015.「演目:晩餐のワルツ」


 


 夜景が滲むタワービルの最上階、貸し切られた個室は外界から完全に遮断されていた。




 重厚なカーテンはぴたりと閉じられ、煌々と灯るシャンデリアが、白磁の皿と銀の燭台をきらきらと照らしている。赤ワインの影が、天井近くまで長く伸びていた。



 そのテーブルの中央、空の皿を前にひとり腰掛けるのは――


 


 ヴァシリー・マルカヴィッチ。


 


 黒に近い深紅のスーツを身にまとい、脚を組むその姿には、どこか舞台俳優めいた優雅さすら漂う。けれど、彼の眼前に置かれているものは、食材ではない。


 皿の中央に広がっていたのは、折り目のついた一枚の写真。制服姿のまま、整列したふたりの少年。民警の訓練資料から切り抜かれた、トラフィムとショウ。






 「ねぇ、見て見て。今日の晩餐は、ちょっとだけ贅沢なんだ」



 ヴァシリーはくすくすと笑いながら、手元のフォークで皿の縁をなぞる。



 くっとグラスを傾け、赤い液体を一滴、また一滴と写真の上に落とす。

 ワインを吸ってじわりと赤く染まる紙の上、ふたりの少年は黙したまま、こちらを見つめ続けていた。



 「やっと……やっと、また会えたんだよ」


 


 彼の声には、喜びが滲んでいた。

 それは確かな感情で、紛れもない“本心”だった。


 だがそれが、愛か、執着か、あるいは欲望か――部下たちには、もはや判別も許されていない。



 「ねぇ、ミルカ。あの子、ちゃんと生きてたんだよ? えらいよねぇ、あんな小さかったのに、ちゃんと逃げて……ちゃんと、ぼくのところまで戻ってきたんだよ」




 そっと名を呼ばれた女――ミルカは、背後で静かに頭を垂れる。



 「……はい、大変、喜ばしいことです」


 「だよね!」


 

 名を呼ばれた者以外の部下たちは、静かに、口を閉ざす。

 彼らの話は、ここ数週間、部下たちにとっては何度も聞いた話だ。そして、それを遮るのは良くないことだった。


 ヴァシリーはグラスを置くと、写真へと身を乗り出す。




 「この子たちはね、今日の“ごちそう”なの。ほんとはね、すぐに食べちゃいたい。でも、それじゃあ勿体ないでしょう?」




 その目は、とろけるように細められている。


 皿の上の写真に口づけを落としながら、まるで血と蜜に酔う獣のように、陶酔と高揚が入り混じる表情を浮かべていた。






 「――あの子、どんな声で泣くと思う?」


 部屋はしんと静まり返った。



 「ごほうびみたいにさ……震えながら、名前を呼んでくれたりするのかな」




 誰も返答はしない。目も合わせない。あらゆる部下が、息を潜めて彼の“戯れ”が過ぎるのを待っていた。


 そして 部下のひとりが、空気を変えるべく書類を差し出す。



 「本部の動きです。第二課の情報網から、踏み込みの予兆が……」



 報告書を差し出す男を一瞥し、ヴァシリーはにやけたまま立ち上がった。

 次の瞬間。


 くるり、くるり。



 まるで音楽が聞こえているかのように、彼は床の上を舞い始める。


 ダンスステップを踏みながら、部下の手から紙束を受け取る。報告書に目を落としながらふん、ふん、と鼻歌を歌う。

 グラスを片手に、もう一方で報告書をひらひらと翻し、まるで舞台上の主役のように回転する。



 「なんてことだろう……!それって、ぼくたちのこと…… 忘れてくれてないってことでしょ?」




 誰もが沈黙し、目を伏せる。


 それでも彼は気にしない。紙束を掲げ、紙人形のように踊らせながら、相手の手を取る。




 「さあ、笑って! “舞台”はもう、できてるんだから!」



 彼の動きが止まる。

 視線は再び、テーブルの上の皿へと向けられた。




 「……準備はちゃんとしてあるんだ。壊れるまで、ゆっくり煮込む。そうすれば、最後の一口が……いちばん美味しいんだから」




 彼は微笑んだ。

 けれど、その笑みには血の匂いが混じっていた。



 


 写真の上で、ワインはすでに乾き、くすんだ鉄錆色を帯びている。


 彼は静かに指先で皿を撫で、囁く。



 「……もう少し、熟させないとね。せっかくの、ごちそうなんだから」





 ひとしきり踊った彼は、酔いが冷めたように再び椅子に腰掛ける。

 その動作すらも、どこか演技がかっていた。


 グラスに注がれた深紅のワインを口に含み、ひと息ついてから、声を上げた。



 「――マーシャ、いる?」



 声に応じて、部屋の隅に控えていた黒服の女が歩み出た。

 短く切り揃えられた黒髪。氷のような双眸。淡い装飾のないスーツに身を包んだその姿は、執事にも兵士にも見えた。




 「はい。すべて予定通りに進行中です」


 「よかった。あの子たちが“お腹を空かせて”来たら、すぐにご馳走できるようにしておいてね」


 「準備はすでに完了しています」


 「さすが、マーシャは優秀だねえ」



 ヴァシリーは上機嫌で立ち上がると、唐突に彼女の手を取った。

 そして、そのまま踊るように一回転。


 手の甲にキスを落とし、鼻歌を響かせる。



 「……ねぇ、まだ“灰かぶりくん”と一緒にいるの?」


 「はい。現在の監視記録では、居住空間の共有、生活リズムの同期、食事の同席が継続しています」


 「いいねえ、いいねえ……! そういうのが、いちばん良い“出汁”になるんだよ」




 歓喜と陶酔。

 部屋の空気が、わずかにざわつく。




 その瞬間――

 扉が軋んで開き、別の男が入室する。


 筋張った体格の壮年男。分厚いジャケットに火薬と油の匂いを纏ったその男は、場の空気も読まずに口を開いた。



 「ヴァシリー様。次の取引候補についてのご報告なのですが、港の第三倉庫が……」






 「――退屈だねぇ、それ」



 ヴァシリーの声が低く、仮面を裏返すように切り替わる。

 ゆっくりと男の方へ歩き出し、真っ向からその顔を覗き込むように見据えた。



 「アニェーリ、君ってほんと、野暮だよねぇ?」




 アニェーリは、視線を逸らすことすらできなかった。




 「せっかく晩餐の余韻を楽しんでたのに。ちょっとくらい空気、読んでくれてもいいのにさ」




 ひとつ溜息をつくと、彼は再び椅子へと戻った。




 「で? 続き」



 「は、はい……例の東部接点、港湾都市経由に切り替え。貨物リストは……裏通関も完了済みです」


 「うん、じゃあ……そのあたりで“おもちゃ箱”を用意して」


 「……おもちゃ箱、とは?」


 「灰かぶりくんと、トラフィムが遊べる場所。迷路でも、罠でも、隠し扉でもいい。あの子たちが、自分の足で迷い込める、素敵な舞台をさ」


 「……手配します」



 アニェーリは頷き、短く敬礼すると退室していった。


 ヴァシリーは、再びワインのグラスを傾けながら、皿の上の写真を撫でた。



 「準備は整ってる。あとは……どこで最初の鈴を鳴らすかだけ」





 その声は甘く、柔らかく――そして、底知れぬほど冷たかった。



 「灰かぶりくんも、トラフィムも。ぼくの可愛いごちそう。焦らないで、ちゃんと温まってから来てね」




 この夜、地上の喧噪は遥か彼方。

 世界から隔絶されたようなこの最上階には、確かに“獣”が棲んでいた。




 幕は――とうに、上がっていた。

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