016.「休息の微睡、闇の入り口」
市街地の喧騒はいつもより穏やかで、空には灰色の雲が緩くたなびいていた。
休息日――訓練も任務もない、貴重な一日の午前。
ショウ・アヴェリンとトラフィム・マルカヴィッチは、久々に街へと出ていた。
普段は本部周辺の限られた区画にしか足を運ばないふたりにとって、こうして繁華な都心部を歩くのはほとんど初めてのことだった。
「……すごい人の数だな」
ショウが目を細めて言う。
高層ビルが林立する通りには、観光客と地元民が入り混じり、どこか浮ついた活気を放っていた。
ショウにとって、この街並みは異国のようだった。
「この辺、来たことないんだったか?」
隣でトラフィムが軽く笑う。肩を並べて歩きながら、ちらと横目で彼を見やる。
「ああ。ディスリンから出るのは入隊のときが初めてだったから。……こういうところは、ちょっと落ち着かない」
「ふうん。都会ってだけで緊張するなんて、田舎もんらしいな」
からかうような口ぶりに、ショウは小さく肩をすくめた。
そのやり取りの後、ふたりは通りを抜け、広場沿いの小さなカフェの前で足を止めた。
看板には季節限定のドリンクが並び、ガラス越しには若者たちが談笑している。
「なあ、……あの店、入っていいか?」
ショウの言葉に、トラフィムは一瞬だけ目を見開いたあと、ふっと笑った。
「……なんだ、あんなの興味あったんだ。 ちょっと驚き」
「わ、悪いかよ。なんかおしゃれだし…… いいだろ!」
「はは、悪くない、悪くない…… いいよ、行こう」
その言葉が終わらないうちだった。
――突然、広場の向こう側で叫び声が上がった。
続いて、鈍い衝撃音と、どこかでガラスが割れる音が響く。
群衆がざわめき、何かが爆ぜるような音に、一瞬にして通りが騒然となった。
「っ、爆発……!?」
ショウとトラフィムは反射的に視線を交わし、声を合わせるまでもなく駆け出していた。
音のした方向――広場を抜けた路地の先には、崩れかけた足場、倒れた看板、巻き込まれた数名の市民。
辺りは警戒の声と混乱でごった返している。
「おい、そこの! 近寄るな!」
鋭い声が飛ぶ。
その声の主は――私服姿の若者だった。
少し乱れた髪、鋭い目つき。
見覚えのある顔に、ショウとトラフィムの足が止まる。
「……ヴィタリー!」
振り返った彼も、すぐに気づいたようだった。
「うわ、アヴェリンにマルカヴィッチ!? なんでお前らここに!?」
「そりゃ、こっちの台詞だろ」
思わず苦笑するトラフィム。
彼は制服ではなく、明らかに休暇中の私服姿だ。偶然この場にいたのだろう。
「こっちは気晴らし。そっちこそ……たまたま巻き込まれたって顔だな」
「ど真ん中だったよ……。まじで最悪」
ヴィタリーは頭を掻きながら、後ろを振り返る。
そこでは、もうひとりの民警訓練生――ラチェスタが、手当をしながら負傷者を誘導していた。
「ラチェスタも一緒だったのか。見たところ、怪我は……?」
「軽傷の市民が何人か、あとは……見ての通り、現場はぐっちゃぐちゃ」
現場は建物の一角、構造上は完全に崩落していないが、内部で何らかの爆発か破壊工作があったのは明らかだった。
通報を受けてか、すでに警官隊が遠巻きに規制線を張っており、徐々に状況把握が進んでいる様子だった。
「……ショウ。あれ」
トラフィムが顎で示した先――瓦礫の中、違和感のある痕跡があった。
人為的に設置されたとしか思えない導線の破片。金属板には、塗料が剥がされ、何らかの識別番号が刻まれていた。
「これ……軍用の爆薬痕だな。見覚えがある。試験演習で一度扱った」
