第3章 ミミ編『誰の子でもない私へ』

第9話 「誰の子でもない」

「ねえ、教えて。

 “誰の子”でもないわたしは……ここにいて、いいのかな?」


 名前を呼ばれた記憶は、

 たぶん一番古くて、一番遠い。


 誰かの手を握った記憶は、

 たぶん一度だけで、二度と届かない。


 笑ってれば、みんな優しくしてくれた。

 甘えるフリをすれば、だれも怒らなかった。

 ふざけてれば、泣かずにすんだ。


 ──だから、わたしはずっと“ミミ”だった。


 あざとくて、明るくて、なにも知らないふりをする“ミミ”。


 でもね、ほんとは知ってる。

 “ミミ”の奥に、泣いてる“わたし”がいることを。


 家族がほしかった。

 ひとりじゃないって、誰かに言ってほしかった。


 名前を呼んで、頭をなでて、

「大丈夫だよ」って、笑ってくれる人がほしかった。


 わたしは、

 ずっと──


 ここに居てもいいよ。という”居場所”がほしかった──


* * *


 ユグドラ学園の朝は、いつもどこか騒がしい。

 特にこのXクラスでは。


「先生~! 今日もまた授業って聞いてませんでしたぁ!」


 ミミの甲高い声が教室に響き渡る。


「うるせぇ。昨日も言っただろ。今日は、特別指導日だって」


 ミナトが額に手を当てながら、黒板にチョークを走らせる。


「え~? でもあたし、夢の中では先生とデートしてたのにぃ♪」


「その夢は夜に見ろ。あと俺のプライバシーを侵害するな」


 レイラが口を尖らせてミミを小突く。


「お前な……そんな夢見てんじゃねーよ、気持ち悪ぃ……」


「えー? レイラちゃんは夢で先生と何してるの?」


「してねーっつの!!///」


 いつものように、騒がしい。

 でも、ミナトの胸には、どこか安堵に近い感情があった。

 クラスが“教室”として機能し始めている。それが嬉しかった。


「じゃあ今日のテーマはこれだ。『将来の目標』だ」


 ざわ……っと、教室内に小さなざわめきが走る。


「め、めんど……」


 レイラが首をすくめるが、どこか興味ありげだ。


「将来……ですの? また難しいことを……」


 フィリスが小声で呟きながらも、ノートを広げる。


 順に生徒たちが、それぞれの思いを口にしていく。


「私は……お母さんみたいな冒険者になりたいです」


「王都の騎士団に入りたいの。誰かを守れる強さが欲しいから」


「神と……会話できる神殿職員に」


 メルの言葉には、誰もツッコまない。もう慣れていた。


「……将来さ、あたしも“先生”になりたいなって、ちょっと思ったりして……」


 ごにょごにょと、しっぽを揺らしながら言うレイラの姿に、教室がほわっと温かくなる。


「レイラ……」


 ミナトは思わず目頭を押さえた。


(だめだ、年のせいか涙もろくなってる……)


 そして、フィリスが真剣な眼差しで手を挙げる。


「わたくしは……魔導研究をしたいと思っていますわ。人々の暮らしを支えるような、実用的な魔術体系を確立して……“役に立てる”ようなことを」


 その瞳に浮かぶ決意に、ミナトは確かに気づいた。

 ——共鳴を経て、彼女は確かに“変わった”のだと。


 そんな空気の中、ミミがぽつりと呟いた。


「ふぅん……みんな、どんどん先に行っちゃうんだねぇ……」


 その声は軽く、いつものように小悪魔的だった。

 でもミナトには、その笑みの奥にほんの僅かな“影”を見た気がした。


* * *


 数日後。


 聖刻神殿から派遣された神官による特別授業が行われた。

 形式上は“宗教理解と因果倫理”の時間だったが、実際の内容は教義に基づく“道徳”のようなものだった。


「神の書にはこう記されています」


 壇上で語る神官の背後には、静かに立つ神殿関係者たちの姿があった。

 全員が白銀の仮面をつけ、まるで“顔”を持たないかのように沈黙を保っている。


 その中に、ひときわ背筋の通った小柄な少女がいた。

 肩までの黒髪に、無表情の仮面。

 だが──ミナトはふと、その視線の熱に気づく。


 一瞬だけ、仮面の奥の“なにか”が、自分を見ていた気がした。


 講師の神官は聖典を開き、厳かに読み上げる。


「混血の子らは、秩序に揺らぎをもたらす存在であり、魔力の安定を欠く可能性があると。特に、人間とエルフの混血は魔力の偏差が著しく、しばしば暴走の原因となる例が記録されております」


