第6話
ミルンは、まるで自分の庭を散策するように、慣れた足取りで森の中を先導していく。時折、ひょいと脇道に入っては何かを見つけ、「あそこの木の
アシュパルは、黙ってその明瞭快活な声に耳を傾けていた。彼の周りにいる宮廷の大人たちは、難しい言葉で国の政治や歴史について語ることはあっても、こんな風に生き生きとした自然の話をしてくれる人はいなかったのだ。新鮮で、心地よかった。
「なあ、アシュパル」
不意に、ミルンが後ろを歩くアシュパルを振り返った。
「あんたが世話してるっていう、離宮のお坊ちゃんは、そんなに具合が悪いのか?」
「え? ああ…うん。あまり、丈夫ではない、と聞いている」
アシュパルは少しどもりながら答える。自分のことを聞かれているようで、変な汗が出そうだ。
「ふーん。可哀想だな。外で遊べねえなんて、つまんねえだろうな。離宮ってのは、やっぱりでっかいのか?」
ミルンはあっけらかんと話題を変えた。
「…大きい、と思う。私も全体は知らないけれど」
「へえー。俺たちの村なんて、すぐそこからあそこまで、って感じだぜ」
ミルンは両手を広げてみせる。
「君の村…ハルモ村、だったかな」
アシュパルは尋ねた。
「おう! この森を抜けたらすぐそこだ。まあ、見たってなんも面白くねえぞ。田んぼと畑ばっかりで、あとはじいちゃんばあちゃんがいっぱいいるだけだ」
ミルンは少し照れたように、自分の頭をかいた。
「でも、君は楽しそうだ」
アシュパルが素直な感想を口にすると、ミルンはきょとんとした顔をし、それから「まあな!」と力強く頷いた。「森で遊んだり、川で魚捕ったり、毎日結構忙しいんだぜ!」
話しているうちに、森の木々が次第にまばらになり、前方に明るい光が差し込んできた。離宮の庭園へと続く、見覚えのある境界の生け垣が見える。
「ほら、あそこまで行けば、もう離宮はすぐそこだろ?」
ミルンは立ち止まって、生け垣の方を指さした。
「あんまり奥まで送って、離宮の偉そうな番人とかに見つかると、俺がどやされちまうからな。ここでお別れだ」
彼は悪戯っぽく片目をつぶって笑う。
「ミルン…本当にありがとう。君がいなかったら、どうなっていたか…」
アシュパルは心からの感謝を伝えた。今日一日…いや、ほんの数時間で、彼は今まで知らなかった多くのことを経験した気がする。
「気にすんなって! 友達だろ?」
ミルンはあっさりとそう言うと、「じゃあな、アシュパル! また森で迷うなよ!」と手をひらひらと振った。そして、すぐにくるりと身を翻し、再び森の中へと駆け出して行く。あっという間に、その姿は木々の間に吸い込まれるように消えてしまった。
アシュパルはしばらくその場に立ち、ミルンが消えた方角を見つめていた。友達、か…。その言葉が、胸の中で温かく響いた。
自分が無事に離宮に戻らなければならないことを思い出し、彼は急いで生け垣を抜け、庭園を横切って自室へと急いだ。幸い、誰にも見咎められることはなかった。
部屋には、相変わらず静寂と、読みかけの書物と、苦い薬湯の匂いが待っていた。だが、アシュパルの頭の中は、森の土の匂いや、木漏れ日の暖かさ、ミルンの屈託のない笑顔、そして「ハルモ村」という、今はまだ見ぬ場所への興味でいっぱいだった。
あの日、ミルンと出会ってから数日。アシュパルの心は、以前にも増して外の世界へと向いていた。離宮の静かな生活は、安全で快適ではあったが、同時にひどく退屈に感じられる。彼は窓から森を眺め、ミルンのことを考える時間が増えていた。
(また会いたい…)
その気持ちは日増しに強くなる。幸い、体調は安定している。彼は再び機会を窺い、数日後の昼下がり、前回と同じように侍従たちの目を盗んで、離宮の敷地を抜け出すことに成功した。
今度は、ただ森を彷徨うのではない。はっきりとした目的があった。ミルンに会うことだ。
彼は、前回ミルンと別れた森の入り口付近へと向かった。もしミルンが今日も森で遊んでいたら、会えるかもしれない。そう期待しながら。
森の入り口付近でしばらく待ってみたが、ミルンの姿は見当たらない。
(村の方へ行けば会えるだろうか…?)
ミルンは「森を抜けたらすぐそこだ」と言っていた。少し不安はあったが、アシュパルは意を決して、森を抜ける方向へと慎重に歩き始めた。前回のように迷わないよう、太陽の位置や目印になりそうな特徴的な木を意識しながら。
やがて森を抜けると、視界が一気に開けた。なだらかな丘陵地に、青々とした稲が風にそよぐ田んぼや、様々な作物が植えられた畑がパッチワークのように広がっている。遠くに、茅葺き屋根や板葺き屋根の家々が十数軒ほど、肩を寄せ合うように集まっているのが見えた。あれが、ハルモ村だろう。質素だが、穏やかな生活の営みが感じられる風景だった。
(ミルンはどこにいるだろう…)
村へ近づくべきか、ここで待つべきか、アシュパルが思案していると、不意に、少し離れたあぜ道の方から元気な子供たちの声が聞こえてきた。目を凝らすと、数人の子供たちが、何かを追いかけて土手を駆け下りているのが見える。その中の一人に、見覚えのある快活な姿があった。
「あ…!」
アシュパルが声を上げかけた、その時。
「おーい! アシュパルー!」
相手もこちらに気づいたようだ。ミルンが仲間たちから離れ、手をぶんぶんと大きく振りながら、こちらへ駆け寄ってくる。
「よお、アシュパル! 来てくれたのか! また迷子になったわけじゃねえよな?」
息を切らしながらも、ミルンの顔は嬉しそうだ。
「いや、今日は迷ってはいないよ。君に…会いに来たんだ」
アシュパルは少し照れながら、しかしはっきりと伝えた。
ミルンは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「へえ? そうかそうか!」と破顔した。「やっぱり離宮は退屈なんだろ? 来ると思ってたぜ!」
彼は仲間たちを手招きし、「こいつ、前に森で会ったアシュパルだ! 離宮のやつだけど、面白いぞ!」と紹介する。他の子供たちも、物珍しそうに、しかし警戒する様子はなくアシュパルを見た。
「ちょうどよかった。今、皆でトカゲ捕まえて競争させようって話してたんだ。アシュパルも一緒にやるか?」
ミルンは、それが当然であるかのように、アシュパルを遊びの輪に誘った。土にまみれた、他愛ない子供の遊び。アシュパルが今まで経験したことのない世界。彼は、一瞬のためらいの後、輝くような笑顔で力強く頷いた。
「うん、やる!」
ここには、彼が求めていた「外の世界」の、温かくて賑やかな入り口が確かに開かれていた。
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