014.「潜む者、探る者」
朝焼けはまだ地平線を濡らすだけで、訓練棟の屋根にまで届いていなかった。
冷たい空気が建物の隙間を滑り、靴の底をじんと凍えさせるような時間帯――
犬班施設の地下連絡室に、ショウとトラフィムの姿があった。
制服の上に簡易装備を身につけ、背筋を伸ばして立つふたりの前で、任務資料を配るのはレオニード・クラヴツォフ伍長。
無駄な言葉はない。ただ、的確で、要点を外さない口調。
「目的地は旧第七集合住宅跡。現在は使用されていないが、過去にスヴェトカ関連の拠点として複数回マークされている」
レオニードが淡々と説明する中、ショウは手元の資料に目を走らせながら問いを挟む。
「今回は突入じゃなく……調査だけ、ですか?」
「そうだ。建物内部に“何か”が残っていれば回収。危険因子があれば速やかに離脱。基本的に交戦は禁止だ」
その返答に、ショウはうなずき、横目でトラフィムを見やった。
トラフィムも、黙って頷いていた。
このところ、トラフィムの様子はわずかに変わっていた。
怯えを押し殺すような姿勢ではなく、まっすぐ目の前を見るようになってきている。
完璧ではない。
だが――明らかに、あの夜から一歩を踏み出そうとしていた。
「今回は、伍長の俺と、訓練生ふたり。監視要員にもう一人、うちの隊員が裏からバックアップに入る。……以上だ」
レオニードの言葉に、ふたりは短く返事をし、荷物を確認する。
気がつけば、こうした緊張にも少しずつ慣れ始めている。
そしてそれは、確かに“訓練”ではなく、“任務”の空気だった。
*
移動車は民間用の改造バンだった。
外装もナンバーもごくありふれており、どこから見てもただの古びた業務車両。
助手席に座るレオニードの背中越しに、トラフィムは窓の外をぼんやりと眺めていた。
街は、まだ眠っている。
明けきらない空の下、川沿いの建物は影のように沈み、ただ冷たい風だけが時折車体を揺らした。
「……寒いな」
不意に漏らしたショウの声に、トラフィムは「そうだな」とだけ返した。
言葉は少なかったが、その静けさがむしろ心地よかった。
*
旧第七集合住宅。
川沿いに沈むように建てられた八階建ての廃墟は、風の音すら濁すような重さでそこにあった。
周囲は静まり返っていた。街灯は一本もなく、近隣の建物はすべて既に立ち入り禁止区域に指定されている。
この場所は、誰にも知られない“空白”として長く放置されていたのだ。
だからこそ、連中が拠点に使った。
そして今も、あるいは“その残り香”を置いていった――
「この建物がどういう使われ方をしてたかは、はっきりとは分からない」
レオニードが簡単に説明を加える。
「何かの“受け渡し拠点”だった形跡がある。人の出入りは多くないが、機材が何度か運び込まれてる。監視カメラの死角を徹底的に突いてたらしい」
「つまり、見つけるのは……難しいってことですね」
ショウが言うと、レオニードは頷いた。
「だが、気配は残る。鼻で嗅げ。目に見えなくても、空気は嘘をつかない」
エントランスを抜けると、建物内部は更に荒れていた。
壁はところどころ剥がれ、床には倒れた鉄パイプや折れた家具が散乱している。
トラフィムは、足元のガラス片を踏まないよう細心の注意を払いながら、周囲を観察していた。
「ここ……誰かが整えてるような場所だな」
「……だな」
廃墟というには、妙に“整理されている”のだ。
瓦礫の山が、まるで人の通路を避けるように左右に押しやられている。
階段は崩れてはいるものの、手すりの一部には最近誰かが触れた痕跡がある。
「使われてる、まだ」
トラフィムがぽつりと呟く。
それは、確信だった。
*
やがて三階の踊り場で、レオニードが立ち止まる。
「このフロアが目標地点だ。手分けする」
レオニードは自身が階段奥の部屋を確認すると言い、ふたりには向かって左手の通路を任せた。
「何か異常を感じたら、すぐ報告しろ。いいな」
「了解」
「……了解」
埃と湿気に満ちた廊下を、ショウとトラフィムは無言で進んでいた。
扉のほとんどは壊れていて、中の確認は容易だったが、その代わりに“妙な違和感”があった。
「誰かが……通った跡がある」
ショウがぽつりとつぶやき、足元を照らすライトを少し上げた。
その光の先、ある部屋の壁に――わずかにめくれた便箋が一枚、釘に引っかかっていた。
