第3話
皇帝の命が下りてからの十日間は、静かに、しかし慌ただしく過ぎていった。アシュパルの療養のための準備が、侍従たちによって粛々と進められる。
彼の身の回りの品々、季節に合わせた着替え、そして何よりも、彼が離宮での時間を過ごすための慰めとなるであろう多くの書物が、丁寧に荷造りされていく。アシュパルが特に大切にしている、古代の詩歌集や星図も忘れずに加えられた。
アシュパル自身は、侍医の指示に従い、出発に備えていつも以上に安静に過ごしていた。兄シルヴァンは、多忙な公務の合間を縫って何度かアシュパルの部屋を訪れ、弟を励ます言葉をかけた。
「南の地でゆっくり休めば、きっと元気になるさ。土産話を楽しみにしてるよ」
その言葉に嘘はないのだろう。だが、アシュパルには時折、兄の穏やかな瞳の奥に、自分には計り知れない深い憂いのようなものが見える気がしていた。それはおそらく、自分の体のことだけではない、もっと大きな何かに対するものではないかと、漠然と感じるのだった。
出発の朝は、穏やかに晴れた。アシュパルは父帝に短い出発の挨拶を済ませると、皇太子シルヴァンに見送られながら、皇家の紋章が輝く豪奢な馬車に乗り込む。
「元気でな、アシュパル」
兄の少し翳りのある笑顔に見送られ、重い扉が閉まる。やがて車輪がゆっくりと回転を始めた。帝都の喧騒が次第に遠ざかり、馬車の窓から見える景色が、整然とした石造りの街並みから、緑豊かな郊外へと移り変わっていくのを、彼はただ黙って眺めていた。これから始まる新しい日々への、わずかな期待と、それ以上の不安を胸に抱きながら。
数日間に及ぶ馬車の旅は、アシュパルにとっては長く感じられた。揺れに耐えながら持参した書物を読んだり、窓の外を流れる見慣れぬ田園風景や、遠くに見える山々の連なりに目をやったりして過ごす。都から遠ざかるにつれ、空気は明らかに澄み、土と草いきれの匂いが濃くなっていくのを感じた。
そしてようやく、馬車は緑深い丘陵地帯にひっそりと建つ離宮の門をくぐった。都の宮城のような威圧感はない。むしろ、周囲の自然に溶け込むように設計された、上品で落ち着いた佇まいの木造建築だ。手入れの行き届いた庭園の向こうには、父帝が話していた通り、きらきらと陽光を反射する穏やかな湖面も見えた。
出迎えたのは、離宮の管理責任者である初老の男性と、数名の侍従たち。彼らは旅の疲れを見せるアシュパルを気遣いながら、恭しく、しかし過度にかしこまらずに迎え入れた。
離宮での生活は、想像していた以上に規則正しく、そして静寂に包まれたものだった。
朝、侍医の診察を受け、決められた時間に苦い薬湯を飲む。午前中は庭園を軽く散策し、午後は自室で書見に耽る。食事は彼の体調に合わせて考えられた、消化の良いものが静かに運ばれてくる。夜は、虫の声と遠くで鳴く夜鳥の声だけが聞こえる中で、早くに床に就く。
侍従たちは皆、彼の健康を第一に考え、過不足なく、そして控えめに世話を焼いてくれる。だが、彼らはあくまで「従者」であり、アシュパルが心を許して語り合える相手ではなかった。話し相手といえば、時折、庭師の老人と当たり障りのない天気の話をするくらいだ。
澄んだ空気と静養のおかげか、都にいた頃よりは確かに咳の回数は減り、体の重さも少し和らいだように感じられた。
しかし、あまりにも変化のない単調な日々に、十二歳の少年の心には、次第に退屈という名の薄靄がかかり始めていた。窓から見える、どこまでも続きそうな深い森の向こうには、何があるのだろう? あのなだらかな丘を越えれば、どんな景色が広がっているのだろう?
療養という名の、美しく整えられた鳥籠。
アシュパルの旺盛な好奇心は、再び外の世界へと、静かに、しかし確実に、その羽根を伸ばし始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます