幕間③ 「その距離の、先へ」
初めて“正式な授業”を任された日の朝、エルネシア=フロースは、静かに深呼吸をした。
「……うん、大丈夫。準備はしたし、授業プランも完璧」
けれど、声に出した途端、その言葉に押し負けそうになる自分がいた。
ユグドラ学園の新任教師として、まだ“補佐”の立場が多かった彼女。
だが、ゼリオ学園長の提案により、この日からはBクラスの魔道実技の授業を正式に担当することになった。
「……あの子たち、成績も優秀で、真面目で。──でも、それがかえって難しいのよね……」
そう自分に言い聞かせながら、教室のドアを開けると──
静かな教室。整然とした生徒たち。
「おはようございます、先生」
一糸乱れぬあいさつ。
授業が始まると、質問には丁寧に反応し、指示にも的確に従う。
だが──
(……遠い)
エルネシアは、どこかで“壁”を感じていた。
真面目すぎるほど真面目で、優秀。
けれど、そこには“感情”が少ないようにも思えた。
(ミナト先生と、Xクラスの子たちのあの距離感……。私は、ああいう風に……なれるの?)
授業のあと、エルネシアは資料を抱えたまま、ひとり中庭を歩いていた。
すると──
「あ……先生」
ミナトが、ベンチに座っていた。
「エルネシア先生、授業、お疲れ様です」
「ミナト先生、……少しだけ、お時間、いいですか?」
エルネシアは、腰をかけて静かに言った。
「Bクラスの授業を受け持ちました。でも……どこか、うまくいってない気がして」
「うまくいってない?」
「皆、真面目なんです。ちゃんと聞いてくれるし、指示にも従ってくれる。でも……まるで、教科書の中にいるみたいで。私自身が“先生”としてそこにいない気がして……」
ミナトはしばし考えてから、優しく答えた。
「……距離感って、難しいよね。俺も最初はXクラスに壁を感じたよ。でもさ──」
彼は空を仰ぎながら続けた。
「……大丈夫。悩むってことは、もう“答えを見つけようとしてる”ってことだから」
「え……」
「教師が“理想”を持つのはすごく大切。でも、それを押し付けるんじゃなくて、生徒と一緒に育てていくものなんだと、俺は思うよ」
エルネシアは目を見開いた。
「……“育てていく”……」
「エルネシア先生は真面目だし、ちゃんと“向き合おう”としてる。それだけで十分なんだ。あとは……時間が必要なだけさ」
「……ありがとうございます、先生」
──そのやりとりを、誰かが物陰からじっと見つめていた。
中庭の植え込みの影。制服のエプロンの裾をぎゅっと握りしめて、リューカは息をひそめていた。
(ミナト先生が、あんな優しい顔で……エルネシア先生に……)
胸の奥が、キュッと締めつけられる。
(だめだってば私っ! これは“教育的配慮”なんだから……でも……でもぉ……!)
──そして、その感情がついにあふれた。
「う、うわぁああ!?!? み、見てしまいました……っ!!」
あわてて飛び出したリューカに、ミナトとエルネシアが同時に驚いて振り返る。
「リ、リューカ!?」
「……今までそこに……?」
「はわわ……っ! ち、違うんですっ、ちょっと空気を読んで見守ってただけで……!///」
* * *
その夜、ユグドラ学園学生寮──
「だから、だから聞いてくださいマルタさん! ミナト先生があんなに優しくて、もう、破壊力がすごくて!!」
「へぇ……あのミナト先生が、ねえ。
ふふ、あの人は真面目だけど、不器用だから。あまり深い意味はないと思うよ」
寮母マルタは紅茶を淹れながら、穏やかに微笑んだ。
「そ、そうなんですか……? じゃあ、私のこのときめきは、どうしたらいいんでしょう……っ」
そこへ、ふらっと現れたのはローグだった。
「よう、お茶してるなら俺にも──」
「……あんたは、退場。今は女の子たちだけの時間なのよ」
「えぇっ!? マルタ、ひどくない!? 」
「はいはい、文句は明日、当番の時にでも聞いてあげるわ」
ぶつぶつ言いながら退散していくローグを横目に、リューカが身を乗り出す。
「ねえ、マルタさんとローグさんって、昔は冒険者として一緒にパーティを組んでたんですよね?」
「そうね……若い頃の話なんて、もう夢の中のことよ」
マルタは、懐かしむように笑みを浮かべながらも、話を濁した。
そこへ通りかかったのは──エルネシアだった。
「あっ! エルネシア先生ーーーっ!」
「おお、ちょうどいいところに。本人登場よ」
「えっ? あ、あの……これは……」
そのまま、女子会に巻き込まれていくエルネシア。
「で? ミナト先生のこと、どう思ってるの?」
「え、えええ!? ミナト先生ですか!? ……そ、尊敬は、してますけど、そ、そういうのでは、ないですっ///」
「ふふ、真っ赤になっちゃって……かわいいわね」
ユグドラ学園学生寮の夜は、そんなふうに更けていく──。
* * *
その夜。
自室に戻ったエルネシアは、そっとミナトの言葉を思い出していた。
「“悩むってことは、もう答えを探してるってことだよ”か……」
窓の外を見上げて、静かに頷いた。
「……明日も、ちゃんと、“先生”として向き合っていこう」
そうして、準備中の教案に目を落とすと、ふっと肩の力が抜ける。
「私には、私のやり方がある。……少しずつでいい、あの子たちに、ちゃんと届くように」
教師としての、最初の“壁”を越えるために。
そして、憧れの先へ進むために。
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