第2話
あの日から数日後、アシュパルは父である皇帝陛下に召し出され、その私室へと赴いた。兄である皇太子シルヴァンも、穏やかな表情で傍らに控えている。父帝の私室は、公的な謁見の間とは比べ物にならないほど落ち着いた設えだったが、それでも壁に掛けられた皇国の紋章や、重厚な調度品が、この部屋の主の地位を物語っていた。アシュパルは少し身を硬くし、父の前に進み出た。
「アシュパル、よく来たな。楽にしなさい」
玉座ではなく、柔らかな肘掛け椅子に深く腰を下ろした皇帝は、アシュパルを手招きした。その顔には、国の統治者としての厳しさよりも、息子を気遣う父としての憂いの色が濃く浮かんでいる。グレゴリオを筆頭とする神官たちが見せるような、人を射抜くような厳しさとは違う、温かみのある眼差しだ。
「近頃、また咳が続いていると聞いている。侍医からも、そなたの体には、人が多く埃っぽい都の空気は良くないとの報告があってな」
皇帝の言葉は静かだったが、確かな重みがあった。傍らのシルヴァンが、心配そうにアシュパルを見つめている。
「父上、私は…」
大丈夫です、と言いかけたアシュパルの言葉を、皇帝は静かに遮った。
「無理はいけない、アシュパル。そなたの才は皇国の宝だ。だが、健やかな体がなければ、その才も十分に花開くことはできぬ」
皇帝は、傍らのシルヴァンと一度視線を交わしてから、決然としてアシュパルに向き直った。
「そこでだ。しばし都を離れ、南にある皇家の離宮で療養することを決めたいと思う。あの地は緑豊かで湖にも近く、空気も澄んでいる。何より静かな環境だ。体を休め、健やかに過ごすのがよかろう」
シルヴァンが、安心させるように付け加える。
「侍医や侍従も腕利きの者をつける。何も心配はいらない。今はただ、体を治すことだけ考えるんだ、アシュパル」
(やはり、か…)
アシュパルは、予感していた言葉に、静かに頷いた。父帝の深い憂慮、兄の優しい励まし。二人の想いが痛いほど伝わってくる。書物ばかりが友のこの宮廷を離れる寂しさがないわけではない。だが、この息苦しい日々や、ままならない自分の体から一時でも解放されるのなら、それも良いのかもしれない、とも思った。違う空気に触れることで、何かが見つかるかもしれない。そんな淡い期待も胸をよぎった。
「…はい、父上。御意に従います。シルヴァン兄上も、ありがとうございます。ご心配をおかけし、申し訳ありません」
アシュパルは努めて落ち着いた声で答えた。
皇帝は、アシュパルの殊勝な態度に僅かに目を細め、深く頷いた。
「うむ。無理はせず、ゆっくり養生するが良い。グレゴリオにも話は通しておこう。出発は…そうだな、準備もあるだろうから、十日後としよう」
皇帝が具体的な日程を口にし、アシュパルのしばしの宮廷からの離脱が、静かに、しかし決定的に決まった。南の離宮。そこがどんな場所なのか、アシュパルはまだ知らなかった。
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