第4話
離宮での単調な日々がひと月ほど過ぎた頃には、アシュパルの悩みの種だった咳はだいぶ落ち着きを見せていた。体力も、都にいた頃に比べれば少しずつではあるが、回復してきている実感があった。だが、それは同時に、彼の内に燻っていた旺盛な好奇心と、十二歳の少年らしい冒険心に、再び火を点けることにもなった。
来る日も来る日も同じ庭園を散策し、同じ書物を読み返す日々。窓から見える、手の届かない森の深い緑が、日に日に彼を手招きしているように思えてならなかった。
「少しだけ…ほんの少しだけなら、侍医も許してくれるだろうか…いや、駄目だ」
そんな自問自答を繰り返す。許可を求めても、きっと止められるに決まっている。
その思いは、侍従たちの動きが最も少なくなる、昼下がりの穏やかな時間に、ついに抑えきれない衝動へと変わった。
「ほんの少しだけ。すぐ戻れば、誰も気づかない」
アシュパルは自分に言い聞かせると、心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、行動を起こした。療養中の皇子が勝手に敷地の外へ出ることなど、離宮の誰も考えもしないだろう。その油断が、彼にとっては好都合だった。
彼は、侍従が散策用に用意してくれた、動きやすい簡素な上着を羽織ると、足音を忍ばせて自室を抜け出した。目指すは、庭園の奥、普段は庭師以外ほとんど人の近づかない生け垣の切れ目だ。もし見つかれば、すぐに都へ連絡が行き、二度とこんな機会はなくなるかもしれない。だが、未知への誘惑は、恐怖に勝っていた。
息を潜めて生け垣の切れ目を抜けると、そこはもう離宮の美しく管理された世界ではなかった。
足元には、踏み固められていない柔らかな土の感触。むっとするような濃い草いきれと、湿った土の匂いが鼻腔を満たす。鳥の声も、庭園で聞く上品なさえずりとは違い、ずっと力強く、野性的だ。
アシュパルは、生まれて初めて感じる「本物の」自然の空気に、思わず深く息を吸い込んだ。
(自由だ…!)
胸が躍るような開放感。しかし同時に、全く知らない世界にたった一人で足を踏み入れた事実に、わずかな不安も感じていた。
彼は、森へと続く獣道のような、かすかな踏み跡を見つけて辿り始めた。頭上では木々の葉が重なり合って陽光を遮り、地面には複雑な光と影の模様を描き出している。足元には見たこともない形の花が咲き、色鮮やかな昆虫が飛び交っていた。時折、茂みがガサリと音を立て、小さな動物が駆け抜けていく気配に、アシュパルは少し驚きながらも、その度に目を輝かせた。
何もかもが、書物で知る知識とは違う、生きた感触を伴って迫ってくる。
(もう少し先へ…あの大きな木のところまで行ってみよう。あの坂を登れば、湖が見えるかもしれない…)
好奇心に引かれるまま、彼は夢中で歩を進めた。体のことなど、すっかり忘れていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
夢中になって歩いていたアシュパルは、ふと足を止め、周囲を見回した。いつの間にか、頼りにしていた踏み跡は消え、似たような木々が立ち並ぶばかりで、自分がどこから来て、どちらへ向かっているのか、全く分からなくなっていた。太陽は高く茂った葉に遮られ、方角も定かではない。
少し開けた場所に出て、アシュパルは立ち尽くした。さっきまでの高揚感は急速に冷めていき、代わりに心臓が不安でどきりと大きく鳴る。
(迷った…?)
見渡す限り、人影はない。ただ、風が木々の葉を揺らす音と、遠くで響く知らない鳥の声だけが聞こえる。
ここは、どこだ? 彼は一人だった。憧れていたはずの森の中で、完全に道に迷ってしまったのだ。
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