらすべてを読んだり観たりしているのだ。
「見たい作品だけ見ていたらダメかな」
「流行の作品ばかり追いかけていたら、同じものしか生まれない。すぐに飽きられるよ」
「面白いから人気があるんじゃないの?」
「好きなものだけ見ていたら、視野が狭くなり、すぐネタが枯渇する。書けない作家に価値はない。幅広い情報が創作の糧になるのさ」
トイレから出てきた父は、鏡に向かって微笑みながら手を洗う。
「でも、見たくもない作品を見るのは苦痛じゃない?」
「行き詰まったときは、毒薬のような作品を読みたくなる」
「できの悪い作品ってことだよね。毒なんて飲んだら死んじゃうよ」
「劇薬はすぐに効く。駄作の痛みは、心に棘のように残る。良い本はゆっくりと血肉になるけど、失敗作は一瞬で目を覚まさせてくれるんだ」
階段へ向かう父の背中を追いながら、楓は問いかける。
「似た話を聞いたことがある。冨樫という漫画家は、B級映画をよく観るんだって」
「『幽遊白書』『HUNTER×HUNTER』の作者だね。退屈な展開をどう面白く変えるかを考えながら、B級映画に向き合うと語っていたね。脚本家の尾崎将也も、面白くないものを見て、なぜ面白くないのかを考えるのが勉強になると言っていた。ミステリー作家の中山七里も、週に一冊古典やB級小説を読んで、成功と失敗をメモして創作の土台を強化している」
「小説家も漫画家も脚本家も、お父さんと同じことをしているんだ」
「実はAIも同じなんだよ。スティーブルディフュージョンは、描きたい画像の内容を文字で入力すると、AIが数秒で画像を作る。でも、なかなか良いものは出てこない。重要なのは『これは違う』というネガティブプロンプトをたくさん入れること。欲しい作品を得るには、正解ではないものが大量に必要になるのさ」
楓は口元に手を当てながら父の背中を見た。作家はAIと同じやり方でアイデアを生み出しているのか、それとも人間の発想を真似するようプログラミングされたのか。卵が先か鶏が先か、そんな問いが頭をよぎる。
「だったら学校の生徒の作品を読んでもいいんじゃない? かなり劇薬もあるよ」
父は、あははと快活に笑った。
「楓にまかせるよ。小説講座みたいにリップサービスするつもりはないからね」
「どういう意味?」
階段を登りきった父は立ち止まり、振り返って楓を見下ろした。
「すべての小説講座がそうだとはいわない。でも受講生がお客様なのは変わらない。退会されたらおまんまの食い上げだから、見込みのない作品にも希望を与え、受講料を払わせる。できの良い子が受賞すれば宣伝になり、入ってきた作家志望に淡い希望をもたせて搾り取る。そんな業界ゴロみたいなことはするつもりないからね」
「読んだ感想を素直に書いてあげたら」
楓は言いかけて目を細め、口を開けて何度も頷く。
「わかったみたいだね。父さんは締切があるから」
書斎に入っていく父の背中を見送り、楓は自室へ戻った。ノートパソコンの前に座り、蓋を開けて電源を入れる。ネットに接続し、頼まれた残りの作品を読みだす。
コメント欄に素直な感想を書けば、相手の機嫌を損ねて炎上沙汰。穏やかな高校生活が過ごせなくなるのは目に見えている。娘の不祥事に父の仕事が影響するかもしれない。相手と周りの顔色を伺いながら、当たり障りのない感想を書くことに頭を抱えたくなければ、父のように頼まれても読まないスタンスを貫けばいい。
「できなかった私は業界ゴロと同じなのかな。受賞パーティーに潜りこませてタダ飯し食べたり書評サイトでベタ褒めさせたり、セクハラ行為もしてないのに」
毎日続く感想書きの果てに一筋の光明でもあればいいのだけれど、悲しいかな、楓には文才もなければ作家になりたい夢もない。書き手の夢を託された作品を煽るように読んで感想を書き続けるしかないのだろうか。
「お父さんみたいに書けたらなぁ」
感想を書き終えると、身を乗り出して手近の本棚から赤いハードカバーの四六判を一冊手にする。机の上に頬をつけ、顔の前でページをぱらぱらとめくっていく。
つまずいた言葉が胸の奥で沈殿し、呼吸すら重くなる。栄養ドリンクのように書籍を定期的に読まなければ、まともではいられない。こんな思いをしたくないのも、父が書籍になっていない本を読まない理由かもしれない。
スマートフォンの通知音が静寂を破る。指先で画面を滑らせ、表示されているユーザー名と作品タイトルを確認する。作者名は「わくら葉」。夏に色褪せて縮む葉の名は、どこか孤独を抱えた今の自分に重なって見えた。
高校生は青春の真っ只中、人生でいちばん楽しい季節と大人はいうけれど、幼年期の終わりと夢のない大人への仲間入りが迫る三年間、競い合いながら挫折を重ねて邁進するも先が見通せない時代と社会の有り様から、希死念慮を胸に秘めているのが今の若者のスタンダード。まさに現代を生きる象徴的なペンネームだ。
また酷い作品かもしれないと想像するだけで、楓の肩は重くなる。
夏の骨
八月の教室は時間が燃える場所だった。陽光が窓から刃のごとく差し込み、肌を切りつける。埃が光の筋に踊り、冷風機の軋みが空白を噛む。
佐伯は机に肘をつき、鉛筆を握る指でノートの端に家を描く。屋根の線は震え、煙突の煙は薄れゆく思い出に似て細い。
「なぁ、夏はいつ消えるんだ」
隣の席から聞こえた声が空気に滲み、軽いのに胸を刺す。答えられず窓の外へ目を投げる。グラウンドの果て、校舎の影が地面を裂き、陽炎が脈打つ。空は青く永遠を食らうように深い。
「終わりって何だよ」
佐伯は笑う。口角が鋭く上がり、玻璃を思わせる目は脆い。鉛筆を握り潰し、芯が砕ける。音が静寂を断ち、胸に冷たい刃を滑らせる。ノートに芯の破片が散り、煙突の煙が断ち切られた。
「おい、悠太」
舌打ちして名前を呼ぶ声は、いつもより鋭く、割れたガラスに触れる危うさを持つ。手を見る。指に鉛筆の粉が黒く染み、なぜか失うものの重さを感じた。
「夏が死んだら、俺たちは何になるんだ」
問われた言葉は、風に散る灰のように軽く心に火をつける。隣を横目で覗き見ると、机の上にふせっていた悠太は顔を上げ、佐伯を見ている。逆光で輪郭が溶け、刹那が永遠に裂かれる。変わらない、と言いかけて喉が凍る。夏の光があまりにも鋭く、影を黒く焼くから。
蝉の声が窓の外で途切れ、世界が息を殺す。佐伯は新たな鉛筆を握り、家を再び描く。屋根は硬く、煙は空を突き刺す。見つめながら胸の奥で骨が軋む。
この夏は骨を刻む。時間が砕けても決して消えないように。
モニターに映し出した文章を目で追っていく。数行を読んだ瞬間、胸の奥で何かが芽吹いた。身を乗り出し、顔を近づけてモニターを覗き込む。凡庸な表現かもしれないが、他にない非凡な才能が文章の隙間から顔を覗かせていた。
握る右手を左手で包みながら、深く息を吐く。これまで読んできたどの作品にもなかった驚きに、首から肩、背中へと震えが走り、全身へと広がっていった。
これが「わくら葉」こと桑原薫と九条楓との、最初の出会いだった。
挑め、蒼き者たちよ snowdrop @kasumin
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