ショウの言葉に、ヴィタリーも眉をひそめる。
「ってことは……これ、ただの事故じゃねぇな」
「――民間に、これを使うような連中がいるってことだ」
緊張が走る。
休息日の市街地で起きた爆発。
その意図、規模、背後関係。何もかもが未知のまま――それでも、ひとつだけ確かなことがあった。
この事件は、偶然じゃない。
そしておそらく、それは――
ふたりがこれから向かう“闇”の入口に、他ならなかった。
*
現場に駆けつけた民警が周囲の封鎖を進め、現場の混乱も次第に落ち着き始めていた頃。
ショウとトラフィム、そして偶然居合わせたヴィタリーとラチェスタの四人は、現地に留まり避難誘導を手伝っていた。
「民警の応援、第二車両が到着。これでひとまず片付きそうだな……」
トラフィムが低く呟き、ショウは頷いた。
そこへ、少し離れた位置で誘導を行っていたヴィタリーが、足早に駆け寄ってくる。
「裏通りに動けない人が二人いる。片方は体がでかくて、俺とラチェスタだけじゃ支えきれない。手、貸してくれないか?」
「了解、すぐ――」
「待て、行くな」
遮るように言ったのはトラフィムだった。
その声に思わず足を止めるショウとヴィタリー。
トラフィムはじっと通りの先を見つめ、眉間に皺を寄せていた。
「……何かおかしい。説明はできないけど、空気が……変だ」
「は? なんだよそれ。……市民が助けを待ってるんだぞ!」
苛立ったように、ヴィタリーが声を荒げる。
そのままトラフィムに詰め寄ろうとした彼を、ショウが慌てて止めた。
「落ち着け、ヴィタリー!」
「落ち着いてられるかっての! 見捨てるのか、あの人たちを――!」
噛みつくように叫ぶヴィタリーに、トラフィムは視線を逸らさずに答えない。
その様子に気づいたラチェスタが、遠目から駆け寄ってくる。
――そしてその瞬間、ほぼ同時に爆音が轟いた。
地面が震え、空気が反転する。
爆ぜたのは一箇所だけではなかった。
左右の建物、裏通りのフェンス、離れた交差点――
複数の地点で炸裂音が走る。粉塵と火花が巻き上がり、視界が一気に灰色に染まった。
「っ、ショウ――!」
咄嗟にトラフィムがその肩を掴んで引き寄せ、すぐ背後の車両の陰に身を滑り込ませた。
一方で駆け寄っていたラチェスタも、衝動的にヴィタリーに飛びつくようにして押し倒す。
数瞬遅れて、破片が舞った。
鉄骨の一部が通りに突き刺さり、ガラスが砕け、火花が舗装を焦がしていく。
「っ……おい、無事か!」
「……あ、ああ、なんとか」
粉塵の中で、互いの顔を確かめる。
ショウとトラフィムは頷き合い、視線を交わした。
ヴィタリーは地面に転がった拍子に腕を擦り剥いていたが、意識ははっきりしている。
何よりもその目が、次の瞬間、何かを確かめるように辺りを走った。
「――あそこにいたはずの市民がいねぇ!」
ヴィタリーが声を上げる。
指さした先は、先ほど救助要請を受けていたはずの裏路地だ。
だがそこには、誰の姿もなかった。
ただ、壁には爆破工作の痕跡――焼け焦げた鉄筋と、不自然に剥がれた塗装の跡が生々しく残っていた。
「……やっぱり、罠か」
トラフィムが、息を吐くように低く呟いた。
「わ、罠……? なんの話だよ、それ」
困惑したヴィタリーが問い返す。
ショウが何かを言おうとして口を開くが、すぐに言葉を詰まらせた。
その横で、トラフィムが代わるように口を開く。
「俺たちは、最初から狙われてたんだ。偶然なんかじゃない。さっきの救助要請も、最初の爆発も…… ――全部、誘導のために仕組まれてた」
