第2章 フィリス編『氷の令嬢と、心の温度』

第5話 「私は、完璧でなければならない」—氷の仮面に咲いた、孤高なる令嬢の微笑み。

 ユグドラ学園、東棟の教室。

 朝の光が斜めに差し込み、白亜の壁を黄金に染める中。


「……よし。完璧ですわ」


 フィリス=フォン・グランディールは、静かに羽根ペンを置いた。


 魔導式演算──正確にして緻密。

 式構造の美しさに、教師陣すら舌を巻く完成度。

 それが、彼女の“標準”だった。


 貴族然としたロングブロンドが肩に流れ、制服すら整然としている。

 その横顔はどこか硬質で、誰も寄せ付けない凛然さを湛えていた。


 ──けれど。


 (……またですの)


 彼女の視線がちらりと斜め前へ向く。


 そこには、”野蛮な獣剣士”こと、レイラ。

 ツンツンの焦げ茶ポニーテール、犬耳、そして──あろうことか、しっぽが揺れていた。


 教室の真ん中で、ミナトに向かってニコニコと笑いかけながら、提出物を渡している。


「ねー、せんせー。これ、今日の分な。褒めるなら今のうちだぞ?」


「はいはい。ありがとな、レイラ。……って、なんで尻尾振ってんだお前」


「うるさいな、これは勝手に揺れる仕様なのっ」


「いや、絶対わざとだろそれ」


「……うるさい。見んな、バカ先生」


 耳を真っ赤にしながら視線をそらすレイラに、ミナトが困ったように笑う。


 その様子を、教室の隅でフィリスは無言で見つめていた。


 (まるで”忠犬”ですわね)


 変化は、レイラだけではない。


 隣には、ミミがぴたっと寄り添い、ミナトの袖を引っ張って甘えていた。


「せんせぇ~、今日もごほうびちゅー、なしなのぉ?」


「ない。絶対にない」


「えぇ~、ケチんぼ~。じゃあ代わりに抱っこしてよ~♡」


「……俺の人権はどこ行った」


 さらに。


「先生、質問です。この問題、選択肢に“全部間違ってる”があるのですが?」


 と淡々と指摘してくるのはアリス=リュミエール。


「え!? ……マジか、いや、これはあの、その……」


「“凡ミス”というやつですか。安心しました」


「アリスゥゥ……お前、笑ってないけど地味にえぐるな……」


 その後ろから、魔力のスパークと共に爆煙が噴き出す。


「先生ー! また爆発したぁー!!」


 桃色ツインテの《ルア=シュレイン》が、黒焦げのマント姿で叫ぶ。


「もう3回目だぞ!? どこ爆発した!?」


「え、今回は机の下!」


「なんで!?」


 さらにさらに──


「先生、いまの煙、天界の風とそっくりですね」


 と、のんびり微笑んでいるのは《メル=カグラ》。


「え、どこ情報?」


「神様に聞きました」


「信仰が重い! てか君、神と通信してるなら魔術試験も通信で受けろ!」


 どっと笑いが起きる教室。


 ……混沌。


 (……カオス、ですわね)


 フィリスは、ため息をついた。


 だが、その瞳の奥には、どこか混じりけのない、羨望にも似た光が揺れていた。


* * *


 昼休み。

 学園内の人気スポット──カフェ《ミルクレイン》。


 看板店員、《リューカ・ミルセリオ》が制服エプロン姿で注文を取りながら笑顔を見せると、男子生徒たちが行列を作るほどの人気。


 ──ただし、本人はまったく自覚がない。


「先生、今日もアイスコーヒーですね? お砂糖、2つでいいですか?」


「あ、ああ……サンキュ」


 ミナトはどこか気まずそうに頷きつつ、視線を逸らす。


「……ところで先生。元の世界には、恋人とかいたんですか?」


 リューカがさらりと聞いた。


「……はっ!?」


 ミナトの顔が真っ赤になる。


「え、いや、あのっ、俺はその……教育に命かけてるというか!!」


 背筋を正し、妙に大声で返答。


「え?……あ、そうなんですね。じゃあ、甘いの多めで♪」


 ふんわりと笑うリューカ。

 その直後。


「……おじさん、赤面して必死ですのね」


 隣の席で見ていたフィリスが呆れたように言い捨てた。


「誰がおじさ──いや、何で聞こえてるんだよ!」


「声が大きすぎますわ。惚気るにしても節度というものがありますのよ」


 ぐさっ。


 ストレートすぎる皮肉に、ミナトの心が一瞬で割れた音がした。


(ぐぅっ……俺、ちょっと心弱ってるのに……)


 教員の威厳、地中深くに沈む。


* * *


 放課後。

 教室に残っていたのは、ミナトとフィリスだけだった。


 机に向かい、採点をしているミナトに、フィリスが声をかける。


「先生。少し、よろしいですか」


「ん、どうした? 授業のことで質問か?」


「いえ。……教師としての、“姿勢”についてですわ」


 ミナトが顔を上げる。

 その目に、フィリスの鋭い視線がまっすぐ入る。


「生徒に肩入れしすぎではなくて? あれでは教師と生徒の境界が曖昧になりますわ」


「……耳が痛いな。でも、そりゃあ俺が“完璧な教師”じゃないからかもな」


「それを開き直りと言いますのよ」


 ぴしゃり、と言い放ちつつも、フィリスの声にはほんのわずかに揺れがあった。


 ミナトは静かにペンを置いた。


「フィリス。お前は“正しい”と思うか? 完璧な教師が、生徒を育てるのに必要な条件だって」


「当然ですわ。教師が生徒の“下”に立って、何が導けますの」


「じゃあ……俺の“失敗”は、全部無意味だったか?」


「…………」


 フィリスの目が、ほんの少しだけ揺れた。


 だがその瞬間──教室の窓に、風が吹いた。


 彼女のプラチナブロンドの髪が揺れ、視線が外れる。


「わたくしには、関係のない話ですわ」


「そっか。でも、ひとつだけ覚えておいてくれ」


 ミナトが立ち上がる。


「お前が“完璧”じゃなくなった時でも、俺は教師を辞めないし──お前を見捨てたりもしない」


 フィリスの肩が、わずかに揺れた。


 けれど、彼女は何も言わず、そのまま教室を出ていった。


* * *


 夜。

 女子寮のフィリスの部屋。


 整えられたベッドメイキング。

 完璧に配置された魔導書。

 すべてが規則正しく、清潔に保たれている。


 窓の外に広がる夜空を見ながら、フィリスは小さく息を吐く。


 誰もいない。

 だからこそ、初めて声に出すことができる。


「……わたくしも、変わらねばならないのでしょうか」


 問いかけに返事はない。

 けれど、自分でも気づいている。


 レイラのような激情。

 ミミのような奔放さ。

 ルアのような無邪気さ。


 それらは、持っていない。

 だからこそ、持っているものは──“完璧”でなければならないと、思ってきた。


「でも……もう、疲れてしまいそうですわ」


 ランプの光が、かすかに揺れる。

 それはまるで、彼女の心のようだった。


 ベッドに身体を沈めたフィリスは、呟くように言った。


「完璧でなければならないなんて……

 誰が、決めたのでしょうね……」


 そして、まぶたを閉じた。


 月明かりが、静かに彼女の寝顔を照らしていた。

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