 神官の冷たい言葉と視線が、ミミに向けられたような気がした。


 レイラが牙を剥きかけ、椅子をきしませる。


「……は?」


「静粛に。これは神聖なる教義です」


 神官は無表情のまま、講義を続けた。


 だがその横で、ミミは——

 にこ、と笑った。


「そっかぁ〜、あたしって不安定なんだぁ。じゃあ気をつけなきゃね、どっかに飛んでっちゃったら大変だしぃ☆」


 いつも通りの、明るい口調。

 けれどミナトは気づいた。


 その笑顔だけが、教室の誰よりも……

 冷たかったことに。


 (ミミ……)


 そして、その視線は静かに、誰の目も見ていなかった。


* * *


 その夜、教師寮の共用ラウンジで。


「ミナト先生。少し、お時間よろしいですか?」


 声をかけてきたのは、エルネシア=フロースだった。

 いつもは穏やかな雰囲気だが、今夜はいつになく真剣な面持ちだった。


「今日の授業……やはり、ああいった教義を公然と語られると、胸が苦しくなります」


 紅茶を手に、彼女は椅子に腰を下ろす。


「実は私、地方貴族の出なんです。……貴族とはいっても、名ばかりの家でしたけれど。」


「それでも、家の者には”混血の子”と友達になることを、当たり前のように咎められた経験があって……」


 ミナトは黙って耳を傾けた。


「この国、《エルヴィア王国》は制度としては、多種族共生国家……そう言われてます。でも、王政の中枢も宗教も、やはり“人間”が優遇されているのが現実です」


「神殿の教義も、因果律の安定を名目にしていますが……本質的には、制御のための装置のようなもの」


「……そんなものが、教育の場にまで入り込んでいるとは……」


 エルネシアの瞳には、教師としての怒りと無力感があった。


「俺は……転移者です」


 ミナトが口を開く。


「こっちの世界に来て、何が正しくて、何が偽りなのか……まだ全部を理解できてはいない」


「──それでも

 生徒たちの夢を、導く”教師”で、ありたい」


 その時、廊下からゆっくりとした足音が聞こえてきた。


 ローグ=ランデルが、古びたモップを肩に担ぎ、飄々と現れた。


「悩んでんのか、ミナトの旦那」


 ミナトが少し笑う。


「……バレてましたか」


 ローグは静かに笑い、ゆっくり窓の外を眺めながら言った。


「あんたは教師だろう。先生ってのはな、生徒の全部を救えちゃいねぇ。

 でも……“見ててやる”ことはできる」


「間違えたとき、転びそうなとき、そっと肩を貸してやる。それで充分さ」


「見守って、信じてやれ。今まで通りにな」


 ミナトは、拳を握った。


「……はい」


「俺は、あの子たちの“先生”だから」


 その瞳には、確かな決意の色が宿っていた。


* * *


 その夜、ミミはひとりで寮の屋上にいた。

 風が髪を揺らし、星空の下、笑顔も浮かべずに夜の学園を見下ろしている。


「……みんな、すごいよねぇ……」


 ぽつりと、言葉が漏れた。

 誰もいないと思っていたが——


「ミミ」


 背後からミナトの声がした。


「先生……また、ストーキングぅ?」


「心配してたんだよ──。

 あの神官の言葉……気にしてないって顔だったが、目が笑ってなかった」


 ミミは小さく肩を揺らす。


「そっか。先生、ちゃんと見てたんだ」


 そして、ふいに、地面にぺたりと座り込む。


「……ほんとはね、ちょっとだけ……こわかったの」


「こわい?」


「みんなが先に進んでくのが。あたしだけ、取り残されるのが……」


 その声はかすれ、風に消えそうだった。


「それにさ……先生は、あたしのこと……見ててくれても……ほんとは、誰の子でもないんだよ?」


 ミナトは静かに腰を下ろし、彼女の隣に座った。


「それがどうした」


 その一言に、ミミが目を丸くする。


「……え?」


「“誰の子でもない”なら、俺が見てる。俺が、今ここにいる」


 ミミの瞳に、光が戻っていく。


「先生……ってば、ズルいこと言うんだねぇ……」


「教師ってのは、そういう生き物だ」


 冗談めかして言いながら、ミナトは彼女の頭を軽く撫でた。


 ミミは、ちょっとだけ、目を潤ませたまま、笑った。


「……ありがと、先生」


 月が、優しくそのふたりを照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る