ここに俺たちを集めて、一気に巻き込むための罠だ。……そういう計画的な攻撃だ……」
突然の話に唖然とするヴィタリーとラチェスタ。しかし、トラフィムとショウは数度の接触で確信していた。これが“あの男”のやったことだ、と。
手口が、異常なほどに“整いすぎている”。
人の流れを逆算し、タイミングと仕掛けを寸分狂わずに合わせたような爆破構成――それは、偶然や愉快犯の仕業ではない。
「……ヴァシリー……!」
その名を呼ぶトラフィムの声音には、憎悪とも、恐怖ともつかない、芯の通った静かな怒りが滲んでいた。
逃れられない“追いかけっこ”の再開。それを彼は、本能で悟っていた。
阿鼻叫喚の中、すでに応援に駆けつけていた民警数名が、崩落現場にて負傷者の救助を始めていた。
だが、被害の規模は拡大の一途を辿っていた。
「……増援を要請する。もう現場レベルじゃ対処できない」
ショウが通信端末を取り出し、震える指先で端末を操作する。
だが――
「……圏外? こんな街中で……?」
焦ったようにアンテナを確認するが、画面には“NO SIGNAL”の表示。
トラフィムがすぐに隣で端末を確認し、表情を険しくする。
「ジャミングだ。……周囲一帯、民間回線ごと潰されてる」
その言葉の冷たさに、ショウの指先が止まる。
作為的な通信妨害。
彼らは、その異常さが意味するところを理解していた。
そのときだった。
トラフィムの耳が、何かを捉える。
(……下水の蓋が、鳴ってる……?)
誰にも届かないほどの小さな声だった。
だが次の瞬間、彼は瞬時にショウの肩を掴み、物陰へと飛び込むように引き寄せる。
「お前ら、伏せろ!」
その直後――
突如として、下水道の蓋が爆ぜ上がる。
激しい噴出音と共に地下からの爆圧が巻き起こり、空中へ跳ね上がった鋼鉄の円盤が、数十メートル先のバスに直撃した。
爆炎が走り、コンクリートの歩道が抉れ飛ぶ。
瞬間、隣接するビルが軋みを上げて傾き、そのまま崩れ落ちた。
剥き出しの鉄骨が折れ曲がり、砕けた外壁が粉塵となって宙を舞う。
視界は灰色に染まり、耳をつんざく悲鳴と怒号が混ざり合って響いた。
続いて、重低音の衝撃が腹の底を揺らした。
トラフィムは瓦礫を払いながら、ショウに向き直る。
「……っ、ショウ!平気か!」
「大丈夫だ、悪い、助かった!」
「いい! それより気ぃ抜くなよ、まだ終わっちゃいねぇ!」
焦げた空気のなか、わずかに血の匂いが漂っていた。
「次の誘爆もあるかもしれない。警戒しろ。ここはもう、どこが地雷かわからない」
「……ああ。了解。民間人の誘導も急ごう。まだ、動ける人はいるはずだ」
ショウは短く息を呑み、唇を引き結んで頷いた。 ふたりは背中を合わせるようにして周囲を見回す。
火花を散らした変電設備、崩れた歩道橋、転倒した車両の下から微かに聞こえる呻き声――あらゆるものが、次の危機を孕んでいた。
「ヴィタリーたちは…… ラチェスタが先に避難させてるか」
「信じるしかねぇな。今は足を止めるな」
すでに地形が変わってしまった通りを、ふたりは慎重に踏み出す。
片足分の踏み込みすら油断できない、緊張の時間が続いた。
風に乗って漂う、焦げた油と硝煙の混じった匂い。 バストリナヤという都市の中心が、今まさに瓦解しようとしていた。
灰色に染まる街。
地面も、空も、瓦礫も、そこに立つ人の心すらも、色を失い始めていた。
しかし、この都市の中心部に刻まれた“爪痕”は――まだ、ほんの序章に過ぎなかった。
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