あの空の彼方に焦がれ

 それから、どのくらいの時間が経ったのかはわからない。無意識の深淵から唐突に現実へ引き上げられた流殞はうっすらと目を開けた。視界いっぱいに広がる夏空が目にしみる。


「目が覚めましたか?」


 声のした方に目だけ向けると、穂叢が今にも泣きそうな顔で流殞を見下ろしていた。穂叢に抱きかかえられていると知った流殞はかすれた声で頼んだ。


「下ろしてくれないか?」


「いやです。わたしはあなたに勝ったんですから、あなたはわたしの言うことを聞かなきゃいけないんですよ」


「そっか……おれ、負けたんだな」


 正直、勝敗の行方などどうでもよかった。戦いの最中に感じた「何か」がようやくわかりかけてきたからだ。充実していたのだ。あの一瞬が。この一瞬を感じるために自分はこの世界に呼ばれたのかもしれない。


 確かに元の世界にいれば、平穏だっただろうが、生の充実を得られたかはわからない。


 理由はどうあれ、灼熱していたのだ。それが終わることに満足している。多くの犠牲を強いて、ようやくここへと至った。生ききった、それ故に後悔はない。


「一つ、お聞かせ願いますか?」


「どうぞ」


 思ったよりも素直に流殞が応じてきたので、穂叢は喫驚して、固まってしまったが、そんな時間はないと思い直し、再び口を開いた。


「どうして、わたしを連れいってくれなかったのです? あなたとならば、わたしも一緒に地獄に落ちてもよかったのに」


「……」


「いえ、これも卑怯な質問ですね。そうしたかったら、わたしがすべてを捨てて、あなたの許へと走ればよかったのですから。わたしは卑怯でした。ずっとそのことを知っていたはずなのに、目をそらして、あなたに全部押しつけてしまった。ごめんなさい。わたしがもっと強ければ、あなたを止められたのに。止められなくても、あなたと一緒にどこまでも落ちられたのに」


「もういいよ。もう自分を責めるのはやめなよ。結局はおれが強ければよかっただけなんだ。君は悪くない。だから、もう泣き止んで、『穂叢』」


「やっと……わたしの名前を呼んでくれましたね、『優人』さん。せっかく……ここまで来たのに……どうして……」


 それ以上は声にならない。涙があふれて止まらない。どうしてこうも世界は無情なのだろうか。ようやくわかり合えたというのに、なぜ引き離されなければならないのか。


 穂叢は流殞の胸に顔を埋め、声を殺して泣き続けた。


 結局、また穂叢を泣かせてしまったことに困惑した流殞はふと穂叢とは反対側に落ちかかる影に気づいた。目を巡らすと、そこには黒依がやはり同じように困ったように傍に寄り添っていた。


「黒依?」


「ああ、旦那様、どうしよう? 傷は塞がったのに、全然旦那様がよくならないの」


「黒依、おまえ生きてたのか? その薬が効いたようでよかったな」


「でも、旦那様には効かないの。どうして?」


「それな、傷には効くが、病には効かないんだ。一度試してみたんだが、だめだった」


「そんな! 病気だなんて、わたし……」


「おまえに知られると面倒だからな、必死に隠してきたんだ」


「やだ……やだよ、旦那様。せっかくわかったのに。あたし、旦那様とずっと一緒にいたい。あなたの傍にただいるだけでいいのに」


「黒依、それは依存だ。おれが一番嫌いな、な。もうおれから解放されろ。おまえならどこででも生きていけるんだから」


「やだあ、そんなのやだあ……あたし、旦那様と一緒にいるの……」


 すっかり子供に退行してしまった黒依の膝に流殞は手を置き、軽く叩いた。黒依はその手を握りしめ、胸にかき抱く。もう二度と離れないように。


「美女二人に泣かれて、逝くってんだから、なかなか悪くない終わり方だよな」


 流殞は空を見た。そうだ、あの向こうからやってきたんだ。だったら、もう帰ろう。あの空の彼方に。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 少年はふと我に返った。


 同時に猛烈な暑さが彼の身体を容赦なく乱打する。向こうのアスファルトが陽炎で歪んで見えた。


「暑ぅ、でもって、重っ」


 期末考査が終わった直後から盲腸炎で入院し、退院できたのが終業式だったため、少年はすべての荷物を持って帰らなければならない羽目になった世の不条理さを嘆いた。


「あれ?」


 少年は気を失っていたわずかな間に夢を見たような気がした。長い長い夢物語だったような気がしたが、目が覚めるとともに忘却の彼方へと去ってしまった。


 忘れてはいけないような気がしたが、また気を失いかけたことで、慌てて首を振りつつ、思い出すのをやめた。


 これから夏休みだ。リア充になれるかどうかはこの一月にかかっていると言ってもいい。一分一秒たりとも無駄にはできないのだ。


 少年は来るかどうかもわからない薔薇色の未来に思いを馳せ、帰宅を急いだのだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 男に永遠の静謐が訪れた。


 虚ろに開いた目はもう何も映さない。鼻はかぐわしい花の匂いを嗅ぐこともできず、口から紡ぐ言葉は何もない。もう彼は誰でもなかった。


 ただ、顔には満足そうな笑顔が浮かんでいた。やりきったものだけがたどり着ける境地に彼はついに到達したのだと、誰もが理解した。


 男の傍で声を上げて泣く女が二人。


 その声が何かの終わりと始まりを告げる合図であるかのように、ただもの悲しく響いた。

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