第7話「私は、迷わないはずだった」—気高き皮肉屋が、心を乱すなど。冗談、ですわね。

 遠征訓練──それはXクラスにとって、初めての“学園の外”だった。


 魔獣領域へ向かう長い山道。朝靄の残る冷たい空気の中、制服の上に支給された防護ケープを羽織った生徒たちが賑やかに歩いていた。


「わーっ、せんせー! これってキャンプってことでいいんでしょ? 肉、焼く? 焼いちゃう??」


「メル、まだ目的地に着いてない。火はあとでな」


「神様は“焼け”って言ってますよ」


「神様ちょっと黙ってて!?!」


 相変わらずの騒がしさに、ミナトは頭を抱えた。けれど、その背中は少しだけ誇らしげだった。


「全員、隊列を乱さないようにしろよ。……って、ミミ、そこの岩に乗るな、危ない!」


「え〜? あたしのポジション、ここが一番可愛いんだも〜ん♡」


「かわいいで落下したら可哀想しか残らないぞ」


 そんなやりとりに、後ろからフォローの声が入る。


「みなさーん、先生の指示は守りましょうねー!」


 明るい声でそう叫ぶのは、同行する新任教師、エルネシア=フロース。


 ミナトより年下の彼女は、遠征研修としてXクラスに同行していた。元冒険者でもある彼女は場慣れしているように見えて、どこかそわそわしていた。


「エルネシア先生って、若いよね〜」


「え、えっ!? そ、そんなに……?」


「ミナトせんせーとの“年の差ラブ”!? えっちぃ〜♡」


「ま、待って、そういうのは、ちょっとっ……!」


 生徒とのやりとりで、顔を真っ赤にして手を振る彼女を見て、ミナトは苦笑する。


 (……少し前までの俺なら、笑えなかったかもな)


* * *


 野営地に着く頃には、日も傾いていた。


 簡易結界で保護されたキャンプ地。テントを張り終えた頃には、生徒たちはすっかりテンションが上がっていた。


「夜這いは禁止な〜! とくにミナトせんせー!」


「誰がすんだそんなもん!?」


「夢の中でお持ち帰りされたらどうしよう〜♡」


「レイラ、ちょっと黙ってなさい」


「なんであたし!?!?」


 焚き火の光が、生徒たちの顔を照らす。

 その中で、ひとりだけ静かな瞳を向ける少女がいた。


 フィリス=フォン・グランディール。


 魔導式のチェックをしながら、彼女は焚き火に背を向けていた。


 静かに、そっと。


 (……浮かれてばかり。緊張感のない人たち)


 そう思おうとしていた。


 だけど。


 レイラがミナトと笑いながら話している姿。

 ミミやルアが、いたずらに笑っている声。

 メルが神と語りながら、空を指差している無邪気な仕草。


 それを見つめる自分の目は、どこか、渇いていた。


 (……“あの子”たちですら、変わったのに)


 自分だけが、変われない。

 そう思った。


 完璧でなければならない。

 それが自分の“存在証明”だと思っていた。


 そう信じてきたはずだったのに。


 ……不安が、胸をかすめた。


* * *


 翌朝。


 霧の立ち込める魔獣領域。


 Xクラスは訓練モードでの任務に入っていた。指揮官役に指名されたのは──フィリスだった。


 ミナトは、静かに言った。


「フィリス。お前に任せる」


「……承知しました」


 内心で何かがざわめいた。


(わたくしが……指揮を?)


 そして──


 (……なら、やってみせるしかありませんわね)


 フィリスは、冷静に、完璧に、指示を出した。

 戦術、索敵、配置──すべて計算し、配置する。

 ミナトはそれを見守りながら、そっと呟いた。


 (フィリス。お前が、仲間を“信じて”動けるか──見てるぞ)


* * *


 訓練は順調に進んでいた。

 だが──


「わっ! 魔力の反応、左っ!」


「違うよ〜、右だよ右〜。ほら、ミミセンサーがピコンって♡」


「あなたたち、ふざけてる場合じゃ──」


 フィリスの声がかき消された。

 突如、霧の中から現れた魔獣。


 《霧潜獣フォグリカ》。


 幻想的な霧に包まれた巨体は、まるで幻のようだった。

 攻撃性は高くないが、恐怖・焦燥などの“感情魔力”に反応して狂暴化する危険な魔獣であった。


 その時、フィリスの心に、”記憶”が蘇った。


──


『傍流の子が、失敗したらどうするのです?ヴァルトライン家の名を穢すわ!』


『フィリス、お前の“評価”が下がれば、グランディール家の価値などないのだ!』


『魔力制御ができない……?』


『あなたには、もう期待はしません。ただ、最低限の成果を──』


 言葉が、呪いのように心に突き刺さる。


 身体が震えた。


 (……また、わたくしが、間違えたら……)


