帝国の禁忌と忘れられた精霊たち
風葉
第1話
皇国の壮麗な宮城の一室は、磨き上げられた石床に午後の柔らかな光を映し、静寂に満ちていた。
季節は初夏。高い窓からは、活気あふれる帝都の街並みが遠くまで見渡せる。空には白い雲がゆったりと流れ、風に乗って人々の喧騒が微かに、本当に微かにではあるがここまで届いていた。
その静寂の中心に、十二歳の皇子アシュパルはいた。豪奢な彫刻が施された黒檀の書見台には、帝国の成り立ちと、神の子孫とされる歴代皇帝の事績を記した分厚い書物が開かれている。彼は、年の割には落ち着いた、というよりは少し大人びた様子で、真剣な眼差しを複雑な文字の上に滑らせていた。
旺盛な知的好奇心を持つアシュパルにとって、書を読む時間は何よりの慰めだった。だが、その心を満たすものが、同時に彼の体を蝕むこともあった。
不意に、喉の奥から込み上げるような感覚があり、アシュパルは小さく身をこわばらせた。「コホン、コホン…ッ」。慌てて口元を、常に携帯している上質な絹のハンカチで覆う。侍医が調合した薬湯を毎日欠かさず飲んでいるにも関わらず、この咳はなかなか彼を解放してはくれなかった。
すぐに発作は収まったものの、浅い呼吸が繰り返され、額にはうっすらと汗が滲む。ほんのわずかな発作でさえ、体力を消耗させるのだ。書の内容に再び集中しようとしても、鈍い疲労感が思考を霞ませ、文字がぼんやりと滲んで見える。
アシュパルは諦めて顔を上げ、窓の外に目をやった。空を鳥が自由に飛び交っている。遠くの市場は、きっと色とりどりの産物と、健康な人々の熱気で溢れているのだろう。それに比べて、自分はこの美しく、しかし息の詰まるような『籠』の中だ。書物だけが、彼をここではないどこか、自由な世界へと連れて行ってくれる唯一の翼だった。
(父上も、兄上も、私のこの体のことをいつも心配してくださる…)
彼は小さく息をついた。特に最近、父である皇帝陛下が、侍医と何やら深刻な顔で話し込んでいるのを何度か見かけた。自分の体の弱さが、賢君として名高い父帝の新たな悩みの種になっていることは、聡明なアシュパルには痛いほどわかっていた。おそらく、近いうちに何か大きな変化があるだろう。そんな予感がしていた。
「アシュパル様、薬湯をお持ちいたしました」
音もなく入室した侍女が、盆に載せた薬湯をそっと差し出す。独特の苦い匂いが鼻をついた。アシュパルは内心でまたため息をつきながらも、侍女には穏やかに微笑みかけた。
「ありがとう」
その声は、まだ少し掠れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます