014.「潜む者、探る者」






 朝焼けはまだ地平線を濡らすだけで、訓練棟の屋根にまで届いていなかった。

 冷たい空気が建物の隙間を滑り、靴の底をじんと凍えさせるような時間帯――



 犬班施設の地下連絡室に、ショウとトラフィムの姿があった。


 


 制服の上に簡易装備を身につけ、背筋を伸ばして立つふたりの前で、任務資料を配るのはレオニード・クラヴツォフ伍長。

 無駄な言葉はない。ただ、的確で、要点を外さない口調。

 


 「目的地は旧第七集合住宅跡。現在は使用されていないが、過去にスヴェトカ関連の拠点として複数回マークされている」




 レオニードが淡々と説明する中、ショウは手元の資料に目を走らせながら問いを挟む。



 「今回は突入じゃなく……調査だけ、ですか?」


 「そうだ。建物内部に“何か”が残っていれば回収。危険因子があれば速やかに離脱。基本的に交戦は禁止だ」



 その返答に、ショウはうなずき、横目でトラフィムを見やった。

 トラフィムも、黙って頷いていた。



 このところ、トラフィムの様子はわずかに変わっていた。

 怯えを押し殺すような姿勢ではなく、まっすぐ目の前を見るようになってきている。


 完璧ではない。


 だが――明らかに、あの夜から一歩を踏み出そうとしていた。



 「今回は、伍長の俺と、訓練生ふたり。監視要員にもう一人、うちの隊員が裏からバックアップに入る。……以上だ」



 レオニードの言葉に、ふたりは短く返事をし、荷物を確認する。


 気がつけば、こうした緊張にも少しずつ慣れ始めている。

 そしてそれは、確かに“訓練”ではなく、“任務”の空気だった。








 移動車は民間用の改造バンだった。


 外装もナンバーもごくありふれており、どこから見てもただの古びた業務車両。

 助手席に座るレオニードの背中越しに、トラフィムは窓の外をぼんやりと眺めていた。



 街は、まだ眠っている。

 明けきらない空の下、川沿いの建物は影のように沈み、ただ冷たい風だけが時折車体を揺らした。

 


 「……寒いな」



 不意に漏らしたショウの声に、トラフィムは「そうだな」とだけ返した。


 言葉は少なかったが、その静けさがむしろ心地よかった。








 


 旧第七集合住宅。


 川沿いに沈むように建てられた八階建ての廃墟は、風の音すら濁すような重さでそこにあった。

 周囲は静まり返っていた。街灯は一本もなく、近隣の建物はすべて既に立ち入り禁止区域に指定されている。


 この場所は、誰にも知られない“空白”として長く放置されていたのだ。



 だからこそ、連中が拠点に使った。




 そして今も、あるいは“その残り香”を置いていった――



 「この建物がどういう使われ方をしてたかは、はっきりとは分からない」



 レオニードが簡単に説明を加える。



 「何かの“受け渡し拠点”だった形跡がある。人の出入りは多くないが、機材が何度か運び込まれてる。監視カメラの死角を徹底的に突いてたらしい」


 「つまり、見つけるのは……難しいってことですね」



 ショウが言うと、レオニードは頷いた。



 「だが、気配は残る。鼻で嗅げ。目に見えなくても、空気は嘘をつかない」





 エントランスを抜けると、建物内部は更に荒れていた。

 壁はところどころ剥がれ、床には倒れた鉄パイプや折れた家具が散乱している。


 トラフィムは、足元のガラス片を踏まないよう細心の注意を払いながら、周囲を観察していた。




 「ここ……誰かが整えてるような場所だな」


 「……だな」



 廃墟というには、妙に“整理されている”のだ。

 瓦礫の山が、まるで人の通路を避けるように左右に押しやられている。


 階段は崩れてはいるものの、手すりの一部には最近誰かが触れた痕跡がある。



 「使われてる、まだ」



 トラフィムがぽつりと呟く。


 


 それは、確信だった。






 


 やがて三階の踊り場で、レオニードが立ち止まる。



 「このフロアが目標地点だ。手分けする」



 レオニードは自身が階段奥の部屋を確認すると言い、ふたりには向かって左手の通路を任せた。



 「何か異常を感じたら、すぐ報告しろ。いいな」


 「了解」

 「……了解」




 埃と湿気に満ちた廊下を、ショウとトラフィムは無言で進んでいた。


 扉のほとんどは壊れていて、中の確認は容易だったが、その代わりに“妙な違和感”があった。



 「誰かが……通った跡がある」




 ショウがぽつりとつぶやき、足元を照らすライトを少し上げた。

 その光の先、ある部屋の壁に――わずかにめくれた便箋が一枚、釘に引っかかっていた。



 周囲の埃はそのままだ。だが、紙の角だけが僅かに黒ずんでいて、風のない空間で微かに揺れている。


 トラフィムが近づき、ゆっくりとそれを手に取った。



 -またね、って、言ったでしょ。忘れたの?-


 


 目を細めた瞬間、無意識に唇の端が引きつる。



 「……ふざけた真似を」


 


 それは、あの男が昔から好んで使っていた調子だった。

 誰かの気を逆撫でするように、わざとぐちゃぐちゃの文字と、踊るような言葉遊び。



 「ヴァシリー……か?」



 ショウが尋ねると、トラフィムは短くうなずいた。



 「間違いない。……あいつ、わざわざこういうの置いてく。昔からそうだった」



 便箋を指先で軽く折ると、トラフィムは深く息を吐く。



 「“またね、って、言ったでしょ?”…」


 「何がまたね、だよ…… ふざけんな」



 トラフィムの声は低く静かだった。

 怒鳴り声でも、震えでもない。

 ただ、張り詰めた何かを丁寧に引きはがすような響き。



 「……いまだに兄弟気分でいるのか、」




 便箋をくしゃりと折りたたみ、トラフィムは足元の瓦礫の中へと落とした。



 「俺は、もうあいつを兄だなんて思ってねぇ。あいつに付き合ってやる気は、もうない」


 


 


 ショウはそれを聞いて、そっと目を細めた。


 言葉は無かった。ただ小さく肩を叩くだけ。

 トラフィムは前を向いている。 あの夜の恐怖をゆっくりと乗り越えて。


 ひとつひとつの選択が、トラフィムの“今”を示していた。

 わずかに残る震えは、怒りでも恐れでもない。


 ただ、“仇と再び向き合うことになる覚悟”が、骨の芯で固まり始めているだけだった。







 調査を終えた三人は、何も言葉を交わさず建物を出た。

 旧集合住宅の外は、ようやく夜が明けかけていた。


 空の端が少しだけ白んでいる。


 川沿いに吹く風が湿っていて、夜に吸い込んだ埃と錆の匂いを洗い流してくれるようだった。




 トラフィムは、一歩だけ建物を振り返る。


 もう、あの場所には何も残っていなかった。

 けれど、自分の中に燻っていた“なにか”は、確かにあそこで一つ、区切りをつけられた気がした。



 「行くぞ」



 レオニードの短い声に、ふたりは車へと戻る。

 エンジンの音が静かに回り始め、夜明けの都市を背景に、車体が滑るように走り出した。


 その背後で、崩れたコンクリートと錆びた階段だけが、また誰にも見られない廃墟に戻っていった。










 ――数日後。


 


 任務報告は無事に終わり、犬班との初の合同行動は「調査任務完了」として正式に記録された。


 朝の光が差し込む寮のダイニング。

 小さなローテーブルの上には、手際よく並べられた湯気の立つ皿が二人分。



 白い湯気の立つスープ。

 薄く焼いたパンとハーブの炒め物。

 そして、カップに入った少し濃いめの紅茶。


 トラフィムは自分の席に腰を下ろし、調味料の瓶のラベルを確認してからスプーンを取った。



 「……うん、今日のはちゃんと仕上がってる」


 「おまえのメシはいつもうまいだろ」



 ショウが淡々と答える。



 いつもの朝。

 静かで、落ち着いたやりとり。

 だが、その空気の中には、どこか以前より柔らかいものが混じっていた。




 しばらくして、ふとショウが口を開く。



 「……なあ、また来ると思うか。任務」



 スプーンを止めることなく、トラフィムが返す。



 「来るだろ」



 言い切る声には、以前のような硬さがなかった。

 まっすぐで、冷静で、どこか遠くを見るような響き。



 「また、どっかで……あいつの気配にぶつかる」


 「……ヴァシリーに?」


 「ああ。……でも、今なら……ちゃんと撃てると思う」



 ショウはスプーンを置き、少しだけ視線を向ける。

 笑いもせず、ただその言葉を真っ直ぐに受け止めて、うなずいた。



 「そっか」



 それだけの会話だった。


 だが、その言葉の端々に宿る静かな変化を、ふたりはきちんと理解していた。



 言葉ではなく、ふるまいの中ににじむ“強さ”。

 それは、誰かの支配でも、復讐心の爆発でもない。


 ただ“向き合う”ことを選んだ者だけが持つ、静かな決意だった。



 紅茶の湯気がゆっくりと立ちのぼっていた。

 机の上に並ぶ朝食と、それを挟んで向かい合うふたりの間には、確かにいつも通りの朝があった。



 だがその日から、ほんの少しだけ――ふたりの“日常”は、形を変えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る