第8話 「私の、完璧じゃない教室」—氷の仮面が砕けた日、少女は初めて魔法になった。
白銀の舞踏会が砕ける音と共に、現実がフィリスを包み込んだ。
まぶたの裏に焼き付いた光の余韻が消えていく。
ゆっくりと、確かな地面を足の裏に感じる。
温かな手の感触が、彼女の指先に残っていた。
その手を、彼女は離さなかった。
フィリスの瞳に、迷いはなかった。
「もう……誰かの顔色を見て、生きるのは……いや……!」
その瞳は、恐れを振り払うように真っすぐだった。
「完璧じゃなくたって、間違えたって……わたくしは、わたくしですの!」
「だから……見ていてくださいませ、先生……」
「今度は、わたくしの魔法で……この霧を、すべて晴らしてみせますの!!」
その声と同時に、空気が震えた。
* * *
——Xクラスの生徒たちは、霧潜獣フォグリカの猛攻に苦戦していた。
「くっそ、見えねぇっ……! フォグリカのヤロウ、霧の中から出たり入ったりしやがって……ッ!」
レイラの目がギラリと光り、獣人特有の嗅覚と反射でフォグリカの尻尾を掠める。
「せんせー! このままじゃ持たないよぉっ!」
ミミが後退しながら叫ぶ。
服は泥にまみれ、頬に傷が一筋走っている。
「エルネシア先生、こっちに結界を!」
「わ、わかってますっ!」
エルネシアは懸命に詠唱を続けながら、生徒たちを守るようにして前に出た。
だが、フォグリカの“感情魔力”に呼応した暴走は止まらない。
咆哮のたびに霧が蠢き、空間が歪む。
(ミナト先生……っ)
心の奥で、彼女は祈るように名を呼んでいた。
そして──
霧を断つように、まばゆい魔力の奔流が走った。
光の中心から現れたのは、
共鳴の果てに戻ったフィリスと──彼女を導いた教師の姿だった。
「フィリス!? 先生……!?」
「え、なにそれ、なにそれ〜!? フィーちゃんが、ミナトせんせぇと手ぇ繋いでる〜!?☆」
「おだまりなさい!!///」
顔を真っ赤に染めながら、フィリスが叫ぶ。
だがその姿は、まるで舞台に立つ貴族のように──
恥じらいさえも、凛として、美しかった。
足元に広がる氷の魔導式。
フィリスの周囲に、冷気が走る。
彼女の身体から、ほとばしる魔力は、氷の結晶となって舞い始めた。
——詠唱が始まる。
「永久の眠りを告げるは、銀白の祝福。
冷たき静寂は、すべての喧騒を封じ……」
その瞬間。
装着された《エデュ・シール》が、きしみ、音を立てる。
魔力の安定、精神の均衡──すべての数値が基準値を超えた。
ミナトが、息を呑む。
魔導装置に、亀裂が走る。
「これは……」
高潔な音とともに、装置が砕けた。
《エデュ・シール》、完全解除。
フィリスの魔力が、制御されたまま、解き放たれる。
氷の光が、彼女の全身を包んだ。
「我が名は、フィリス=フォン・グランディール」
白銀の裾を揺らし、彼女は一歩、霧の中を進み出た。
展開された魔導陣が、足元から天へと幾重にも重なっていく。
「白銀魔導──弧光よ」
その声は、静かだった。だが、確かだった。
「──この距離も、恐れも、計算済みですわ」
魔導式が空に弧を描く。
白銀の氷柱が、交差し、収束する。
巨大な魔力の奔流が、周囲の霧を一瞬で凍てつかせた。
魔獣フォグリカが、姿を現す。
──その目に映るのは、もはや怯える少女ではなかった。
フィリスは、静かに右手を掲げる。
澄んだ魔力が、空気を震わせる。
霧の帳を突き抜けて、白銀の魔紋が虚空に描かれていく。
弧を描くそれは、まるで月光のカーテン。
一筆ずつ、確かな意志で紡がれていく魔導式。
「……我が理(ことわり)に従い、放つわ」
風が凍る。霧がざわめく。
魔獣の気配が、距離を測るように後退する。
「この一撃は、計算通り。誤差は……ありませんわ」
その瞬間、魔紋が閃光となって膨張する。
──《白銀魔導弧光(エルヴィーネ・レイ)》、発動。
沈黙が訪れた。
時間が凍りついたかのような静寂。
空中に展開された魔導式が、一点に収束する。
直後──
純白の閃光が、天地を貫いた。
空間ごと圧縮された魔力が、霧すら砕き、地を穿つ。
フォグリカが咆哮を上げようとした、その口元すら凍りつく。
その声は、撃ち消された。
氷と光の奔流が、影を、恐怖を、飲み込んでいく。
光が消えた後、残ったのは、砕けた《エデュ・シール》と、凛と立つ少女の背中だった。
* * *
残響の霧が、静かに晴れていく。
白銀の光のなか。
凛と立つフィリスの姿が、空に映った。
ミミが叫ぶ。
「ふぇぇ〜……すごかったぁ〜……!」
駆け寄ろうとして──
でも、思わず立ち止まった。
フィリスは、顔を逸らしながらぽつりと呟く。
「べ、別に……褒めてほしいわけじゃないですの……」
