巨星墜つ
「わたくしの心をお疑いであれば、今すぐお斬りくださいませ。聖上の御手にかかるのならば、本望でございます」
とっさに切り返したが、流殞は心中を見抜かれたのかと戦慄し、身構えた。
今思えば、智仁には長年、政において、古狸の枢密院、現上院の連中と渡り合ってきたが故の洞察力があり、決して威圧的ではないが、深い思慮を湛えた瞳で見つめられると、心の奥底まで見透かされているように感じたものだ。
智仁の庇護下から逃げるように離れたのも、それがいやだったからというのもある。
流殞と智仁の間に重苦しい沈黙が流れた。屋外で降り続ける雨の音が静寂をより一層強調する。これ以上意図を探られまいと、流殞は心を閉ざし、智仁を見つめるその瞳は光を失った。
湿った緊張状態がいつまでも続くかと思われたが、智仁が折れるまでそう長い時間は必要としなかった。病でやつれた顔により疲労感を漂わせ、軽く目を伏せると、ため息をついた。
「流殞……その響きはともかく、名に使われている文字がよくない。どちらにもいい意味合いがないではないか。いまだ其方の心には深い怒りがあるのだな」
多少学があれば、流殞というものの名が持つ意味がろくでもないことがわかるだろう。流し、落とす。その対象となるのはもちろんこの世界のことだ。
智仁が響きを問題視していなかったが、流殞は英語で「廃墟」の意味があり、姓を篠原を肆之原に改めたのも、肆が死に通じ、この世界のすべてを「死の原」にしてやろうとの悪意が根底にある。
流殞からすれば、決意表明をブラックユーモアに包んだというところだったが、諧謔というにはあまりにも毒々しい。
さらに流殞はこの名前をつけるときに一つの賭けをしている。もし、自分の危うさに気づいたものが未来の災厄を未然に防ごうと流殞を害そうとするのなら、それを受け入れようと思ったのだ。
しかし、そんなものは誰一人として現れなかった。来るかどうかもわからない将来の危険を察知して、特定の人物を殺害しようなどと考えるものが極少数だったからというのもあろう。
その中で今、智仁に刃の切っ先を喉元に当てられているというわけである。
一年前の流殞だったら、その手の害意にもう少し過激な方法をとっただろうが、今は韜晦の術をほぼ身につけている。このほぼというのがやっかいなもので、心理戦に長けたものほど、かすかに見え隠れする流殞の本心に引きずられるという利点がある。流殞はそれを自覚し、自在に使うことができた。
流殞はやがて智仁の想像の及ばない化け物に成り果てる。後顧を憂えるならば、智仁はすぐに近衛を呼び、適当な罪状をでっち上げて、流殞を処断するべきだったのだ。
だが、遅かった。
流殞は智仁とのやりとりの間に韜晦のほか、感情の改竄まで行うことができるようになってしまった。
力ない笑顔を浮かべた流殞の面相はかつての「篠原優人」を智仁に思い起こさせた。それを油断と称するのはあまりにも酷な話であろう。流殞がごく短期間でさらなる成長を遂げようなどと誰が思えるだろうか。
「確かに改名した当時は心の底に怒りの感情がありました。しかし、聖上より賜りましたご鴻恩、こんなわたくしを支えてくれる人々、そのすべてがわたくしの頑なな心を溶かしてくれました。今は全力でお返しする番であると思っております。縁起の悪い名を改名しようとは一度ならず思ったのですが、今となっては世間に広く通ってしまったものですから、混乱を避けるためにも、今は控えるべきだとの考えに至りました」
言葉を多くして、真実を隠す。注意深く聞いていれば、「お返し」の部分で不吉な響きを覚えたことだろう。具体的なことは何も言っていないだけに想像の膨らむ余地がある。
流殞は智仁に考える間を与えまいとさらに語を継いだ。
「それに聖上はわたくしなどのことを過大評価しておいでです。大成したといっても、わたくしは所詮商人でございます。商人風情にいかなることができましょうか? せいぜい小火を起こす程度でしょう。ですが、そのようなことをしたら、わたくしどもが提供する商品を買ってくれる人もいなくなってしまいます。わたくしもすっかり商人気質が身につきまして、損をするのがことのほかいやになりました」
能力と性質上、平地に乱を起こすようなまねをしないし、できないと流殞は冗談を交えて語った。
流殞も自身の能力を決して過大評価などしていなかったからこその言葉故に、真贋を見極めることができる智仁でさえ、その言葉に偽りを見いだせなかった。
確かに流殞は嘘をついているわけではない。真実のすべてを話していないだけだ。明暦の大火のように小さな火種から大火災になる場合もあるし、大火が起こるまで、小火を出し続けるのもまた一つの手だ。やりようはいくらでもある。智仁とは異なり、時間はまだ十分にあるのだから、急ぐ必要がないだけの話だ。
流殞の返答を聞いた智仁は安堵したのか、あるいは諦めたのか、どちらとも不分明な態度で頷いた。それで吹っ切れたのか、智仁の顔はどこか清清したかのように濁りがなかった。
「もうこの話はよそう。それで肆之原よ、実は死ぬ前に其方の世界の話をまた聞いておきたかったのだ。夜遅くに悪いとは思ったのだが、そこは死にかけの老人のわがままと思って、勘弁してほしい」
「お気の弱いことをおっしゃいますな。聖上はまだこの世に必要なお方。どうかご自愛くださいませ。わたくしの話などいつでも、どこでも聞けましょう」
「いや、よいのだ。もう予の命脈は尽きた。ああ、そうだ。其方が方々駆け回って手に入れてくれた薬に関しては、改めて礼を言おう。予の死後は国立病院に寄贈するが、よいな?」
「御意のままに」
もう智仁を翻意させることは難しいと見た流殞は短く返答した。死を前にして、恬淡と話すその姿に美しさすら覚えた。それが頽廃の美であるとしても。
流殞は智仁に求められるまま、「元の世界」の話をした。智仁はどうやら「死後の世界」を流殞がいた世界だと見なしているようだ。流殞としても、死ねば帰れるかもしれないという魅力的な考え方には惹かれるものがあった。博打打ちだった頃、しきりに危険な賭に身を投じたのは、その思いが根底にあったからかもしれない。
改めて死の誘惑にとらわれつつも、流殞は典医の宇多田に止められるまで語り続けた。
流殞は智仁が寝たことを確かめると、古河に追い出されるようにして部屋を出た。傷心の表情を浮かべる流殞に文殊四郎が慰めの言葉をかけ、帰りの馬車を用意したことを告げるも、流殞は外の空気を吸って帰りたいと固持した。
陽明門まで送られた流殞は背後で重々しく門が閉まる音がしてから、口の端を急につり上げた。
「これでこの世界を守る術はなくなったぞ。せいぜい後悔するがいいさ。あのときおれを殺さなかったことをな」
「あら、旦那様、とてもうれしそう」
常に傍に寄り添っていたらしい黒依が耳元で囁く。それが福音とばかりに、流殞は朝焼けの中、大宮大路を南へと歩を進めた。
しかし、その三日後、慶化四十五年十一月二日、智仁の崩御の報が伝えられると、流殞は執務室にこもり、定例の取締役会も一方的に中止して、終日誰とも会わなかった。
その様子を盗み見てしまった加登寧はその姿がまるで哲学者が思索しているかのようだったと周囲に語った。
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