第5話
「ここは……どこなんだろう」
アシュパルは心細さから、か細い声で呟いた。周囲を見渡しても、見覚えのある景色はどこにもない。先ほどまでの冒険心はすっかり萎んでしまい、後悔と、じわじわと広がってくる不安が胸を満たしていく。
日が傾き始めているのか、森の中は心なしか薄暗くなってきたように感じられた。風が木々の葉を揺らす音。遠くで響く知らない鳥の声。時折、茂みの奥でガサリと不気味な物音がする。それが本当にただの小動物なのか、アシュパルには判断がつかなかった。
(帰らないと…早く離宮に帰らないと、皆が心配する…)
来た道を引き返そうにも、どの道がそうなのか全く見当がつかない。まさか、こんなことになるとは。自分の浅はかさが情けなく、涙が滲みそうになるのを、アシュパルはぐっと唇を噛んで堪えた。皇子として、こんな森の中で泣いている姿など、誰にも見せられない。
その時だった。
「わっ!」
すぐ近くの茂みが激しく揺れ、まるで猪の子か何かのように、一人の少年が飛び出してきた。勢い余って、危うくアシュパルにぶつかりそうになる。
アシュパルとほぼ同じ年頃だろうか。日にたっぷりと焼け、泥のついた動きやすい麻の服を着て、手には狩りに使うのか、先の尖った粗末な木の棒を持っている。
突然現れたアシュパルを見て、少年は目を真ん丸にして急停止した。
「……誰だ、おまえ?」
少年は、驚きを隠せない様子だったが、声に警戒心はあまり感じられない。むしろ、森の中に見慣れない姿の少年がいることへの、むき出しの好奇心が勝っているようだった。そのあまりに屈託のない口調に、緊張していたアシュパルは少し拍子抜けする。
「僕は…その…迷ってしまって…」
なんと答えればいいのか、言葉に詰まる。自分が皇子であるなど、ここで言えるはずがない。侍従から借りたとはいえ、自分の着ている簡素な上着ですら、目の前の少年の服に比べれば上等なものに見えるだろう。明らかに、自分はこの森に不釣り合いな存在だった。
少年は、アシュパルの服装と、途方に暮れた様子を交互に見て、何か合点がいったようにポンと手を打った。
「ああ、なんだ! あんた、もしかして丘の上の離宮のやつか? 最近、都から偉いお坊ちゃんが療養に来てるって、うちの父ちゃんが言ってたぞ。あんた、そこの使用人の子か何か?」
離宮の使用人の子供。あるいは、その親類か何か。少年はそう推測したらしかった。
アシュパルは、一瞬ためらったが、否定も肯定もせず、ただ曖昧に頷くしかなかった。彼が皇子だと知られれば、すぐに離宮に連絡され、二度と外には出してもらえなくなるに違いない。この誤解は、むしろ今の彼にとっては好都合かもしれなかった。
「やっぱりな!田舎の使用人の子にしちゃ、ひょろっとしてて変な感じだと思ったぜ」
少年は納得したように頷き、歯を見せてにっと笑った。警戒心はすっかり消えている。
「俺はミルン! ハルモ村のミルンだ。この辺りの森は庭みたいなもんだぜ。あんたの名前は?」
「…アシュパルだ」
名乗ると、ミルンは「アシュパル? ずいぶん変わった名前だな!」と少し面白そうに繰り返したが、そこに悪意は全く感じられなかった。
「それで、アシュパル。見事に迷子ってわけか。しょうがねえなあ」
ミルンは、まるで弟の面倒でも見るかのように、自信たっぷりに胸を叩いた。
「よし、任せとけ! 俺が離宮の近くまで送ってってやるよ!」
その太陽のような明るさと力強さに、アシュパルの張り詰めていた心が、少しずつ和らいでいくのを感じた。見知らぬ森で一人きりという絶望的な状況に、差しのべられた思いがけない手。
「…助かる、ミルン」
素直に礼を言うと、ミルンは「おう! こっちだ!」と元気よく頷き、木の棒を肩にかつぐようにして、迷いなく森の中を歩き始めた。彼は、森で見つけた珍しい茸の話や、昨日捕まえた大きな蛙の話など、次から次へと楽しそうに喋り続けている。
アシュパルは、少し遅れてその背中を追いながら、思いがけない出会いと、ほんの少しだけ開けた視界に、胸が弾むのを感じ始めていた。
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