「デレたああああああああ!!!」
レイラが叫んだ。
教室に戻ったときより、ずっと元気な声だった。
静まり返った霧の大地に、穏やかな空気が流れ始める。
「……フィリスさん、共鳴してましたよね」
エルネシアがそっと、隣に立つミナトに囁く。
ミナトはわずかに頷いた。
「ええ。……ようやく、彼女自身の心と、向き合えたんです」
「……素敵な、生徒さんですね」
柔らかな言葉に、ミナトはふっと笑った。
「ああ。だから教師は、やめられない」
「……みなさん。
今まで、わたくし……みなさんと、距離を取ってばかりでしたわ。
……ごめんなさい」
一瞬の沈黙。
「フィーちゃん!? お嬢様が……お詫びした!!」
「デレデレター!!!」
「レイラの立場が危ういー!!」
「う、うるさいですわっ!!!///」
真っ赤になって怒鳴るフィリス。
……でも、その瞳は、どこか安らいでいた。
* * *
翌朝、ユグドラ学園。
Xクラスの教室には、早くも生徒たちの声が響き渡っていた。
陽射しが高窓から差し込み、机の上に暖かい光を落としている。
外では鳥のさえずりが聞こえ、遠くで模擬戦の鐘が鳴る。
いつもと変わらぬ日常。
でも、その空気には、確かに昨日までとは違う温かさがあった。
「先生〜、昨日の遠征訓練で全身バッキバキなんじゃない〜?」
レイラがにやにやしながら、椅子に足をかけて振り返る。
「おじさんの筋肉痛は三日後って言うから〜、ミミ、心配だよ~♪」
ミミが追い打ちをかけるように、わざとらしく心配そうな顔をする。
「そ、それ以上言うなああああ!!!」
ミナトが机をバンッと叩いて立ち上がると、教室中がどっと沸いた。
「せんせぇ〜、湿布貼ります? それとも温泉? あ、マッサージは有料ですから~」
「う、うるせぇ! 授業始めるぞ!!」
叫ぶミナト。
でもその声にも、どこか笑いが滲んでいる。
フィリスはそんなミナトを横目で見ながら、ふと口元に手を添えた。
(……こんな教室、ありえなかった。
でも、今のわたくしには……)
視線が自然と、ミナトに向く。
”間違ったって、泣いたって、それでも人は生きていける。”
“俺は、お前をひとりにはしない。”
精神世界でのその言葉が、ふと胸をよぎる。
頬が、ふいに熱くなった。
「フィリス、どうした?」
「な、なんですの、 べ、別に先生なんて、見てませんことよっ!」
「……いや、授業はちゃんと見てくれよ」
ミミがすかさず前に出て、目をきらきらさせながら大声を上げる。
「せんせぇ〜! フィーちゃんが熱い眼差しで見つめてたよ〜!? 完全にデレてるよね!? ねっ、ねっ!?」
「ち、違いますわ!!///」
赤面しながらわたわたと否定するフィリス。
その横で、レイラがバンッと机を叩き立ち上がる。
「色気づいてんじゃねー!! 先生の剣はあたしなんだぞっ!!///」
その一喝に、教室がさらに大盛り上がり。
じゃれ合い、笑い、飛び交うツッコミ。
その中心で、フィリスは静かに目を伏せた。
ふと、自分の胸元にそっと触れる。
(……もう、完璧じゃなくても、いいんだ)
そして小さく、でも確かな微笑みを浮かべた。
そのとき、ミナトと目が合う。
彼もまた、どこか誇らしげに微笑んでいた。
“もう、大丈夫だな”
そう言われた気がして、フィリスは小さく頷いた。
* * *
日が落ち、静かな学園の一角。
ミナトは、一人ベンチに腰掛け、空を仰いでいた。
(教師として、ちゃんと導けたのだろうか)
レイラも、フィリスも。
それぞれに、見えない苦しみがあった。
──もし、”あの時”も、……ちゃんと向き合えていたら――。
「……いや、今は考えるな」
ミナトはそっと、目を閉じた。
風が吹いた。
その風の中に──淡いの銀灰の視線が、隠れていた。
少女は、静かにその姿を見つめていた。
漆黒の長髪。
白と黒の、巫女風の制服。
瞳の奥には、懐かしさと怒り、そして……言えなかった言葉が宿っていた。
「……少し、変わったみたいだね。先生」
風が吹く。
彼女の髪が揺れる。
その表情は──喜びとも、怒りとも、切なさともつかない。
(あとがき)
フィリスは、“完璧じゃない自分”をずっと許せずにいました。
だからこそ、誰かに「それでもいいよ」と言ってもらえたことが、彼女の心を少しずつほどいていきました。
そんな彼女の姿を通して、もし今、あなた自身が「許せない自分」に悩んでいたとしたら──
そのままのあなたを、誰かが受け入れてくれるとしたら、どう思いますか?
🌸そんなことを、少しだけ考えてもらえたら嬉しいです。
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