 足が、動かない。


 魔力が、暴れ始める。


 《エデュ・シール》が警告音を鳴らし、赤く点滅する。


 フォグリカが、咆哮を上げた。


「フィリス!!!」


 ミナトが叫んだ。


 その瞬間──


 彼の胸の奥が、熱を帯びた。


 誰かの“心の叫び”に呼応するように、何かが軋む。


 視界の端で、フィリスの魔力が渦を巻くのを見た瞬間。


 ミナトの中に、“もうひとつの視界”が開く。


 耳鳴り。


 時間が、歪んだ。


 彼の右手に、淡い青の魔紋が浮かび上がる。


 フィリスの名を、心の中で強く呼ぶ。


「お前を、見捨てたりしない──」


 そして──


 世界が、光に包まれた。


《導刻記憶──レガシア・インストラクター》


* * *


 精神空間。


 ──白銀の舞踏会場。


 それは現実とは思えないほど、完璧に整った幻想空間だった。

 天井に広がるクリスタルのシャンデリア、どこまでも滑らかな鏡面の床、柱には純白の薔薇を模した彫刻が施され、淡く青白い光がゆらめく。


 その空間の中で、仮面をつけた無数の人物たちが、無言のまま優雅にステップを刻み続けていた。

 音楽は流れていない。

 しかし、その沈黙の調べが、どこまでも冷たく張り詰めた美を支配していた。


 その中央。

 完璧なドレスを纏ったフィリスが、ただ独り立っていた。


 その姿は凛としていた。

 だが、表情はどこか虚ろで、手に持つ銀の仮面が、まるで今にも滑り落ちそうに震えていた。


「……ここは、わたくしだけの場所。

 ——誰も、入り込めないはずですのに」


 その声は、自身に言い聞かせるようだった。


 しかし、重厚な舞踏会の扉が、音もなくゆっくりと開く。


 そこから、ミナトが姿を現した。

 教師の服装そのままに、一歩ずつ足を踏み入れる。

 彼の周囲で、仮面の貴族たちの動きが止まった。

 ただ、顔は向けられないまま、空気だけが凍りついた。


「でも、今は俺がいる。お前が、助けを求めたからだ」


 フィリスは目を伏せた。


「……誰にも、気づかれないようにしていました。

 だから、怖い顔をして。冷たい言葉ばかり、並べて。

 “わたくしが、誰かに手を伸ばす”なんて──そんなの、許されるはずがなかったんですの……」


「完璧じゃなきゃ、生き残れなかったんだな」


 ミナトの言葉は優しかった。

 けれど、その響きは深く、重く、まっすぐだった。


「違いますの。わたくしが……完璧でいなければ、意味がないんです。

 “グランディール家”の子として、失敗など──許されないんです」


「それは、“役割”だろう。……でも“フィリス”の気持ちは?」


 問い。


 沈黙。


 仮面を持つ指先が、小さく震えた。


「……価値が、なくなると思ったんです。

 もし、わたくしが弱さを見せたら。

 失敗したら。

 誰にも振り向いてもらえなくなる。……そう、思ってました」


「フィリス。

 “人間としての価値”と、“他人の評価”は、まったく違うものだ」


 フィリスは目を見開いた。


「……でも……そうは、思えませんの……。

 結果がすべて、評価がすべて、そう教えられて……。それ以外を知らないんです」


 ミナトは、一歩近づいた。


「なら、俺が教えてやる。

 間違ったって、泣いたって、それでも人は生きていける。

 誰かに支えられても、恥じゃない」


「俺は……お前の先生なんだぞ」


 その言葉に、フィリスの唇が震えた。


「……先生……?」


「そうだ。俺は、教師だ。

 お前が怖がってるなら、俺が一緒に怖がってやる。

 お前が泣くなら、ちゃんと傍で見ててやる。

 独りになんか、させない」


 フィリスの手から、仮面が滑り落ちた。


 硬質な音を立てて、鏡の床に砕ける。


 破片に映るのは──泣いていた、幼い頃のフィリスだった。


 まだあどけなさが残る少女。

 父の前で黙って立ち尽くし、母に叱責されても感情を隠していた。

 助けてほしいと言えなかった。

 誰にも、自分の心の内を晒せなかった。


「わたくし……ずっと……」


 フィリスの声が震える。

 その足元が、ゆっくりと崩れ始める。


 鏡の床に、深い亀裂が走る。


 仮面の人物たちは、ゆっくりと姿を霧のように消していく。


「ずっと……間違っていたのかもしれません……。

 強がって……背伸びして……一人で立ってる“つもり”で……でも……ほんとは……」


 ミナトは歩み寄り、そっと、彼女の肩に手を置いた。


「“怖い”なら、そう言っていい。

 “辛い”なら、“助けて”って言っていい。

 俺は、お前をひとりにはしない」


 その言葉に、フィリスの肩が震えた。


 涙が、ひとすじ。


 彼女の頬を伝い落ちる。


 初めて、誰にも見せたことのない、感情だった。


「……せんせい……」


 その囁きのような声に応じるように──


 空間が、再び静かに光に包まれていく。


 けれど、まだ《魂の共鳴》には至らない。


 それでも、ミナトは確信していた。


 今、確かに──


 フィリス=フォン・グランディールという少女の“心”に、触れたのだと。

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