周囲の埃はそのままだ。だが、紙の角だけが僅かに黒ずんでいて、風のない空間で微かに揺れている。
トラフィムが近づき、ゆっくりとそれを手に取った。
-またね、って、言ったでしょ。忘れたの?-
目を細めた瞬間、無意識に唇の端が引きつる。
「……ふざけた真似を」
それは、あの男が昔から好んで使っていた調子だった。
誰かの気を逆撫でするように、わざとぐちゃぐちゃの文字と、踊るような言葉遊び。
「ヴァシリー……か?」
ショウが尋ねると、トラフィムは短くうなずいた。
「間違いない。……あいつ、わざわざこういうの置いてく。昔からそうだった」
便箋を指先で軽く折ると、トラフィムは深く息を吐く。
「“またね、って、言ったでしょ?”…」
「何がまたね、だよ…… ふざけんな」
トラフィムの声は低く静かだった。
怒鳴り声でも、震えでもない。
ただ、張り詰めた何かを丁寧に引きはがすような響き。
「……いまだに兄弟気分でいるのか、」
便箋をくしゃりと折りたたみ、トラフィムは足元の瓦礫の中へと落とした。
「俺は、もうあいつを兄だなんて思ってねぇ。あいつに付き合ってやる気は、もうない」
ショウはそれを聞いて、そっと目を細めた。
言葉は無かった。ただ小さく肩を叩くだけ。
トラフィムは前を向いている。 あの夜の恐怖をゆっくりと乗り越えて。
ひとつひとつの選択が、トラフィムの“今”を示していた。
わずかに残る震えは、怒りでも恐れでもない。
ただ、“仇と再び向き合うことになる覚悟”が、骨の芯で固まり始めているだけだった。
*
調査を終えた三人は、何も言葉を交わさず建物を出た。
旧集合住宅の外は、ようやく夜が明けかけていた。
空の端が少しだけ白んでいる。
川沿いに吹く風が湿っていて、夜に吸い込んだ埃と錆の匂いを洗い流してくれるようだった。
トラフィムは、一歩だけ建物を振り返る。
もう、あの場所には何も残っていなかった。
けれど、自分の中に燻っていた“なにか”は、確かにあそこで一つ、区切りをつけられた気がした。
「行くぞ」
レオニードの短い声に、ふたりは車へと戻る。
エンジンの音が静かに回り始め、夜明けの都市を背景に、車体が滑るように走り出した。
その背後で、崩れたコンクリートと錆びた階段だけが、また誰にも見られない廃墟に戻っていった。
*
――数日後。
任務報告は無事に終わり、犬班との初の合同行動は「調査任務完了」として正式に記録された。
朝の光が差し込む寮のダイニング。
小さなローテーブルの上には、手際よく並べられた湯気の立つ皿が二人分。
白い湯気の立つスープ。
薄く焼いたパンとハーブの炒め物。
そして、カップに入った少し濃いめの紅茶。
トラフィムは自分の席に腰を下ろし、調味料の瓶のラベルを確認してからスプーンを取った。
「……うん、今日のはちゃんと仕上がってる」
「おまえのメシはいつもうまいだろ」
ショウが淡々と答える。
いつもの朝。
静かで、落ち着いたやりとり。
だが、その空気の中には、どこか以前より柔らかいものが混じっていた。
しばらくして、ふとショウが口を開く。
「……なあ、また来ると思うか。任務」
スプーンを止めることなく、トラフィムが返す。
「来るだろ」
言い切る声には、以前のような硬さがなかった。
まっすぐで、冷静で、どこか遠くを見るような響き。
「また、どっかで……あいつの気配にぶつかる」
「……ヴァシリーに?」
「ああ。……でも、今なら……ちゃんと撃てると思う」
ショウはスプーンを置き、少しだけ視線を向ける。
笑いもせず、ただその言葉を真っ直ぐに受け止めて、うなずいた。
「そっか」
それだけの会話だった。
だが、その言葉の端々に宿る静かな変化を、ふたりはきちんと理解していた。
言葉ではなく、ふるまいの中ににじむ“強さ”。
それは、誰かの支配でも、復讐心の爆発でもない。
ただ“向き合う”ことを選んだ者だけが持つ、静かな決意だった。
紅茶の湯気がゆっくりと立ちのぼっていた。
机の上に並ぶ朝食と、それを挟んで向かい合うふたりの間には、確かにいつも通りの朝があった。
だがその日から、ほんの少しだけ――ふたりの“日常”は、形を変えていった。
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